教育熱心な親に育てられた子供が思うことパート2 です。パート1では子供側がお金をかけてもらっても全然嬉しくない、むしろプレッシャーなこともあるとお伝えしました。今回は一種の脅育を経て、私が得たものはなんだったのか?をご紹介します。
自分(親側)のできなかったことコンプレックスを埋めるように、のめり込んでしまうこともれば、「自分レベルの学歴は持ちなさいよ」という一種の同調圧力から…ということも。
私の両親は後者で、私は一種の脅迫観念に迫られながら、勉強を頑張ってたと思う。特に留学中は英語ハンデもあり、それまでの数倍以上の努力。
実力以上の結果を得なければ、と努力努力努力。ひたすらに努力でカバーしてたと思う。そりゃ白髪も増える。(私は中学時代から嫌なことが重なると白髪が増えるストレス体質です。)
私は、30を過ぎて何を思うか?
あの必死に勉強したことで得たものはなんだったんだろう?
お勉強を通じて確かに得た、得難いもの。それは成績でも良い就職先でもなくて、友達だってこと。
これは綺麗事ではなく、マジです。
留学初期(高校生)も、後期(大学生)も必死に勉強してた。文系就職した私には、あんなに熱心にやってた研究もきっと、記憶の奥底に眠り続ける気がする。
熱力学ってなんだっけ。フーリエ変換ってなんだっけ。クエン酸サイクルって何入ってたっけ。
ここに出てくる単語はまだ、うっすら覚えている。一体どれだけを忘れちゃったのかしらん。
対照的に、高校・大学時代に巡り合った「友人」の記憶は、いつでもすぐに取り出せる場所にいる。今でも連絡を取り合う友人は少ないが、確実に私に安心感をくれる。脳内や心のキャパを消耗することなく、友人のことを思い出せるのだ。
知的レベルや趣味の話が楽しくできて、それ以上に何か人生哲学的な話ができる友人。
良い学校に入る手段は、好成績を取ることかもしれない。でも、良い学校に入る目的は、人との出会いのためなんじゃないか。
親御さんは子供たちを名門学校に入れたいのかもしれない。留学もさせてみたいのかもしれない。
それはなんで?
良いご縁のため?
エスカレーター式の学校で、親を安心させて欲しい?
もし「子供自身の良いご縁のため」であれば、子供本人の意志を確認もせずに、やれ受験だ、早期教育だ…というのは、ぜひ一度立ち止まって考えて欲しい。
「学校」という場所に限定せずとも、良いお友達には巡り会えます。実際に、私の今の友人の半数は学校を卒業してからのご縁です。
私はたまたま、お勉強を通じて行った学校という場所で、生涯の友達に出会えた。が、今振り返ると、学校の勉強以外にも、他の方法も会ったんだろうなぁ〜とも。現に私は学校以外の場所でできた友人も沢山いる。
私が思うこと良いご縁のために必要なのは、勉強うんぬんより正直かつ懸命であることだと思います。私ってば、偉そうなこと言ってるなー(笑)
ちなみに、良い友人関係のためには、知的レベルよりも、モラルレベルが近い事のが重要です。
いくら知的で面白い話をする人でも、サイコパスならば私は仲良くはなれないし、英語でも日本語でも話が通じない気がする。サイコパスの方とは、聞く専門で積極的には関わりたくない…
こんなダラダラと書きましたが、要するに言いたかったことは、「子供の教育にそんなに躍起にならないで大丈夫!」ということです。ご縁はね、学校でなくても沢山あります。