打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

日本米の価値、それに感謝

先日、とある夫婦が子連れでアメリカに旅行した時の話。お子さんは途中からサトウのご飯しか食べなくなったそうで。

 

海外生活では、日本の白米が、如何に貴重か、という話です。

 

「子供がサトウのご飯しか食べなくなった!」と聞いた時、私は、大層白米を恋しがっていた時代を思い出した。

 

それは留学時代。

 

海外飯が続くと、サトウのご飯、美味しい白米が恋しくなるという心情はすごくよくわかる。

 

 

---------イギリス回想ここから---------

私の海外歴は2004〜2010まで、単身でイギリスに滞在していた。ホストファミリーと住んだり、寮に住んだり、友達と住んだり、と色々。

 

ホームステイ時代は、飯付きで、人様の家のキッチンは自由に使えないので、日本食を食べたのは2年間で5回位。

 

一時帰国して食べたご飯とお味噌汁がどれだけ美味しかったことか。

 

寮を出て、自炊を始めたら日本食が好きに食べれたか、というと否。

 

貧乏学生であった私は、日本食の食材を買えなかった。日本食はおろか、肉が高くて買えない日も…

 

日本で育つと、米=日本米と思って育ちます。フランス人がパン=バゲットと捉えるのと似てる。

 

イギリスで言う米は、元植民地からのインド米が主流。日本米と全然違う。人参とキャベツ位違う。

 

もう少し日本米に近くて、お値段もお手頃なものを探した結果、たどり着いたのはタイ米だった。

 

タイ米と日本米も全然違うんだけど、ここはキャベツとほうれん草位の違い。そこで妥協していた。

 

「これはほうれん草なんだよ」と暗示し続ければ、キャベツをほうれん草として食べれる…かも。騙し騙し。

 

夏休みに帰国して、母が炊いた本物の日本米を食べた時の感動は忘れない。

 

 

---------イギリス回想ここまで---------

 

日本という国は、本当に米が美味しいし、食事のバリエーションが豊富。一般家庭で、和洋中なんてジャンルを跨いだ献立を組む国は多くはない。そしてお米が美味しい。

 

アメリカに旅行した、日本人の子供が、日本の美味しい美味しい白米を恋しくなったとて、なんの不思議もない。

 

イギリス飯とのお付き合いにも注意は必要だったがアメリカ飯も中々大変。

 

私は一時期、半年に一度アメリカ西海岸に出張してた。その時期にアメリカ飯の大変さを知った。

 

もう、とにかく量が多すぎる。

ゆえ、アメリカ飯はすぐ飽きる。

 

レストランで食べきれなかった残りを持ち帰り、次の食事では冷えた飯をホテルで一人食べる。

 

いくら肉好きでも、500グラムのステーキ出てきたら、食べきれない。スポーツ選手や育ち盛りの中高生ならともかく、25歳を越えた大人には難しいのでは。

 

イギリス人にしても、アメリカの食事の量は信じられないらしい。

 

▲何もしなくても10キロ痩せるor太る

アメリカからイギリスに留学していた生徒もいました。イギリスに住んだだけで10キロ痩せたとか。

車は使わずに歩いて、寮の食事もビュッフェ式の食べ放題ではない。

 

それだけで10キロ痩せた。

 

▲アイスクリームの量

暇つぶしにホテルのルームサービスのメニューを見ていたら、こんな文字を目にした

 

A pint of ice cream

 

 1パイントのアイスクリーム

 

パイントとは、イギリスでよく使われる単位で、主に牛乳やビールの量を表す。1パイントはだいたい500mlで、ビールなら中ジョッキくらいか。

 

500mlのアイスクリームを、一人の人間が、一回の食事で食べるの?

 

ホテルには、冷蔵庫はあっても、冷凍庫はない。つまり、アイスクリームは食べきるしかない。

 

無理じゃない…???アイスってそんなに沢山一気に食べれる??

 

 

 

ハンガリー人の同僚にこの話をしたら、激しく同感してくれて「500mlのアイスって、家族で一週間くらいかけて食べる量だと思ってた」とまで言ってくれた。

 

 

でかいのはアメリカン・ドリームだけじゃない。体も食べ物の量も半端じゃないのがアメリカなのか。

 

 

世界各国、美味しいものは沢山あります。けれども、日本のお米はやっぱりとってもとってもとっても美味しい。

 

 

日本に帰ってきて10 年近く経った今、これを忘れていたのではないか。

 

いつも当たり前に食べているお米に感謝して、「当たり前の日常」に感謝して、ご飯を食べよう。

 

 

そう思えた。

 

いただきます。

 

 

 

 

 

 

政治思想の東洋と西洋

人間には色んな思考があって、全てが表面に出て来るわけでもなし、表現したところでそれが理解されるとは限らない。

 

完全なる理解は目指さなくてもよい。理解しようとする努力があったか、が大事だと思う。

 

そもそも、自分とは違う人間を、理解するなんて、本当はできない。

 

完全なる理解を目指さなくても良い」んじゃないか、という記事の続きです。

 

ちょっとした発想の違いならば、理解することも同調することもできても、政治や宗教というものは、それが難しい。

 

そして、自分に親しい人が、自分とは違う考えであることに対してアレルギー反応すらする人がいる。

 

異国人や赤の他人が違う考え=当たり前、どうとも思わない

親しい友人や血族が違う考え=許せん!

 

ってことはある。

 

 

特に、政治思想は難しい。

そして、更にアジア圏の方が難しいと思う。

 

先日の朝活会で「大好きなお父さんと政治思想が合わない」という話を聞いて、昔、私が考えていたことを思い出した。

 

2004年から2010年にかけて、私はイギリスに住んでいた。その歳月は6年。

 

日本人とイギリス人の政治に対する向き合い方は、すごく違ったという印象を受けた。

 

あくまで私が受けた印象です。

海外に出てみると、自国について違った味方ができるという不思議。

 

日本もイギリスも島国。村社会気質がより強いのが日本。

 

日本においてのイメージ

  • 普段は仲良く付き合っていても、選挙や何かで「自分とは違う政治思想の人」を見つけると村八分にする
  • 上記の理由から、自分の政治思想について、友人や隣人とあまり深く話さない 
  • 友人と政治思想が違うとわかると付き合いにくくなる
  • 政治って、高収入の一部のホワイトカラー労働者たちがやんややんややっているもので、その他の人にはあまり関係ない
  • 実像はともかく、政治家はお金の扱いから女性関係までクリーンでなければならない思想

 

もちろん、これに当てはまらないケースは沢山ある。が、概ねこういう印象。

 

日本で右翼の人と左翼の人が、政治的に対立してるけど、プライベートでは超仲良し!って、聞いたことない。

 

 

反対に、イギリスにおいてのイメージはこんな感じ↓

  • 自分とは政治発想だからといって、村八分にしたりしない。(たとえ、政権の党員であっても、特定の政策に反対であれば、与党席を離れるのがイギリスの政治家)
  • 友人の間でも、政治の話は頻繁にされる(私は理学部の学生で、政治の勉強はしていなかったが、政治は理学部生にとっても、よくある会話内容だった)
  • いわゆる低所得者であっても、しっかりと政治に関心を持ち、友人と討論したりする
  • 政治家=クリーン妄想はない。お金に汚いのは困るが、浮気しようが宗教がなんだろうが、政治という仕事を全うしてくれることのが大事
  • 政治思想が違う親友が存在しうる(遡れば古代ローマ時代のカエサルキケロがその一例)

 

 

政治思想か異なる親友が存在確率は、ヨーロッパとアジアで大きく違う。

 

成り立ちが、法治国家か、人治国家か。これが大きな原因ではないか、と推測する。

 

古代ローマ時代からも、ヨーロッパは法治国家だった。○○さんが言ったから、この人は処刑になるのではなく、法という客観的なものによって裁かれいた。

※法律は万能ではないし、おかしな法律も沢山ありますが、文字に起こされている=客観的になる

法治国家では、法律の否定は、為政者の否定に直接は結びついていない。ゆえに、抗議もしやすかったのではないか。

 

アジア圏、というか中国文明が根っこにある社会では人治国家がベース。「俺が法だ!!」という人が、様々な決まりを作り、その「俺」が死ねば新しい王が「法」になる。

人が法律なわけだから、法律の批判=王の批判に直結。打首が怖くて、おいそれと法律の批判はできない。

江戸時代の日本だって、お代官や上様の愚痴をこぼしてそれを密告されようものなら…と皆恐れていたのではないか。

 

 

こういった歴史的背景からも、アジア圏では昔から、「私は異なる政治思想を持ってます」って言いにくかったんじゃないかなぁ。そして、その伝統というか DNA は今にも生きている。

 

これって政治思想に限らず、よくある話だと思う。私は中学時代、部活の運営方法について、友人とぶつかったことがあります。私は「運営方法について違う意見を持ってる」と明言しただけで、友人の人格否定なんて微塵もしてないのに、なぜかその友人と喧嘩状態になってしまったことがある。

 

意見は人格そのものではない。

私はそう考えていたが、相手はそうではなかった。意見を否定された=自分の人格やプライドが傷つけられた、と捉えていたようだ。私にはそんなつもりは露ほどもなかった。

 

私は法治国家のやり方で、相手は人治国家のやり方で物事を捉えていた。

 

誰に教えられたわけでもなく、私も、その友人も、それぞれの考え方をしていた。根底の考え方が違ったために、揉め事になってしまった。

 

もちろん個人差はあれど、

アジア圏では「意見はその人の一部」と捉え、

ヨーロッパ圏でら、「意見はその人から発せられた全く別のもの」と捉える傾向がある。

 

どっちが良い悪いはない。文化に優劣はないのだから。私は生まれつき「法治国家」的思想で生きてきたから、周りの人間と異なりイジメに会ったりしたのかもしれない。そして、だからこそ、イギリスに行った時になんとも言えぬ心地よさを覚えたのかもしれない。

 

人前で語れるような立派な大政治思想を、私は持っていない。が、この歴史的文化的背景からか、我が身可愛さゆえに、この国で政治思想を語るのは息苦しく感じる。やっぱりここは、思想統制国家なのか。

 

自分以外の人を変えるなんて難しい。自分が変わるのが一番早い。

 

けど、どうしても願ってしまう。

人治国家的思想の人が居てもいい。そっちが多数派でもよい。

 

けど、わかってほしい。たとえ対立意見が私の口から出ても、相手の人格を否定してるつもりなど微塵もないし、交友関係を意図的に悪化させようとはしていないことを。

 

 

さーて。私が黙っておくべきなのか、※アサーティブに行くか。※相手のきもちを汲み取りつつも、自分の希望をニュートラルに伝える。

 

私にはどっちも結構難しい。

LINEの通知をオフにしたら結構快適

LINE、メッセンジャートークアプリ、便利だけど、「疲れる!」って思うことありませんか?

 

スマホってのは、便利なもので、勉強してようが仕事してようがすぐ調べることができる。

 

同時に、同じく自らが集中したい作業の妨げになることも多い。

 

仕事のため、勉強のために何かを調べるためにいじっていた携帯から、「メッセージが届きました♪」ってお知らせが来る。

 

これが多少鬱陶しい。「お知らせ機能」をオフにし、自分が見たい時に能動的にアプリを立ち上げて見るスタイルに変更した。

 

結構快適。これも一種の断捨離か。

 

 

これまで:起きてる間はいつ何時も、お知らせがピコンピコン来る。見たら返信したくなる。私はできるだけさっさと返信したい質なので特に。

 

今:受動的にメッセージを受け取るのではなく、「今返信したい、メール対応したい」という時間に、わざわざ自らアプリを立ち上げて対応する。

 

 

 

私は、不眠気味なので、睡眠中はあらゆるお知らせにて起こされたくない。寝る前にはスマホを「機内モード」にしてます。

日中にもそれを応用した形です。

 

 

「自分が返信できる時だけ、トークアプリを見る」それ以外はお知らせすら来ない。

 

ちょっと勝手に聞こえるかもしれませんが、お知らせオフにした後も、必要なメッセージに返信はしてます。

 

が、返信は今までよりも遅くなるかもしれません。比較的頻繁にチェックする方ですが、今までよりはグンと減ります。

 

 

返信の相手だって、いつだって即レスを待ってる訳じゃない。そういう場合もあるけど、緊急なら電話してくるだろうし。

 

行き過ぎた文明に、自ら振り回されていたのでそれを止めるべく行った設定変更。

 

決して私はネットから離れたり、トークアプリから離れることはないだろうけど、無駄にネットに割く時間を意図的に減らしました。

 

文明の利器は素晴らしい。便利さに振り回されたり、使われるのではなく、自分をしっかり持ってコントロールしていきたい。

 

 

 

 

Disgraceful Japanese mass media

I hardly write my blogs in English, but I thought that this one must be done per my anger towards Japanese media.

This is somewhat translation of this article written in Japanese.

 

Dr Akira Yoshino, a Japanese researcher worked on Lithium ion battery won Nobel prize. It is a wonderful news, especially for me who is Japanese and who used to study chemistry

 

My anger raised by watching how Japanese TV is broadcasting this news. No minutes spent on his actual research work, but waisting the time on tear-calling gossips - how Dr Yoshino and his wife are a good couple. 

 

They literally broadcast solely on the gossip and never explain what his work is and the impact given to the world. 

 

Indeed, it is wonderful to have a good partnership, but he didn't win the Novel prize for it, but did for his research. 

 

By Lithium ion batteries, our lives improved dramatically. Our phones, music players, small devices became lighter and more portable. 

 

Before his work, there were many failures by other researchers. Failures or successes, as intended or per accidents, I appreciate all the works contributed towards Lithium ion batteries which changed our world.

 

Japanese television isn't broadcasting how great this work. Either they think their watchers and hapay citizens aren't intelligent enough to understand this achievement or themselves don't have the intelligence.  

 

An odd thing. People claiming themselves to be intelligent are often not objective enough to notice their own disgrace.

 

ノーベル賞の「報道の仕方」に腹が立つ!

先日、日本人科学者がノーベル賞を受賞されましたね。誠に素晴らしいことです。

 

夫婦で会見されたり、仲睦まじい感じなのは確かに微笑ましいが、やっぱり日本のマスコミはレベルが低いと感じた。

 

なぜって、肝心の研究内容や成果に触れていない。ゴシップ週刊誌みたいな内容をテレビで報道してる。

 

テレビって見るもんじゃないね〜。と。

 

研究内容そっちのけで夫婦婦仲の話に焦点を当てて報道していること。それに結構腹が立ってもいるし、飽きれてもいる。

 

夫婦仲が良いことは素晴らしいことですが、なぜ彼がノーベル賞を受賞したかって、研究実績が素晴らしかったからじゃないか。

 

もし、私が受賞者だったら、日本のメディアには呆れたと思う。

 

修士課程の1年間※だけ、私も研究者だった時代があった。すこーーしだけだが、研究者側の気持ちもわかる。

※日本では2年間の修士課程は、イギリスの大学では修士課程は1年間で修了する。

 

理学部の学生であった私は、分不相応ながらもノーベル賞取りたい!と思ったことがありました。

 

大学時代に、教授たちからノーベル賞についての話をされたことがあります。

 

大学時代のとある授業中。

 

教授:ノーベル賞取ってみたい人?

生徒:ほんの数人だけが挙手

教授:ここで手を上げなかった人は全員嘘つきね。ノーベル賞貰いたかったら、一番大事なのはとにかく長生きすることです。

 

ノーベル化学賞受賞者の名前を冠した講義室でこの話をしていたのはシュールだった。長生きすることが受賞チャンスを増やすとは。

 

そう、名言するかは別として、化学を学ぶ者ならば、ノーベル賞を夢見たことはある。私もそんな一人だった。あー私も若かったなぁ。

 

先が見えそうで見えない、何かを信じて試行錯誤の研究をやり続ける。どんな研究者も、自分の研究に誇りを持っている。我が子を愛するように、またはそれ以上に研究しているのだ。

 

 

リチウム電池がどういった仕組みで、過去の電池とどう違うのか。理系な私は、その仕組みについてあーだこーだ考えるが、それを報道してもピンと来ない人は多いかもしれない。

 

けどね、リチウム電池が出てきたことで、彼の研究によって、身の回りの物が、世の中がどう変わったのか。それは万人にとって理解できる。多くの人が使っている携帯電話だって、リチウムイオン電池のおかげで軽量化された。

 

吉野氏だけではない、過去に数多くの研究がなされて、今のリチウムイオン電池がある。

 

研究内容が評価されたら、それはもちろん嬉しい。それが人の役に立てばさらに嬉しい。そういうものなのではないか。

 

 

理系離れ、研究職ポストがない、研究予算がなかなか降りてこない、学者貧乏。こういった悩ましい問題はある。

 

科学の研究って、特に基礎研究って一部だけ切り取ったら「これが一体何の役に立つの?」って物が多い。形となった時、初めて一般の人にわかりやすい形で「どんな役に立つのか」がわかる。

 

そういう事を、世の中に伝えるのがメディアの役目なんじゃないか、と思う。それを伝えないなんて、視聴者をバカにしてるし、研究者に対しても失礼だと思う。

 

報道の仕方によって、研究内容に興味を持ったり、それに感謝を感じたりする。あの報道じゃリチウムイオン電池に興味の欠片も持てない。

 

 

吉野さん、ノーベル賞受賞、おめでとうございます。

貴方が研究してくれたリチウムイオン電池のおかげで、こうやって軽いスマホでブログを書くこともできます。そして貴方の先人たちの研究への感謝も、決して忘れません。

 

元々期待はしていなかったが、日本のマスコミは酷いと思う。

 

遺憾な想いをそのまま勢いで書きました。

 

皆様はこの報道の仕方、どう思います?

 

 

 

 

 

完全なる理解を目指さなくても良い

インターネット上の朝活、「ただ聞く会」の感想パート2です。

 

話し手の不安、嬉しさ、楽しさといった感情を読み取ることはできる。が、これらの感情の原因や背景まで推し量ることはできない、むしろそれは大いなる誤解を呼ぶ、というのが前回の感想

 

今回は「完全なる理解を目指さなくても良い」という話。

 

同僚、友人、家族、近いければ近いほど、プライベートになればなるほど、相手の「こんな所知らなかった」「理解できない」が増えてくる。

 

接する時間が長くなれば、なおのこと。

 

小さいことであれば、ちょっとした生活習慣(掃除の頻度、食の好み)。大きいことであれば、価値観(子育て方針、政治思想)が合わない。

 

親しくなればなるほど、「なぜ相手はあんな風に考えるのだろう、理解できない!」とモヤモヤしたり。

  

先日の朝活の「ただ聞く会」(傾聴を勉強する会)で聞いた2つ目のお話は、「親と政治思想が合わない」。

 

大好きなお父さんが、自分が支持する政党とは違う党を支持している。そんな政党を支持するなんて、愚かだ!と互いに思っているらしく、いくら説明しても話し合っても、平行線だとか。

 

大好きな家族、いつも理解しあっていたはずの家族が、選挙となると敵味方に別れる。

 

赤の他人が政敵でも全く気にならないのに、家族だともう、それを「なんとかしようと」する。説得して脱政敵を目指す。

 

世代、性別、育った環境、発想、価値観が違う。家族だって、親しい人だって何かしら違う。

大好きな相手だからこそ、自分の考えを分かってほしいし、相手の気持ちもわかりたい。けど、いくら努力しても理解し合えない。

 

ここで私は、思った。

 

お互いの考えに染めることや同化することは、相手を大事にしているに直結しない。

 

相手に同調することと尊重することは全く違うな、と。

 

世代、性別、育った環境、発想、価値観が違う。家族だって、親しい人だって何かしら違う。

 

だから、どんなに仲良しでも、違う考え方になることは自然なこと。

 

大好きだから、大切だから、相手の気持ちを、考えを、全部わかりたい。  

 

んー…その気持ちはわかるけど、完全なる相互理解を目指さなくても良いと思う。

 

他の人が考えていることは、わからない。最終的には、わからないことの方が多い。

 

完全なる理解を目指すよりも、「相手を理解しようとする気持ちとその行動」が大事なんじゃないかな、と思った。

 

価値観の違う人間の支持政党を変えるのは、結構難しい。いくら親しくても、仲良しでも。

 

完全に理解しあえなくても大丈夫。伝えようとした、という所に、ちゃんと愛がある。

 

私がこう思えるのは、「親も人間であって、自分とは別の感覚や価値観を持っている」と凄く強く実感できているから。そうだとしても、そこにちゃんと愛はある。

 

親の発想内でしか生きてこなかったら、きっとこんな風には思えなかった。

 

完璧主義者だった私が、少しずつほぐれて行くのを感じる今日この頃です。

 

PS 政治思想の共有って難しいと思う。特に、アジア圏では。

イギリスに住んだことにより見えた、東洋と西洋の政治に対する思想の違いは、またいずれ書きます。

 

 

 

 

感情を読み取れても、その原因まではわからない

朝活ってしたことありますか?

 

私は昔から朝が弱く、小中学校時代は、遅刻ギリギリまで寝てるし、朝練がある部活には入らなかった。

 

そんな私が、先日インターネット上での朝活会に参加した。すっぴん✕パジャマで。

 

「ただ聞く会」

 

傾聴とはなんぞや、を皆で学ぼう!という主旨の会にて、今回私が得たものとは何か。2 回に分けて紹介します。

 

・感情を感じ取れでも、その原因まではわからない(←今日はコレ)

・完全なる理解を目指さなくても良い(次回)

 

 

 

人間は、どことなく話している人の感情を感じ取ることはできる。

でも、その感情が生まれた原因や背景はわからない。

 

 

Zoomというウェブ会議を使って、15人くらいが集まり傾聴を実践してみた。

大まかにはこんな流れ。

 

 

① 【話し手】特定の人が「最近あった気になること」を1分程度話す。

② 【聞き手】①の時間は、周りの聞き手は質問もせずに聞くことに集中する。内容よりも、話し手の表情や動きに注目する。

③ 【聞き手】「話し手からどんな感情を読み取れたか」を聞き手がシェアする(楽しい、嬉しい、不安、怒り、とまどい、等)

④ 【話し手】③で出てきた感情リストの中で、特に当てはまるものを選ぶ

⑤ 【聞き手&話し手】④についてディスカッションする

 

 

今回は私は聞き手役でした。

 

話し手からは「不安」を感じました。

 

最近の仕事での出来事を、話し手の方は語っていました。その中で伝わってきたのが不安。

 

話し手は不安を感じていたし、聞き手側にもそれが伝わっていた。

 

 

私はここで、「お仕事に対して不安があるのかな」と推測した。同じ推測をした、他の聞き手さんもいた。 

 

これが、大間違いだった。

 

話し手さんはお仕事自体はとても大好きで、自信を持ってやっているそう。話し手さんが感じていた不安は「1分も自分1人で、どうやって何を話そう…」という不安だった。

 

仕事自体の不安は0、「ウェブ会議というこの場をどうしよう」不安が1。

 

この件での私の学びは

 

  • 相手の観察に意識を集中すれば、ウェブ会議であっても、「私がどんな感情を持っているのか」は伝わる
  • 相手が持っている感情がわかっても、その感情がどこから来たものなのか、原因や背景の憶測は大いに外れる

 

であった。

 

相手の感情がわかったところで、あれこれ勝手に憶測して、「きっと仕事が不安なんだろうな〜」なんて思い続けていたら、それは大きな誤解。

 

 

相手の感情がわかったとしても、その原因や背景はわからない。

 

他の人のことはわからない。

だから、知ろうとすることが大事。

 

 

勝手な脳内憶測をやめようと思えた、素敵な朝活の時間でした。

「アンチエイジング」に違和感

アンチエイジング」という言葉が巷に溢れている。

 

美容液、サプリメント、あらゆる美容・健康分野で出てくる。  

 

私はね、anti-aging (年齢に逆らう)のではなく、well-aging (良い年の取り方)を選びたい。

 

アンチエイジングも、ウェルエイジングも、運動したり、体によい物を食べたり、遣ることは同じかもしれない。

 

何が違うって、決定的に、心持ちが違う。

 

「今の状態がダメだから、対策しましょう」という「現在の自分の拒絶」から始まるもの。それに違和感があるのかもしれない。

 

 

生き物は必ず年をとる。時と共に生きる限り、不可避かつ自然なこと。

 

「アンチ」エイジング、というと、その自然現象を受け入れていない。若いままの自分でいたい、いなければならない、という一種の強迫観念があるのはないか、と感じる。

 

若さにしかない魅力がある。それは事実。

老いにしかない魅力もあるのはないか?

 

 

イギリスに住んでいて感じたこと。「女性は若くなければ」思考は、アジア圏のが根強い。

 

年取ると女扱いされなくなる感じ?ヨーロッパでは、そこまでではなく、何歳の女性もレディー扱いされてた。

 

相手の年齢関係なく(場合によっては性別も関係なく)、イギリス紳士は紳士的だった。幼くても、若くても、中年でも、おばあちゃんでも。

 

「男性がレディー扱いしてくれる」というだけではなく、「女性も自分自身をレディー扱いしている」からこそだと思う。たとえ、いくつになっても。

 

90代のエリザベス女王と、自分を大切にしていない20代、比較したらどう考えても女王のがレディーです。

 

私の日本での親友が教えてくれたエピソードが一つ。とあるフランス人女優の一言。

 

「なぜ貴女はシワ伸ばしをしないのですか?」

「何を言ってるの!これ(シワ)は私が生きていたという大切な証なのよ。そんなことしないわ!」

 

ボトックス、なんちゃら注射、整形、今ある美しさを維持する方法は、いくつもある。  

 

むやみに「反対!」とは言えない。科学の力を使って、より自信が持てるのも良いことだと思う。

 

今はそうでなくても、私もいつか、「このシワ気になるなー…」と、コンプレックスを持つかもしれないから。

 

でも、私は、なりたい。

 

「このシワは、私が生きてきた大切な証だ」と言える女性に。

 

ふと、炊事を頑張りシワシワになった手入れしていた母の手を思い出した。食洗機がない時代、母の手は荒れていた。

けど、その手を汚いとか老いてるとか、思ったことはなかった。

 

もちろん、シワやシミは少ない方が良いかもしれない。

 

好まざるものが、自分の体や顔にそれが出てくる。

 

それでもなお、自分を美しいと思えるようになる。それって理想だな、と思う。

 

この理想の心理「内なる美」って、外見的な美を通って始めて辿り着けるものだと思う。

 

今まで何の手入れもしてこなかった人が、年を取ってシミやシワが出て、「自分を愛おしい」って思えない。

 

前述のフランス女優だって、それはそれは美しいに違いない。だって女優だよ?!シワが現れる前から、自分を慈しんでいたはず。

 

好まざるシミやシワ、脂肪が体に現れて、それによって自分と向き合う。一度、奴らを排除しようとする。

 

 

一般的に普及している美、個人的に思う美、それに自分を近づけていく。近づいた時に「シワだって美しいかも」と思えるようになるのではないか。

 

たとえば、ピカソ

ピカソの絵はかなり独創的だが、若い頃は写実的な絵を描いていた。それを通って、ピカソ独自の美意識や芸術意識が出来上がっていった。

 

絵に限らず、なんだってそうかも。

 

一旦、どこかの美、誰かの美、を求めて、それを達成した・近づいた時に、これとは違うものだって、「なんだって美しいのではないか」と気付けるのではないか。

 

 

「どんな自分だって、シワシワだって美しい」

 

そう思えるようになるために、何をしたら良いのだろうか。

 

アンチエイジング、ではなく、ウェルエイジングのためにできることを考えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マンション内「ご自由にお持ちください」袋

私の住むマンション内で、良い習慣が定着化してきたのでご紹介します。

 

 

例えば、子供が使わなくなったおもちゃ。

「ご自由にお持ちください」袋を用意し、マンションの共用スペース内に設置。

 

私がやり始めたら、他の人もやるようになった!!なんだか、嬉しい。

 

そもそもなぜ、「ご自由にお持ちください」習慣をやるようになったか。

 

■断捨離したい

過去何度か書いてるとおり、私は物を減らしたい、断捨離したいのです。家をもっと広々と使いたい!

 

■赤ちゃん用品が必要な時期は短い

赤ちゃん用品というのは、「その時、とても便利or必要だが、すぐに使わなくなる」という使用寿命が短い。

二人乗りベビーカー、ベビーバス、哺乳瓶、赤ちゃん用の寝袋、小さな小さな服。

 

どれもすぐに、私の家でのお役目は終えて、友人に譲ってた。

使用期間が短いだけに、これがピンポイントで必要な友人を探すのって結構大変でもあった。

 

 

■マンションの住人は、母数が多いので、物の嫁入り先も多い

月齢ドンピシャの赤ちゃんが居る都内の友人は、そう多くない。が、私のマンション内には割といるのだ。

 

メルカリで売れば?みたいな意見もあるんだけど、梱包とか結構手間で^^; 自分も色んなものを譲って頂いてるし、

できればご近所さんや親戚などに渡せる方が楽で。

 

自分には不要になったもので、儲けたいってあんまり思わないんだよね。そりゃあ良いお小遣い稼ぎかもしれないけどさー、早く手放したい!が常に優先してる。

 

■共用スペースから「ご自由におとりください」は、貰う方も気楽

「誰々に譲っていただいた」と思うと、その人に借りを作った様な気がしてしまう。そんなこともある。

また、仲良しでない、エレベーターですれ違う程度の相手から物を貰うのって、なんだか遠慮したくなる。

 

いくらママ友ナンパ率が高い、同じマンション内とはいえ、全員とは友達になれない。マンション内シェアリングエコノミーを発展させると、やっぱり今回のパターン!

 

 

共用スペースに置くと、元の持ち主も、誰が拾ったのかも、わからなくなる。

 

それが良いのです!!誰かに貸しを作った気分にもなりたくないし、誰かに借りを持たせたりもしたくない。

 

余計な事は考えずに、私が手放したものを、気持ちよく使ってほしい。

 

今までは、仲良しのご近所さんや知人が、物の嫁入り先だった。

 

今は、たとえ顔見知りでなくても、同じマンションに住んでることで、彼らも物の嫁入り先になる。

 

 

 

私以外の人も、使わなくなったおもちゃを置いていくようになった。先日は百科事典が置いてあった。中学生くらいのお子さんがいるのかな。

 

 

 

大抵は、数日程度で、物たちが新しいお家を見つける。

 

物も、手放す人も、貰う人も、余計な罪悪感を感じない。

 

全員ハッピー。

 

お金が介在しない、このご近所物々交換、物資寄付。

 

私が始めたことが、ここに広まって、私は、勝手に、とっても良い気分♪

 

手放したものだけ、何かを手に入れる。

 

それは形があるものかもしれないし、ないものかもしれない。

 

貴方は何を手放しますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「当たり前って何?」

答えるのが難しい、子供からの質問シリーズです。長女れーちゃん(4歳)だからこその感性なのか。子供ってみんな、こういう事を不思議に思うのか。

 

当たり前って何?

面倒くさいって何? 

グライダーって何?

 

あなたなら、4歳の子相手に、なんて答える?

 

自分が「当たり前」のように知っている事が多くかある。それを全く知らなかった時代が、自分にあることは、忘れている。

 

色々と面白いので、れーちゃん質問録として、ブログに残そうと思う。

 

・当たり前って何?

→毎回言わなくても、お願いしなくても、わかって欲しいこと。たとえば、れーちゃんはお風呂を出た後に、喉が乾くからお水を飲みたいでしょ?だから、お水のコップを用意してほしいでしょ?

 

・面倒くさいって何?

本当は出来るんだけど、やりたくないなー、ってこと。れーちゃんも毎日、お洗濯物をたたんで引き出しにしまうでしょ?できるけど、やりたくない〜って言ってる時もあるでしょ。あの時の気持ち。

※この説明をしたら、「え〜、れーちゃん面倒くさい〜」と自分から言うようになって、こりゃマズイ、と思ってるところ。

 

・グライダーって何?

鳥みたいにこうやって、こうやって、こうやって飛ぶんだよ〜。

※大袈裟なジェスチャー付き。結構苦しい。

 

自分が知ってる「当たり前」は、隣の誰かには「当たり前」ではない。

 

イギリスに留学している間は、ほぼ毎日、これを痛感していた。留学生というマイノリティであった私は自分が知ってることを、考えていることを、一生懸命説明しなければならなかった。しかも、拙い英語で。

 

こういう事って、最近忘れてた。

 

日本に帰国してから10年近くが経つ。いくら変わってるとは言え、日本人として日本に暮らしている。圧倒的多数なのだ。

 

 

拙い言語力でも、頭をフル回転して理解しようとし、「これ、なんだろう?」と思ったことは素直に質問する。

 

4歳のれーちゃんの姿勢は、留学中の私と同じだった。

 

新しい言語、新しい分野を学ぶというのは、何においても、この姿勢で向かうことで、道は開けるのかもしれない。

 

 

 

 

SNS整理

こんまり流片付け(未完了)後でも、捨てるべき物たちが沢山出てくる。

 

生活してれば、ゴミは必ず出てくるし、少し見直すと「これを持っていなくても、私の人生は楽しい」と思える物が沢山ある。

 

私は時たま、「捨てたい!」「整理したい!」「掃除したい!」スイッチが入る。

 

今回は、服・文具・食器などを断捨離だけではなく、Facebookも整理しました。

 

SNS疲れしてる人にオススメなのは、「フォロー解除」です。

 

今日、めっちゃ色んな人・グループ・ページのフォロー解除をしました。

 

まず、私のSNS遍歴を。

 

私は2006年からFacebookを使っています。当時はまだ、英語圏の現役大学生のみが会員になれるサイトでした。

 

数十人の友人だけで繋がり、最初は楽しかったんです。途中、何だか嫌になって、ログインしない時期がありました。勉強の邪魔だし、時間の無駄遣いが多いし、Facebook上の友達が増えすぎて誰が誰なのか把握できなくなったり。

とある友人は「passive stalking」(受動的ストーキング)なんて言ってました。

 

イギリスの大学を卒業して、2010年に帰国した後は、Facebookをまた使うようになった。イギリス時代の友達と繋がり続けるために、最高に便利なツールだった。

 

○○ちゃん、引っ越ししたんだ。

☓☓くん、世界旅行中なのか。

△△ちゃんは今、ウィーンに住んでるんだ。

 

手軽に友人の近況を確認できるのが便利だった。

 

が、

 

最近はそれ、見にくかった。変なニュースとか、レシピとか、しつこすぎる広告とか、そういうのばっかり流れてくるようになった。

 

ちょっと「いいね!」したページから謎のフィードが流れて来て、友人の情報はかなりスクロールダウンしないと見えない。

 

SNSって、「自分ってキラキラしてるでしょ」って内容の投稿が多い。それを見て楽しい時と、疲れてしまう時がある。

 

この疲れが嫌なので、以下をフォロー解除した。

 

  • 二度と見返さない情報が流れてくるページ
  • 見てて疲れてしまう投稿が多い人のフォロー
  • 何年も更新されていないグループ脱退
  • ネガティブ情報しか受け取れないグループ脱退

 

友達解除…も5年に1回くらいやります。が、判断に頭を使うので、今日はやりたくなかった。

 

友達解除するほどじゃないけど、関わりを薄くしたい人のフォローを解除すると、大分スッキリします。

 

どう感じるか?は全て私の受け取り方の問題。投稿者側の問題ではないのはわかっています。

 

このご時世、情報過多だから、目に入ってくる情報を減らすのって大事かも。SNS完全辞めるほど思い切れないので、フォロー人数を減らすという手に出ました。

 

SNS疲れしてる人に、オススメです。

 

何を投稿するのかは、投稿者本人の選択。

何を見るのか、も閲覧者の選択。

 

何を見るか、見ないか、自分で決めませんか?

 

極力喋らずに居たら、比較的平和だった

風邪なのか、エアコンに当たり過ぎなのか、声が出なくなりました(T_T)

 

どうやら、一年弱前にも同じような現象があったらしい。

 

日常的に使う声が、使えなくなることで、の気づきがある。

 

去年の教訓は「口は災いの元」。

今年の教訓は「こだまでしょうか、いいえ、誰でも」。

 

「こだまでしょうか」という結論に至った経緯を綴ります。

 

毎日毎日、かわいい子供たちが帰ってくると、それはそれは我が家は騒がしくなる。ときには5秒に1回姉妹喧嘩が発生するし、ワカメちゃんの2歳児らしいイヤイヤもある。

 

子供たちはかわいい。かわいいんですよ。

でも時々思うのです。

 

うるさーーーい!!

 

と。

 

 

仕事で、お客様を前に、喋らない訳には行かないので、仕事のために喉はできるだけ温存するため、家では極力喋らないことに。

 

主人やれーちゃん(4歳)には筆談が通じるが、ワカメちゃんには無理。とにかくジェスチャーで頑張った。

 

極力しゃべらない、ヒソヒソ声で話す。

 

子供たちが何かやらかしても、それを注意するよりも、自分の喉の温存を優先した。(ベトベトのたらこスパでおにぎりを作ろうとしたれーちゃんには「やめて!」と注意しました^^;)

 

https://www.instagram.com/p/B2WiI6OlFLi/

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極力しゃべらない、ヒソヒソ声で話す。

 

そしたら、あら不思議。いつもほど「うるさーーいい!!」と感じなかった。

 

  • 理由1:実際にれーちゃんやワカメちゃんの口数が減った 
  • 理由2:私自身がいつもほど気にせずに済んだ

 

理由1:実際にれーちゃんやワカメちゃんの口数が減った 

実際に聞こえてる音量のデシベル数や、声を聞いている秒数が減ってた。

 

れーちゃんも、ママの真似をして、ヒソヒソ声で話したり、良い意味で口数が減ったり。

自分の喉はかれてないのに、れーちゃんは共感力が高い子なんだなー、なんて思ったり。

 

いつもペーラペラペーラペラと息継ぎの間も無く喋り続けるワカメちゃんも、今日は息継ぎをしていたように見えた。

 

 

理由2:私自身がいつもほど気にせずに済んだ

私の優先順位は、昨日今日はとにかく「私の喉の温存」。姉妹喧嘩の仲裁は二の次。

 

それが案外良かったらしい。

 

いつも、「早く喧嘩を止めなきゃ!(泣いてるし、うるさいし)」って焦ってたんです。だから、イライラしてた。よほどの事でなければ、姉妹喧嘩は様子を見る方が良い。

 

「仲良くしなさい」なんて通じないって、自分で言ってたのになぁ…、自分事となると達観も客観視も難しくなる。

 

兄弟喧嘩ってのは、結構どうしようもなく些細なことから始まり、喧嘩のきっかけも忘れて揉める。そして喧嘩していたことなんて忘れて、二分後には仲良く一緒にイタズラしてたり。

(今日は、お名前スタンプをおでこに押したらしく、油性インクでれーちゃんのお名前がくっきり書いてあった💦)

 

とにかく「喉☆命!」だった私は、喧嘩の仲裁よりも静かに見守っていた。意外にも喧嘩している時間は短く感じた。

正直、喧嘩していることよりも、自分の喉が気がかりだった。

 

献身的で自己犠牲。それが母親の理想像的に思えてしまうことがある。が、「自分の喉の温存」を優先した私は、よほど落ち着いた母親だったと感じる。

 

お出かけ先と同様に、自分の体や気持ちを優先した方が、結局子供たちにとっても良いのかな、と思った。

 

これは、自分の気持ちを圧し殺したり、身体的に無理したりしなくて良いって意味。

子供の授業料払わずにパチンコ行ったりするような、自分の「優先」はイカンと思う。子供に実害があるし、それは「優先」ではなく「ないがしろ」。

 

「喉が痛いから極力喋らない」

「疲れたから、今日の夕飯はお弁当を買おう」

 

なんて、子供に大きな実害のない様なことは、親自身を優先しても良いんじゃないか。

 

声が枯れることも、極力喋らないことも、想定外で不便。が、結果として、ママの怒り声を聞く時間も減り、子供たちにも良かったんじゃないか。

 

 

いっっつも余計な事ばっかり喋ってる。

もっと口数が少なくても、なんとか通じる。

毎日こんなに喉を使ってる。

喋れるってありがたい。

 

声を失くして、こういう事に気づく。こんな当たり前の事を思い出すために、喉の痛みを通して体が教えてくれたのかな。

 

今日の夜を迎えて、ホッとしている。絶対的に喋らないといけない仕事は週明け以降。その間に、回復したい。

 

 

温度変化が激しい季節です。皆様もお体ご自愛ください。

 

一週間、お疲れ様でした。

 

 

 

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