打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

「死の概念」は子供たちも学んで欲しい

先日ハムレット(狂気の末に死ぬ話)の舞台を見て、死とは、墓とは何かを考えた。

 

あなたは、自分の子供に「死とは何か」を伝えたいですか?それとも、近親者が死んでもそれを知らせずに、「死」に触れずにいてほしいと思いますか?

 

私は、「死の概念」は遠ざけずに、子どももそれに触れて良いと考えます。その訳を綴ります。

 

 

お墓ってなんなのでしょう。山奥…まで行かずとも、不便な土地にあると、ついつい足が遠のいてしまう。それがお墓参り。

 

寺である実家で育った私は、いつも墓が隣にあった。そんな線香の香る家だ。

 

子供の頃、まだ死が何かわかっていないころ、「死んだら私もここの祖父の墓に入るのかな」と思っていた。

 

この国では家族で墓石を共有し、嫁入り先・婿入り先の墓に入るのが一般的。結婚した私は、いつも隣にあった墓ではない墓に入るのか。一体どうなるのか。

 

「死んだら実家のお墓に入りたいの?」 

と聞かれたが、私の答えは

「死んだらどこにいたって同じ。」

 

死んだら、骨になったら、生きている誰かに何をすることもできないのだ。復讐は愚か、何も手出しはできない。できる事とは、ただ、幸せを祈り見守るだけなんじゃないか。

 

 

じゃあ何でお寺や霊園の人は墓守やってるのか?なぜ人々は墓参りするのか。

 

墓とは、死んだ人のためにあるのではない。この世に残された人のためにある。私はそう考える。

 

生きる者が、死者を忘れたくない、忘れてはならないと戒めるため、感謝を忘れないため、死者を懐かしむためにある。

 

最近は、「死の概念」を子供たちから遠ざけることがあると耳にしました。例えば、祖父母が死んでもそれを孫に伝えないとか。私は死について、子供にも知らせた方が良いと思う。何人も、死から逃れることはできないから。

 

哀しい、悔しい、せいせいした、驚いた、解放された、罪悪感、怒り、空っぽ感、孤独。残された者は、死を通じて色んな思いを抱く。その哀しみを胸に抱き、生きていかねばならない。そして、立ち上がれる。

 

人の死から生じる感情って、ネガティブなものだけじゃないんですよ。表立って言えないけど、せいせいしたり、安堵している人だっている。介護疲れの人なんかまさに。

 

死とは何か、それを知らずして、誰かの死を乗り越えて立ち上がれるのだろうか?

 

周りの大人が意図的に「死の概念」から遠ざけて、死は自分とは「全く関係ない」と思って育ったら?事情を慮ることなく、死を哀しんでない奴を「非情!」と批判しかねない。私に言わせれば、事情を知ることもなく批判するやつの方が非情。「不謹慎だ!」とか騒いで自分が上に立ちたい人たちと同じに見える。

 

人の死から生じる感情って、ネガティブなものだけじゃないんですよ。表立って言えないけど、せいせいしたり、安堵している人だっている。介護疲れの人なんかまさに。

 

死について、触れることがなければ、それもわからない。

 

自分が死ぬのは一生に一度だけ。が、人の死には何度も遭遇するのだ。

 

お寺で育った私は、人の死に遭遇する機会は平均値よりも多かった。死は哀しいことだけど、それを避けれないことも、それが自然であることも分かっている。

 

死を通じて、生きるものもある。たとえば、思い出や、死者の意志が。たとえば、ラテン語は死語になったからこそ学術的に扱われやすくなったり、違う命が吹き込まれている。

 

私は祖母を亡くした時、とてもとても哀しくて泣き続けた。皮肉なことに、祖母の死をきっかけに、私の中での祖母の存在は大きくなった。

 

何歳から死について、受け止められるのか?それはわからない。

 

娘たちが成長していく中、私は親として、大人の一人として、教えて行きたい。

 

死とは決して避けては通れない。

死は誰のせいでもない自然なこと。

死者の死までの道のりをしっかりと心に刻むこと。

その人の事を忘れないためにも、お墓参りはすること。

あなたにも、いつ死は訪れるかわからないから、日々を大事に生きること。

 

子供たちにこんなことを教えなきゃ、と思っているのに、自分はそれをできていないと気づいた。

 

私にも、誰にも、死はいつやってくるかわからない。もし明日死ぬとしたら?

 

私はすごく後悔するに違いない。

 

なぜ、今日も子供たちに何回も怒ってしまったのだろう。なぜ、もう一冊絵本を読んであげなかったのだろう。あともう10回くらい抱っこしてあげればよかった。誰々に手紙を書けば良かった、優しくできなかった。もっと美味しいものを食べればよかった。

 

 

まだまだ生きてしたいことがある。きっとまだ死なないけど、たとえ明日死すとも、後悔しないように生きたい。

 

「人は必ず死ぬ」ということを、受けとめてきたからこそ、私はこう思える。時々で良いから、「死」について考えるって大事。

 

今書いたことを、まず、明日からやってみよう、ちょつずつでもいいから。