打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

金のつづらと銀のつづら、貴方はどっち?

日本昔ばなしは好きでしたか?

 

幼児を2人抱える今、日本昔話や絵本を読むことが多い。そして、主人の日本昔話に対する知識が薄すぎる事が笑える。

 

留学期間が長いとはいえ、17歳までしっかりと日本で育った私は、日本昔話葉沢山知っている。主人はそれ以上に日本に住んで育ったはずなのに、なぜか日本昔話やおとぎ話は、なぜか知らないものが多い。

 

  • いなばの白うさぎ
  • 猿蟹合戦
  • したきり雀
  • おむすびころりん
  • こぶ取り爺さん

 

名前を知らない、またはストーリーを知らない、お話が沢山あるそう。(桃太郎や浦島太郎は知ってるらしい)

 

あまりにも日本昔話を知らないので、先日聞いてみた。

 

「したきり雀って知ってる?!」

 

「知ってる知ってる!『金のつづらと銀のつづらでしよ!』」(ドヤ顔で)

 

 

いや、それを言うなら「大きなつづらと小さなつづら」で、「金の斧と銀の斧」だよ。。。ごちゃまぜになってる。

 

 

主人は日本昔ばなしを、あまり知らないかもしれない。(というか、忘れてる?)が、彼は空気の読み方とか、婉曲表現とかを知っている。私が苦手とする日本的なコミュニケーションも、彼はしっかりとできる。

 

日本昔話の知見よりも、そっちのほうが、生きるには役立つのではないか。

 

30過ぎて、やっと、4歳の娘から、婉曲表現の受け取り方(つまり、スルーする)を学んだ私。空気が読めない分、知識の蓄積と記憶の維持だけは得意。これもきっと、神様の采配に違いない。

 

 

金のつづらと銀のつづら。

金の斧と木の斧。

本や物語などの暗記力と、空気を読む力。

 

貴方なら、どっちを選ぶ?

 

結局、私にとっての分相応は、空気読み力ではなく、暗記力と分析力※※らしい。

※※空気の分析は除きます

 

真のファンとは(一緒にライブ行ってくれる人募集)

好きな芸能人っていますか?

 

幸せなことに、私には何人かおります。

 

最近、「真のファンとは何か」を考えるようになった。

 

 

歌が上手いから、カッコいいから、かわいいから、好き。

 

そういうのではなく、「〇〇じゃないけど、なんか好き」っていうのが真のファンなんじゃないか、と。

 

あの人は歌が上手いからライブ行ってみたい!

 

と思うのは普通なことかなー、なんて。例えば、B'zや安室奈美恵さん。あの世界観と歌唱力には惹かれます。

 

が、私が最近惹かれている歌手は、正直このレベルの歌唱力ではない。彼よりも上手い歌手は沢山いる。音程も完璧とは言えない。

 

けど、彼の歌を、なんだか聞きたくなってしまう。

 

彼か作り出す世界観とか、表現力に惹かれるのか。※本人はイケメン路線で売りたくないようですが、個人的に顔が好みではあります

 

アイドルを辞めて、大きな事務所を辞めて、ソロで動き出した彼を、応援したい。

 

 

それはこの人

 

1/28 1/29に幕張メッセでライブするらしく、すごく行きたい!!

 

誰か一緒に行ってくれる人募集します。もしご興味あればコメントやメッセージください。

 

体力に自信がない私は、ライブの間の立ちっぱなしに耐えられるのか…。

 

 

ストレートな母が、娘婉曲表現を理解できるのか

貴方はストレートな人ですか?それとも婉曲表現の人ですか?

 

私は、超が着くほどストレートな人です。その感覚で、長女れーちゃん(4歳)の発言を聞いて行動していたら、ちぐはぐになることに気がついた。

 

たとえば、「みかん食べる?」と聞かれたが、食べたくなかった時。貴方はどう断りますか?

 

 

私はストレートに「いらない」と断る。みかんは大好きですが、もし嫌いな物を進められたら「それ嫌い」とも言う。

 

でも、れーちゃんは違うらしい。

 

れーちゃんは頻繁に「明日食べる」と言う。

 

私はこれを信じ、次の日に話題になった物を出すと「要らない」とか「明日食べる」(再び)とか言われる。

 

すると私は

 

「えぇ!!?あなた昨日『明日食べる』って言ってたじゃん!!だから出したのに!!」

 

これでかなり怒ってしまうこともあった。

 

だって、れーちゃんの発言を覚えていて、要望を叶えようと動いたわけですよ!!それが「いらなーい」とか文句言われる〜!!(正直子育てってこんなことばっかりなので、毎度毎度イライラしたり怒るのはバカらしいが、毎回それを上手く飲み込めるわけでもなく)

 

このやり取りを繰り返すこと10回位でしょうか。私もとうとう学習したのです。

 

れーちゃんの『明日食べる』は『要らない』という意味だと言うことを。

 

ゆえ、「明日食べる」と言われた食べ物を、次の日にわざわざ用意することを辞めた。それが解決策だった。

 

れーちゃんにしてみれば、「〇〇食べたいなんて頼んでもいないし、好きでもない物なのにママが勝手に用意して、『イラナイ』って言ったら怒られた」構図なのです。れーちゃん側にしてみれば理不尽。(母親である私側にもある程度の理不尽さは否めない気も…しなくない。。。。)

 

私が用意したものを食べない。そんなことは慣れっこではある。私が怒った理由はここじゃない。

私が怒ってしまった一番の理由は、「昨日の貴方の発言と行動が一致していないじゃない!」。ま、捉え方によっては「嘘ついてる!」とも解釈してた。 

 

れーちゃんは嘘をつく気なんて、露ほどもなかったでしょう。彼女の断り方というのは、婉曲表現なのだ、とやっと理解できたのが今。

 

 

私は、およそ多くの人には信じがたいほどストレートで単純な人。

 

「どんな変化球が来ても、正面まで回って受け取って、『これはストレートだ!!』と言い張るタイプだよね」

 

 

と、その昔同期に言われたことがある。これを聞いた他の同僚も「本当にそうだね」とゲラゲラ笑ってたなぁ…(※日本語に向いていない性格です)

 

 

娘という私にとても近い存在。れーちゃんの性格は、私と結構似てるところもある。が、婉曲表現か、直接表現か、は大いに違う所。

 

そういえば、2年前のブログでも書いていた。れーちゃんは2歳児時代だって女の子!なコミュニケーションを取っていたことを

 

似てるけど、違う人間。そんな小さな大人のれーちゃん。

 

 

 

直接的に頼まれていないことを勝手に忖度して、先回りしてやってあげる。

 

それって、もしかしたら優しいお母さんなのかもしれない。

 

が、我が家の場合は、子供に対してはそれをしない方が、ストレス溜まらない気がする。

 

果たして、忖度で気を回す母が果たして良い母とは言い切れない。忖度してもらうことに慣れた子供は、人に頼み事をする時に上手に言語化することを学ぶ機会を失っているかもしれない。(と、自分を正当化してみる)

 

どっちに転んでも、良い面と悪い面がある。

 

 

そもそも私は忖度とか、空気を読むのが苦手なので、辞めます。

 

 

やはり、否めない脱☆良妻賢母的な発想が、私の中にある。

 

30過ぎてやっと、婉曲表現の何たるか、婉曲表現にはどう対応するのかを学んだこの私。さぁて、人生まだまだ学べることは多そうだ。

 

 

 

イギリスの保険制度と選挙

イギリスに6年住んでいた私には、ごく自然にイギリス人の友達が沢山居る。

 

イギリス総選挙が迫る今、SNSでも選挙の話が多くなってきた。私の友人たちが口を同じく言うのは

 

NHSを守るために、保守党には入れるな!

 

です。

 

NHSって何なのか、保守党は何をしようとしてるのか、イギリス国民はなぜ反対なのか。住んでいたからこそ知っている部分をこちらでもご紹介します。

 

【NHSとは】

National Health Serviceの略、日本語の「国民健康保険」に相当します。が、サービス内容は日本の国民健康保険とは違います。

 

1割なり3割なり、自己負担額があるのが日本の健康保険。病院窓口で2000円なり1000円なり払うのが一般的。

 

イギリスでは自費診療項目以外は全て無料。16歳以下の子供に至っては処方料も無料。何歳でも医者に払うお金は0。

 

こんなシステムなので、「金を積めば先に診察してもらえる」という様なズルは無い。そもそも金を積めないから。(あったとしても、私は知らないです)

救急センターなどでは、乳幼児や緊急性の高い患者を優先的に診察する程度で、ひたすら順番待ち。

 

私は長期滞在の留学生で、長期ビザも持っていたので、このNHSの恩恵にあやかれました。医者にお金を払ったことはありません。

 

日本では保険が効かなくて高いピルも、イギリスでは無料だった。避妊に関する費用は全額国費負担にもなるのが驚きだった。(私はピル推奨派で、今も飲んでいる。

 

 

【NHSの良い所】

合法的なイギリス在住者であれば、誰しも無料で医療を受けれること。これに尽きます。

 

アメリカの保険制度はこれと真逆で、イギリス人はアメリカ的保険制度なんてまっぴらごめんだ!とか野蛮だ!と思ってます。

 

アメリカではお金がなければ医療を受けれない。

 

イギリス人にとっては、アメリカとは「幼い子供に脳腫瘍があっても、金がなきゃ死ね」と言ってる国です。

 

21世紀にもなって、弱き者に救済の手を差し伸べないのは野蛮に映るのです。

 

【NHSの悪い所】

融通は効きません。全額国費運営なので、できるだけ手間や無駄は省かれている。

 

例えば、内視鏡検査を受けることになれば、日時・場所全てが完全指定され、変更は不可。

 

「この時間にこの場所に来れないのであれば、貴方は検査を受ける必要があるほどの病気ではないと見なします」

 

というのが、NHSの見解。オペレーションの無駄を省くため、

 

 

【保守党は何をしようとしてるのか】

NHS、イギリスの保険制度を民営化しようとしているらしい。もし民営化されたら、アメリカ企業に買われたり乗っ取られたりする可能性も出てくる。それを快く思うイギリス人はほとんど居ないでしょう。

 

【イギリス国民が反対している理由】

民営化したら、営利目的になる。今までは誰もが平等に受けることができた医療を、貧乏人は受けることができなくなる。そんなのおかしい!!!と。

 

「脳腫瘍があっても金がなきゃ死ね」という文化の国の企業に食いつぶされる、とイギリス国民は恐れているのです。

 

私のイギリスでのら友人の大半は、お金に困っていない。その彼らが民営化を反対するのは、自分たちの為だけではなく、それ以外の人々や道義的なものを考えた上で反対しています。

 

私はイギリスに住んでいた間も、今も、イギリスでの選挙権はありません。影響力はほぼない。けど、私はイギリスを愛している。

 

ユーラシア大陸の向こう側の私の第二の故郷。もちろん完璧とは言えない保険制度ですが、NHSが民営化されて営利目的企業に食いつぶされるのは見たくありません。

 

そうさせない為に私ができることなんて、ほとんどないけど、とりあえず祈ってみる。私の友人たちが、私の第二の故郷の人々が、これからも健康面において安心できることを。

 

どうか、どうか、そんなことになりませんように。

 

 

 

 

 

 

 

 

ナイロビの蜂

 

 

同じ映画、同じ本、同じ物語を見ても、以前とは異なる感想を持つ。そんな物語はありませんか?

 

沢山の映画よりも、何度も同じ映画・本を見るのが好きな私には、そんな物語が沢山ある。

 

その一つが「ナイロビの蜂(原題 Constant Gardener)」というイギリス映画。

 

これが、前回の記事で触れた「駐在妻という枠を超えて「自分らしく」行動した外交官妻が呼んだ悲劇」の映画です。

 

この映画を見る度に、私の感想・感動ポイントは変わっている。

 

どんな時代に、どんな感想を抱いたのか。

私はどう変わったのか。

どう視野が広がったのか。

 

それを紹介します。

 

 

まず、「ナイロビの蜂」のあらすじを。

※ネタバレあり

※この話は現実に近いが、フィクションです

 

------------------あらすじ ここから------------------

主人公のジャスティンは、イギリスの外交官。「外交官のくせに嘘が苦手」と言われるほど、正直で優しい。事なかれ主義の外交官。

 

妻のテッサは、正義を強く持ち、怖れることなく自らの意見を発する若き活動家のテッサは、ジャスティンと恋に落ち、結婚し、赴任先のケニアについて行く。

ケニアについて行くために、テッサからプロポーズしたも同然。

 

ケニアにても、身重になっても、テッサは意欲的に活動する。ジャスティンが止めるのを聞くこともなく、テッサはケニアのスラム現地人等とも交流を深めていく。テッサは賢くて正義感が強い、好奇心に溢れた人だった。

 

外交官の妻というのは、大概他のお仕事はしていない。「外交官の妻」という仕事であることが多い。テッサはそれに収まらなかった。

 

地元民との繋がりを持ったことで、製薬会社が行う「不都合な真実」が見えて来た。

 

  • ケニアの貧しい人達を、無料の人体モルモット(治験者)にしていること
  • 製薬会社が出した新薬は、実は死に至る副作用があること
  • 副作用によって死に至る人がいることを知りながら、製薬会社がこの死を隠蔽し、このまま世に新薬を出そうとしていること
  • イギリス本国が、この隠蔽を認め、むしろ国家ぐるみで隠そうとしていること

 

勇敢な女性であるテッサは、徹底的に調査してこの不都合な真実を公表し、製薬会社に新薬の開発のし直しを求めるつもりだった。

 

副作用による死を避けるために。人の命のために。正義のために。

 

その最中、悲劇は起きた。

テッサは暗殺された。

 

ジャスティンは、愛する妻の変わり果てた無惨な姿を見て、思う。

 

「なぜ妻は、僕に何も話してくれなかったのか…」

 

テッサは、自分が何を調査しているのか、追いかけているのか、ジャスティンに全く知らせていなかった。それは、ジャスティンを守るためだった。

 

ジャスティンは外交官というイギリス政府側の人間。国家レベルで隠蔽しようとしている事実を公表することは、国益を害する。国家側の人間が直接国益を損ねることはできない。

 

死人に口なし。テッサが誰と何をしていたのか、ジャスティンは教えてもらうことはできない。

 

テッサの秘密と、なぜテッサが死んだのかを知るべく、ジャスティンは意欲的に調べていく。途中で命の危険を感じても、果敢に立ち向かって行く。

 

事なかれ主義だったジャスティンが、勇敢な愛妻の死をきっかけに変化していく。

 

------------------あらすじ ここまで------------------

 

 

結構壮絶なストーリーです。この深い深い、哀しい映画を、私は何度も見ています。

 

そのたびに異なる感想を持つ。それによって、自分の変化を感じる。同じ物を見た感想なのか!?と思う程、毎回違う感想を持つ自分に驚く。

 

自分の立場、人生経験、読書量が変わったことが、この感想変遷でよくわかる。

 

感想① 正義を持って悪に立ち向かうテッサに共感し、憧れた大学生時代

感想② 大きな夫婦愛に心打たれた結婚5年目位

感想③ 「悪」に手を染めてでも、国益を守ろうとする外交官と国家

 

感想① 正義感溢れるテッサに憧れた大学生時代

確か2009 年頃、初めてこの映画を見た。  

 

独身で大学生だった私は、屈せずに、悪に立ち向かうテッサ・クエイルに強い憧れと共感を持った。

 

大好きな女優、レイチェル・ワイズが演じていたこともあり、自然と憧れた。

 

(そもそも、この映画を見た理由は「レイチェル・ワイズが出演しているから」だった。それ位、彼女自身が好き)

 

この時期、私はジャスティンには全く共感できなかったし、目に入ってもいなかった。あくまで「テッサの夫」としか見ていなかった。ジャスティンが主人公なのにね。

 

 

感想② 夫婦愛に心打たれる

2017年頃(出産後、夫婦で見る)

この時は、テッサとジャスティンの夫婦愛によって凄く感動した。

 

テッサは正義を持って、副作用によって死ぬかもしれない人達の命を救うために、立ち向かった。一番愛するジャスティンに、自分の活動を伝えたかったに違いない。誰よりも、ジャスティンに伝えたかったし、理解して欲しかっただろう。

 

でも、ジャスティンを守るために、隠していた。

 

ジャスティンは、妻の死の裏にある真実を知るために、身の危険を冒してまで調査する。その中で、事なかれ主義のジャスティンは消え、たとえ国家の敵になろうとも、真実を明らかにして人命のために力を尽くす。まるでテッサのようになって行く。

 

自分の気持ちだけを考えれば、自分の身だけを案じるならば、決してできない行動だ。テッサもジャスティンも、己よりも大切な人のために、行動していく。

 

結婚して数年経ち、母となった私は、この夫婦愛に心打たれた。私が知っているよりも、大きな大きな愛が、そこにはあった。

自分も夫婦愛を感じたことがあるからこそ、ジャスティンとテッサの間の夫婦愛にも感動できた。

 

やっぱり自分の中に無いものには、気が付かないもの。気がつくからこそ、感動する。

 

 

感想③ 「悪」に手を染めてでも、国益を守ろうとする外交官と国家

 

2019年の今、感じたことは「国益とは」です。私は公務員ではないし、政治家でもないので、国益を考えて仕事をしたことはありません。

 

国益とは何か」を常に考えて仕事をしていた元外交官が書いた本を読んだからでした。 

 


国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
※読書感想文はいずれ書きたい

 

映画には様々な立場の人が登場する。初見ではテッサ側からしか映画を見れなかったが、今なら国家や外交官側の気持ちもわかる気がする。

 

悪党に見える人達にも、それぞれの正義を持って行動している。

 

テッサの正義は最も人道的で道徳的で尊いものだ。致命的な副作用を隠そうとする製薬会社にも、ぐるになってそれをもみ消そうとするイギリス国家にも、それぞれの正義があった。

 

【製薬会社の「正義」】

映画の中では、製薬会社が悪党として書かれていました。再度、何億円をかけて、新薬研究のやり直しをしたくなかった。

 

新薬の副作用による死は、ごくわずかな数だった。この新薬によって、大儲けできる予定だった。

 

製薬会社の正義は「利益」です。利益のためなら、たった少数の人間の死は隠蔽し、新薬を発売するほうが、会社と社員を守ることになる。

 

営利企業である限り、利益は「正義」なのだ。

 

【イギリス国家の「正義」】

この新薬が世に出るためには、工場がいる。それを売るための営業職も必要になる。この新薬発売により、イギリス本国では何千もの新しい職が生まれる。失業者達を救うことができるのだ。

 

ケニア人を無料で人体モルモットとして治験実験させていたことは、どうみても人道的ではない。が、それが明るみに出れば、訴訟問題になり製薬会社にはお金がなくなり、結果的にイギリスの失業者達に職を与えられないかもしれない。

 

ケニアの貧しい人達の命と、失業した本国イギリス人の生活、どちらを守るべきか。

 

それを天秤にかけなければならない時、外交官は、国家は、自国の国民の生活を守ろうとする。

 

他人の生活や命を踏み台にして、生きる。その生き方は決して褒められたものではない。

 

もし、国益を優先しなければならない立場に居たとしたら、

ケニア人のイギリス人の生活どちらを優先するか選ばなければならなければ、

私だって自然と同じ選択をしたかもしれない。

副作用を隠す、という。不都合な真実を隠す。

 

 

テッサの正義は、国益と反する部分にまで踏み込んでしまった。真実を知った彼女は、口封じのために殺された。

 

 

 

なぜ、テッサは殺されたのか。彼女は何を知っていたのか。

 

これまで何も知らなかったジャスティンは、必死にその理由を探す。真実を見つける中、彼も危険な目に合い続ける。

 

ジャスティンも、彼の正義を持って動き出す。「テッサのため」それが彼の正義だった。

 

 

「外交官の妻」という枠を飛び越えて活動し続けたテッサは、自らが暗殺されるという悲劇を呼んでしまった。

 

これを考えると、ですよ。以前は私がバカにしていしまっていた「極度に日本人化した駐妻たち」側の気持ちもわからないではないのです。

 

もし、駐妻たちが、社益や国益を忘れ、枠を超えて「自分らしく生きる」をやってしまっていたら、何か恐ろしいことになるのかもしれない。だから、彼女たちは己を押し殺してきたのかもしれない。そこに駐妻の「正義」があるのかもしれない。好きでそうなった訳ではないのかもしれない。

 

そう思うようになったので、私はカーストにかじりつき、謎にひれ伏す駐妻たちを以前ほどバカにしなくなった。バカにできなくなった。彼女たちにもそれなりの事情がある。が、今でも、あの世界観は理解できないし、自分もその構成要員になりたくはない。

 

 

「正義」という言葉。昔は好きでしたが、今は非常に危険な言葉だと思う。

 

正義ってなんなのか、誰のためのものなのか、正義の存在自体が正しいのか。次は「正義とは何か」についてでも書いてみようかしら。

 

 

 

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ナイロビの蜂」は素晴らしい映画です。ぜひ皆様に見て欲しい。これには原作の小説があり、作家は言っています。

 

「これはフィクションです。でも現実はこの小説以上にひどい状況であろう」

 

と。

 

 

我々が知らない所で、悲惨なことが起きている。そして、その恩恵を、知らず知らずのうちに受けているのかもしれない。

 

誰かの生活を、命を犠牲にして、何かを得ているのかもしれない。私達が認識していないだけで。

 

きっと、私達のそう遠くないところで、「不都合な真実」は存在する。

 

不都合な真実の存在について考えたら、なんだか色んな事が些細な問題に思えてきた。その些細な問題たちのために、私はどれだけ翻弄されてきたのか。

 

私は今、自分の小ささという不都合な現実を目の当たりにしている。

 

 

 

 

 

 

極度に日本人化する海外生活者たち

長期海外生活をしている人たちの話、第三弾。(第一段はこちら、第二弾はこちら

 

長期に渡る海外生活を経験する日本人は、増えてきたとは言え、少数派。これだけ治安が良くて、ご飯が美味しくて、電車が時間通りに来る国から、本気の脱出を試みる人間は多数派にはならないだろう。

 

海外生活が長いからって、必ずしもアメリカナイズ、イギリスナイズ、(英語ではangliciseと言う)、感化される訳ではない。

 

17 歳で単身渡英した私は、「ここに骨を埋めても良い」と思えるほどイギリスを愛し、自らイギリスナイズされて行った。

私は、日本人の感覚から離れて行く(そもそも渡英前も、大して日本人的感覚は持ち合わせおらず、子供時代はいじめらやすかったのだが。)

 

方や、海外生活の最中、日本人以上に、極度に日本人化する人達も居る。個人的所感では、この展開になるのは、駐在員やその家族が多い。特に駐在妻。

 

今回、私はとてつもなくイギリスナイズされた単身留学生という第三者的立場から、極度に日本人化する在外邦人について考察します。

 

 

まず、なぜ私は「日本人化する在外邦人」から見ると第三者的立場になるのか、解説したい。

 

なぜ、海外に住んでいるにも関わらず、日本人化するか、というと、居住先の国での「日本人村」にどっぷり浸かって生活するからだ。

 

スマトラ島などの余程の僻地以外、妻や家族を伴う駐在は許可されることが多い。

 

日本の会社員や外交官が駐在する地域では、「ここに住んでる日本人は私たち家族だけ」ということは稀で、複数の日本人世帯が同じ都市内に居る。そこに「日本人村」はある。

 

いくら親や夫の仕事のため、とは言え異国に暮らすのだ。言葉もわからない、土地勘もない、色々とさっぱり分からない地域に暮らすには、現地に住む日本人同士で肩を寄せ合い生きていく必要も、少なからずある。見知らぬ土地で夫を支え、子供を育て、そうするには、駐在妻同士の助け合いは必須なのであろう。

 

留学当時の私は駐在妻ではなく、支えるべき夫も、守るべき家族もいなかった。ひたすら、自分の勉学と生活について考えれば良かったのだ。

今思うと、なんと恵まれていたことか。右手に仕事、左手に娘たち、右足に家事、みたいな現状に比べれば、自由であり、「自分勝手」で居ることが許されていた。

 

留学先でも日本人とはほとんどつるまなかった。私のホームステイ先は、かなり田舎で不便であったことと、妙なことから仲間割れした事から、同じ都市内に留学している日本人とは親しくならなかった。留学一年目は、携帯も持って居なかったし、私に連絡は取りづらかったらしい。 

 

イギリスナイズされ過ぎたせいなのか、生来の性格なのか、馬が合わなかった。そのおかげか、現地人と仲良くなり、英語力は向上したので、思えばあの仲間割れも私にとっては幸いだった。

 

単身留学していた私には、このような一匹狼的な「勝手な」振る舞いをしても、実害はなかった。むしろ、自分の勉学の邪魔にならず、英語力が伸びるメリットの方が大きかった。

 

駐在妻となると、そうも行かない。支えるべき夫、守るべき子供、外交官ならば守るべき国益がある。

 

最初こそ、「日本人が私達だけじゃなくて、助け合える人達が居て良かった」と感じる。語学が堪能ではない人達は特に、だ。

 

ところが、駐妻会の助けがなくても生きていけるサバイバル能力がある・身に付いた人達には、日本人村のしきたりやルールが窮屈に感じるようになる。

 

スクールカーストやママカーストならぬ、駐在妻カーストの存在は存在する。そして、それがバカらしくなってしまうらしい。

  

※何度も言いますが、私は駐妻経験はない。ここからの話は、複数の駐妻経験者の話。

 

駐妻の序列は、大使の妻が頂点であり、次に外交官妻、あとは夫の会社での地位に付随するらしい。自分の地位でも力でもなく、夫の職位や子供の学歴で序列をつけたがる人種は日本にもいる。

 

それが駐在先の国で再現される。気持ち悪いほど正確な再現。

 

家族の肩書や学歴で自分の立ち位置を変えるとか、虚勢を張るという発想は、私にはナンセンスで理解不能。私の理解を越えようと越えまいと、この世界は存在する。

 

年の差婚で、部長が23歳のピチピチお姉さんと結婚したりすると、23 歳の部長妻が、カースト上部に躍り出て、下級カーストの人は部長妻の運転手やら通訳やらを担当しなければならなくなる。

 

半沢直樹のドラマの、社宅での奥様会のシーンを思い出した。夫の地位=奥様会での地位。上辺だけな会話を繰り返すゾッとするシーンだった。

 

これとそっくりなシーンに、イギリスにて遭遇したことがある。ロンドンのチャイナタウンにて。

 

アジア系の貧乏学生であった私は、ごくたまにチャイナタウンでの外食が楽しみだった。

友人と仲良く飲茶を食べていたら、隣席から日本語が聞こえてきた。10人ほどの日本人奥様会が開催されていた。

ボス猿が居て、そのボス猿がメニュー注文の決定権があるらしく、他の奥様達はそれに付き従わざるを得ないという構図。

 

私はあの円卓の中に入っていなくて、良かった、と、大学生の私は思っていた。お金を払ってまで、店に来て、自分の食べたいものを注文できないなんて、まっぴらごめんだ。

 

 

とある私の元駐妻の友人は、ものすごく語学が堪能で、駐在妻だけでは収まらず、現地の大学院で博士課程に進んでいた。が、自分の語学力は、駐妻会ではひた隠しにしていたらしい。さもなくば、上部の駐妻カーストの運転手や通訳に駆り出されてしまうからだとか。能ある鷹は爪を隠すには、それなりの理由があるようだ。

 

インターネットが発展した今、駐在妻同士の日本人村以外でも、人との関わりを持つことができる。遠く離れた相手とも気軽に、話したり、繋がりを持つことができる。

 

よって、駐在家族達も、前インターネット時代よりは「日本人村」という閉塞社会に閉じ込められていないかもしれない。

 

されど、インターネットという道具がなかった時代、閉塞社会で諸々を我慢してきた彼女たちが、私には不憫でならない。

 

私がここで話しているのは、前時代的な話であり、一部の人の話。そのため、駐在家族が皆こうだ!と、思わないでください。こういう人が一定数は存在する、という話です。

 

ちょっと前までの私は、この一定数存在する人たちをバカにしていました。

 

「海外に行ってまで、そんな閉塞社会の中で生きるなんて窮屈!カワイソ」

「自分そのものではなく、夫の地位や子供の学歴で、自分の立ち位置が変わって、それを使って威張るなんて…!」

「自分の人生生きていないから、夫や子供の肩書と威を借りるんだ」

 

 

とか。私ってば結構ひどい(´・ω・`)ショボーン

 

ところがね、

 

最近は、「彼らも好き好んでこうなったわけではない部分も多いのかも」と思う様になった。

 

家族ビザで海外に渡ると、労働許可が降りない場合もしばしば。「自分らしい活動」そのものが、制限されてしまうことも多くて、つい諦めてしまうのかもしれない。

 

渡航先で外交官の妻が「自分らしい」活動をし続けた結果、悲劇が起きた、みたいなノンフィクションに近い映画があるのです。

 

その悲劇を避けるためには、「自分らしく」なんておおっぴらに活動せずに、自分を押し殺す必要が、あるのかもしれない。社益のため、国益のために。

 

10年以上昔に、初めてその映画を見た時と、今では全く違う感想が出てくる。

 

じゃあそのノンフィクション悲劇はどんな悲劇だったのか。

その映画ってなんなのか。

 

は、こちらにて。

 

 

 

 

 

 

長期海外生活の後、帰国しても続くアウェー感

海外生活が長い人特有の悩み第二弾です。今回は「海外生活長かった人が日本に帰国してから悩むこと」です。

 

帰国子女、留学、海外に住んでいた理由は問わず共通することは、前回書いたとおり、アイデンティティ・クライシス。その続きです。

 

海外生活が長かった人にとって、帰国後のチャレンジは多々ある。私にとっては、母国に帰ってきたはずなのに、いつまでもいつまでも、アウェー感が否めないことだった。

 

母語圏とは異なる国に住み、母語以外で学校の授業を受ける。家庭では日本語をしゃべる。海外駐在員の子供たちはこんな環境で育ちます。

 

こういうのって、自然とバイリンガルになって良いじゃーん♪と、思うのは安直です。一文喋るのに、複数言語(例 英語、フランス語、日本語)が混ざって、現地人には誰も理解されずに友達0人なんてことがある。

 

複数言語混ざっちゃう問題は、言語を学習していけば徐々に解決されます。○○って単語は英語だったのか、○○はフランス語だと△△なのか、などの知識の蓄積によって。

 

 

多言語や多文化の知識の蓄積が、問題を解決するどころか、新たな問題を呼ぶ。

 

その多文化生活に慣れた状態、日本文化以外の「他文化」に触れたり感化されたり、と実に複雑な価値観の人間が出来上がる。

 

その多文化に慣れた人間が、日本という均一的な文化圏に組み込まれるのは中々辛いものがある。

日本独特の不文律文化を理解できず、そしてそれを理解しないと「アイツは空気読めない」とレッテルを貼られる。

 

私の実体験をいくつか紹介する。

 

 

-------------実体験ここから-------------

①面接時

就活の面接時、当時23歳だった私は、結論→理由の順番に、端的に正直に質問に答えた。その時、日系企業の面接官に、何気なく言われた。

 

「あなたは英語を喋る人の話し方をしますね」

 

確かに私は英語を喋る。それは17歳以降の話であって、23歳当時の私には英語習得は「わりと最近」のことであった。そして、英語習得の以前からも、私の話し方スタイルは大きく変わっていない。

 

つまり、私の話し方は「英語を喋る人の話し方」ではない。面接官は、勝手に、私の喋りスタイルを「英語人の話し方」に分類していた。 

 

要するに、私の話し方は面接官に不評だった。私はあの時の面接官の言葉がずっと心の小さなトゲとして刺さっていた。要するに、面接官が私を気に入らなかったのである。それをこんな言い方するなんて!!と。

 

②「空気読めない」話

空気を読む。

 

これって非常に難しい。どうやって空気を読むのか、って正確に言語化された方法を習った人なんいないのではないんだろうか。

 

ちょっとした発言で、私は「KY」「ここは日本なの」と言われた。スマホYoutubeなど何もない留学当時、日本の流行語など知らない私は、「KY」が何を意味しているのかさえもわからなかった。

-------------------実体験ここまで---------------------------------

 

私の実体験が何を物語っているか、と言えば「自分とは違う発想の人間を尊重するのか、下に見るのか」だ。 

 

相手を「空気読めない」と言えば、自動的に自分が優勢になるとでも思っているのだろうか。

 

 

民族的にも、思想的にも、正直に言って日本の文化は多様とは言い難い。多様なものが、広範囲には許容されていない。

民族的にも90%が日本人。学校での試験も同じ回答を求める選択肢式が多い。白熱ディベートを行うような授業もほぼ皆無。

 

要するに、日本の学校は、「同じ価値観の人間製造機」に近い。同調圧力というものは、学校以外でも存在し、色々と均一化を図ろうとする事が多々。

 

私が詳しく知るのはイギリス教育と日本教育のみなので、ここでの比較しかできない。他国についてはわからない。

私は日本教育を批判して、イギリス教育を絶賛さるわけでは断じてない。どちらにもメリット・デメリットがある。日本教育の網羅性はかなり高い。 

 

ただ、ここで私が言いたいのは、もう21世紀になり頭脳労働が増えたこの時代でも、日本の学校教育は19世紀や20世紀初頭の工場員を育てるのと大差ない図式を取っている。

 

本の学校教育批判に話が逸れてしまった。「海外で多文化に慣れた人間が、日本に戻った時の苦労」に話を戻す。

 

村社会や風土(災害が多い)のせいか、この学校教育のせいか、日本特有の文化がある。

  • 和を尊ぶ
  • 波風立てない
  • 空気を読む
  • 忖度 

など。

 

これらを「どうやって」やるのか、how の部分を、誰も正確に言語化されて教えて貰ったことはないのではないか。

しかし、この国で市民権を得られる人間のほとんどは、このhow を知っており、駆使できる人達だ。 

 

海外生活が長いと、この独特の日本文化を学ぶことが難しいことがある。空気を読んで和を尊んでばかりいては、例えばアメリカのような自己主張が強めな国では生き残れない。存在が認識されない。空気を読んでいては、空気のように無視されてしまうのだ。

 

たとえ、何年も何年も同じ国で暮らしていても、いかにその国を愛していても、日本国外に住んでいれば、現地人からは「日本人」「外国人」と扱われる。

 

やっとの思いで日本に帰国しても、「アイツは留学帰りだ」「帰国子女だから楽してる」「空気が読めない」などの中傷を受ける。

 

誰しも、何かしらの中傷は受けたことがある。「外国語できて羨ましい」という嫉妬の裏返しなのだろうか。

 

確かに、私のような海外生活が長かったものは空気が読めないかもしれない。普通の日本人ができることが、できないかもしれない。

 

それは決して、学ぶ気がなかった、とか、日本の文化をバカにしているという訳ではない。

 

日本人がコーランを読めない、読んでも中々イスラム文化を理解できないのと同じように、帰国子女や留学帰生も、空気を読んだり和を尊ぶ文化を理解できていないのだ。

 

外国に住んでる間は、現地人とはみなされず「この国に住んでる日本人(つまりは外人)」扱いされ、帰国したとしても、「留学帰りだ」「帰国子女だ」と別カテゴリー分けされる。

 

母国に帰ってきたはずが、アウェー感は続く。自分のホームなんて無いことを知る。帰国後の最大かつ予測できないショックってこれかもしれない。

 

もし、貴方がそんな人に遭遇したら、ほんの少しだけでも、優しさを持ってくれたら、私は幸いです。

 

 

今回は、「帰国してもアウェー」というパラドックスをお伝えしました。

 

次回は「海外なのにとても閉塞的な日本人社会」というパラドックスを紹介します。海外に感化海外に住むことによって、極度に日本人化する人達もいるのです。

 

 

 

長期海外生活者の悩み:危う気なアイデンティティ

先日、帰国子女独特の悩みに関する記事を見た。 

 

「帰国子女って、大学入試も簡単だし、楽してるよね」なんて言われがちだが、彼らには彼らにしかわからない苦悩がある。

 

単身渡英した私は、厳密に言うと帰国子女ではない。海外生活が長い日本人という点では同じなので、理解できる所も沢山ある。

 

そこで今回は、「海外生活が長い人の悩み」について書いてみる。

 

 

イギリスという国は、各国からの生徒が集まる国。とくに、私の母校、ロンドン大学(UCL)では、その傾向は顕著だった。

 

イギリスは、歴史上最大の面積を誇った大英帝国の本家。さらに、ロンドンは首都である。

また、UCLという大学は、イギリス国内では、性別・民族問わずに門戸を最初に開いたリベラルな校風だ。

人種・性別・宗教・国籍問わず、本当に色んな人がいた。

 

非イギリス人の生徒たちは、ざっくりと分類するとこんな感じが多かった。※ざっくりと、なので、抜け落ちはあります

 

1.インターナショナルスクール出身者

インターの出身者には主に2パターンある。 

①親の仕事で、世界各国あっちこっちに住んでいたことがあり、勉学の一貫性を担保するためにインターに通っていた。

転勤族である商社、銀行マン、外交官の子供などが多い。

  

②居住国を引っ越したことはないが、親の教育方針でインターに通っていた

親の職業に特にこれといった偏りはないが、この類のお家は大抵、かなり裕福だ。インターの学費は高い。

①のパターンの場合、親の雇い主である企業(つまり、家族が振り回される原因)が、ある程度学費を援助してくれる事が多いが、②の場合は援助はほぼゼロ。どんな資産家ならば、そんな大金を払い続けられるのか、私には想像がつかない。

 

 

2.中高からイギリス留学している、イギリス寮制学校の出身者

15歳、またはそれ以下の年齢からイギリスの寮制学校に、親が子供を送り込むパターンが多い。

 

私は、節約のためにホームステイし、寮にこそ住まなかったが、私はこの分類に当たる。大学入学前のイギリス滞在期間はわすが2年だが、こうした留学生の多くは4年以上寮制スクールに在籍することが多い。

(限られた英語力で渡英し、2年間で大学に入れるまでの勉強をするのは、結構辛かった。節約はできたが、人にオススメできない茨の道である)

 

1-①のインターナショナルスクール生が、イギリスの寮制学校に入ることもある。親の駐在任期が終わり、親は日本に帰るけど、子供はイギリスに行く。

これまではずっと英語で教育を受けていたのに、いきなり高校から日本語で、というのは難しいものがある。

 

 

3.ヨーロピアンスクール出身者

ヨーロピアンスクールとは、欧州内にある英語で教育を受けれる学校である。国際規格であるインターナショナル・バカロレア、IBが取得可能。EUの官僚の子供が多かった。

 

 

 

非イギリス人が、イギリスにて教育を受ける。

 

これが何を意味するか。

 

自分の母国語、自分がアイデンティティを感じる言語とは別の言語で授業を受け、発言し、論文を書く。

 

英語力は一朝一夕で身につくものではないので、当然ながらイギリス大学に入る前も、英語で授業を受けている(場合がほとんど)。

 

日々、母語とは異なる「外国語」を聞き、話し、読み、書く。

そして、多くの場合、母国から離れて生活する。

 

ここに、帰国子女あるいは海外生活経験が長い人特有の悩みが発生する。

 

 

私は誰なんだろう?

私のアイデンティティはなんだろう?

 

アイデンティティ・クライシスに陥りやすい。

 

10代、特に10代前半は、心理学的にもアイデンティティ形成に重要な時代。幼い頃から海外に居る人は、このアイデンティティが曖昧に、危うげなものになりがちなのだ。

 

周りにそんな人間が沢山いると、そこまで気にならないが、問題は帰国した時に訪れる。

 

危うげなアイデンティティのまま、いつか日本に帰国すると、益々自分のアイデンティティを疑うようになる。

 

人からどう思われるのか、によって、共有し難い悩みを持つことになる。

 

私自身の経験をここで。

 

当初、イギリス留学は1年間のみの予定だったが、イギリスの学校システムに惹かれて私は6年間滞在し、理学修士を得るまでに至った。

 

苦しさもありながらも、2年間のホームステイをし、イギリス人の日常もよく見ていた。悪い所もあれど、私はイギリス人が好きだし、イギリスという国を愛していた。「ここに骨を埋めてもよい」と思えるほど。

大学入学前はたった2年間、留学していただけだが、6年間寮生活をしている留学生よりも、私の方がイギリス人の日常を理解していたと思う。ホームステイの威力は大きい。

 

それほど、イギリスを愛していたとしても、私の国籍は日本であり、あくまで「外国人」として扱われる。それが顕著なのが空港や駅の入国管理。

 

イギリス人の友人と、どんなに仲良く旅行をしても、友人は UK passport holder 窓口(イギリス国籍保持者窓口)に、私は foreign 窓口(外国籍窓口)に通される。そこをさっと素通りできる友人と、入国管理官に、あれこれ質問されてやっと入国できる私とは、ハッキリと境界線を感じた。

 

当たり前だし、仕方のないことだが、「いくらイギリスを愛し、イギリス人のように振る舞っても、私は外国人なんだ」と寂しい気持ちになった。

 

方や、日本に帰国すれば、入国管理なんてあっという間にスムーズに済んだ。けど、日本に溶け込むには、スムーズとは行かなかった。

 

どうスムーズと行かなかったのか…は、長くなるので、また次回に。

 

 

続きはこちら(帰国後もアウェー感は続く)

ジャムおじさんの秘密

客観的な観察。バイアスが多ければ多いほど、それが難しくなる。

 

子供の観察力ってのは鋭い。   

 

生きてる年数とバ偏見が少ないからだ。

 

長女れーちゃん(4歳)は、気づいてしまった。

 

ジャムおじさんの秘密に。

 

 

アンパンマンは不動の人気。私が子供時代にも見ていたアニメで、30年選手。長女れーちゃんも次女ワカメちゃん(2歳)もアンパンマンが大好き。

 

アンパンマン描いて〜」

 

https://www.instagram.com/p/B5KuNYtlHCr/

↑これは私作アンパンマン 

 



f:id:kaorikawa:20191122212350j:image

↑これは、れーちゃん作アンパンマン。かわいい。親バカか。

 

#アンパンマン #あんぱんまん#お絵かき #落書き #ゆるアンパンマン #ゆるキャラ#私の絵 #娘の絵#anpanman #graffiti #drawings #relaxedcharacter #mydrawings #mydaughtersdrawings

 

今まで何度せがまれたことか。描いても描いても、何度でも「アンパンマン描いて」の無限リクエスト。

 

最終的にはA4の紙にはアンパンマンの顔が30個くらいが。

 

描いてる私も飽きてきて、ドキンちゃんバイキンマンにも挑戦するが、画力が低くて上手く書けない。

 

そこで気づいた。

 

ジャムおじさんは描ける。

 

色こそ違えど、ジャムおじさんの顔は、アンパンマンと同じなのだ。

 

アンパンマン+耳+コック帽+ひげ=ジャムおじさん

 

 

子供の夢を壊すまい、とそのことは触れずに限られた画力でアンパンマンジャムおじさんを描く。

 

 

とある日、れーちゃんがアンパンマンのぬいぐるみを見て、ボソッと言った。

 

 

ジャムおじさんの鼻って、アンパンマンと同じ…」

 

 

!!!!

 

れーちゃん、気づいてしまったか。

 

鼻どころか、目も鼻も口も同じだよ。

ジャムおじさんアンパンマンは酷似している。

 

 

私自身の子供時代、その酷似性には全く気づけなかった。

 

土で汚れたパンダを「白と黒」とは言わずに、「黒と黄色」と言う

 

そんなれーちゃんはやはり、曇りなき眼を持っている。

 

そのれーちゃんの夢を壊さぬ様、ジャムおじさんの容姿の詳細は秘密にしておく。

 

そんな良い夫婦の日、ならぬ、夢を壊さぬ母の日かな。

 

 

 

 

 

 

 

 

アナログな遊びこそ、頭の体操!

「子供の安全を考える」。とてもとても大事なこと。

 

でも、それが行き過ぎて過保護になることもある。

 

たとえば、木登りさせない、とか。

 

地元の公園にある、私が子供の頃に登っていた木は、多くの枝が落とされ、木登りできなくなっている。

 

木登りという冒険する機会すら与えられない、というのは、現代っ子が不憫に見える。

 

私は、木登りみたいな遊びこそ、プログラミング教育には有効だと思う。

 

プログラミング教育っていうのは、小学生にコードの書き方を教えるのではなく、物事の道理、物造りの組み立て順序などを教えるらしい。

 

木登りってかなり頭を使う遊び。

 

どこなら足をかけれるかな。

どの順序で行けば高く登れるかな。

自分の腕の長さでは、どこまでなら届くかな。 

どの位の太さの枝なら、ぶら下がっても折れないかな。

 

 

正解は一つじゃなくて、どの順番で行くかを考えるし、観察もする。

 

木登り、工作、パズル、積み木、お料理。

 

これはどれも、論理的思考や、物事を進めるための工程を考える力を養えるもの。

 

 

私がここで伝えたいことは2つ。

 

①「勉強です」「プログラミング教育です」って考えるのはなく、日常にも「プログラミング」の教材は沢山ある。わざわざiPad や高価な知育玩具を与えることに、私は疑問を感じる。

 

 

②アナログな遊びは、頭の体操になる。知育玩具、知育アプリなどが多くある。確かにこれが便利なことも、アプリから学べることもある。

 

けどね、私は古典的なアナログのおもちゃの方が好き。パズル、積み木、すごろく、トランプ。

 

デジタルートおもちゃ:特に考えなくても直感的に楽しめて、すぐに没入できる。が、すぐに飽きる。

 

アナログおもちゃ:最初楽しみ方をわかるためには、時間と手間がかかる。それを超えれずに「つまらん」と投げてしまう事もあるが、最初の壁を超えれば、かなり長期間ハマれる。世代を超えて楽しめる。

 

 

ノスタルジー(または時代遅れ)な私は、最近の知育アプリとか全く知らない。本当に一つも知らない。ホームビデオを除き、我が家の子供たちもデジタルスクリーンは触らせていません。

 

このご時世、特に教えなくても、いずれ子供たちはデジタル機器を巧みに扱えるようになる。

 

アナログな物こそ、我々大人が教えない限り、現代っ子は覚えないかもしれない。

 

私は、プログラミングなんぞ全く書けないので、娘たちにコーディングを教えることはできない。

 

私にできるのは、それに必要な論理的思考や、物事の組み立てや順番などを模索する機会を増やすこと。

 

気が短くて、頻繁に怒っていてはそれを奪うことにはなるんだが…それは育児というより育自だなぁ。

 

国策として、新しい物教育するのは良いこと。でも、知識ばかり教えることに注力せずに、子供たちが体験できることを減らし過ぎないで欲しい。

 

 

子供の頃の木登り、楽しかったなぁ。鈍った体で、今、木登りに挑戦したら転落するかしら。

 

スリル感ある中での、次の一手を考える。

 

親が見てない所でやってたっけ。

 

娘たちにもぜひ、挑戦してほしい遊び。

 

きっと心配しちゃうから、ママの見てない所でやってね(笑)

 

 

 

 

2歳児の初めてナンパ

みなさま、ごきげんよう

この度の連休はいかがお過ごしでしたか?

 

今年の秋は連休が多い。保育園児の親にとっては、連休こそ大変な時期。

しかも、今回は私が風邪っぴき&実家のお寺は行事で忙しいというオマケ付き😨。むしろ手伝いに行ったよ。

 

そんな連休中も、長女れーちゃん(4歳)と次女ワカメちゃん(2歳)は絶好調!

 

どのくらい絶好調か、というと、次女ワカメちゃんは、2歳にして、ナンパされる程。人生初!

 

娘たちを連れて近所を歩いていた時、向こう側から歩いて来た男の子(多分3歳くらい)が、人の合間を縫って、ワカメちゃん真正面にやってきて、真正面に立ち止まり、言った。

 

「かわいい!!!」

 

 

そして、一言言い放ち、そのままスタスタ去って行った。

 

 

これってナンパじゃない?

 

いくら、「私ってかわいい♥」と思っているワカメちゃんにとっても、ナンパは初体験。キョトンとしてた。

 

行きずりの大人に「かわいい」と言われたことはあれど、行きずりの同世代から、は初めて。

 

※我が家の教育方針は、「自分かわいい♥」と思うように育てること。そして、その刷り込み教育が成功している実感アリ。長女の結果①はコレ、次女の結果①はコレ、ちなみに主人も「自分かわいい」らしい

 

2歳にしてナンパされるとは、びっくり。

 

これから一体、人生において、娘たちは何回ナンパされるのか。

 

ナンパされた時の対応の仕方を、いつかは教えることになるのか。

 

母ちゃんのナンパされ経験は多くはない。教えれることは少ないぞ。

 

 

透明人間、現る、そして消える

子供の「ハッとされられる」発言の話です。  

 

透明人間っていると思いますか?

何歳まで、居ると思ってましたか?

 

ちょっと前からか、我が家の長女れーちゃん(4歳)は透明人間の話をします。保育園のお友達の間での遊びなのか。

4歳女児にとって、透明人間はいるのか、いないのか。

 

先日、家族 4 人で公園に行った日のこと。自動で動く車椅子を発見した時の会話です。

 

れーちゃん:押してる人がいないのに、車椅子が動いてる!

 

パパ:透明人間が押してるのかな?(れーちゃんの最近のブーム、透明人間に合わせる)

 

れーちゃん:パパ、違うよ、スイッチがあるんだよ。

 

🙄🙄🙄🙄🙄🙄🙄🙄 なんだ、知ってるじゃん!!

 

せっかくパパは、れーちゃんに合わせたつもりだったのに、れーちゃんは大人になったのか??

 

れーちゃんの中で、透明人間はもう消えてしまったのか…、ちょっとずつ大人になったのか…と思っていたのです。

 

 

が、

 

今朝の朝食時のこと。

 

れーちゃんは私の肩の辺りを見つめ、言った。

 

「ママの後ろに透明人間がいるよ」

 

詳しく聞いてみると、リボンをつけた透明人間が私の肩に捕まっていたそうな。私が立ち上がると飛んで行ったとか。

 

れーちゃんの中から、透明人間は消えたのか、また現れたのか、それともごっこなのか。

 

人は皆、成長する。

 

おとぎ話は現実ではないことを知り、透明人間ごっこを辞め、少しずつ、少しずつ、大人になっていく。

 

早く人間になって欲しい

早く大人になって欲しい。

 

いつもそう思っていた私は、子供の成長に寂しさを感じたことは無い。本当に、嬉しさのみ。

 

今も、寂しさこそ感じないが、無常さを感じた。

 

いつまでも、透明人間が見えるわけじゃないし、透明人間が何かをしていると思うわけではない。

 

れーちゃんの前に、姿を消したり、現したりする透明人間。

 

去年の子供服が、いつのまにかサイズアウトするように、透明人間の出現頻度も減ってでしょう。

 

透明人間さん。

 

いつか消えてしまうその日まで、ぜひ我が家に居てください。