エリートとは何か。真のエリートとは何か。
自分はエリートだ!とか特権階級だ!と威圧的な人っていませんか?社会問題や事件に対して、自分は外野という立場から批判・揶揄して、まるで他人事。または人を見下す。
嫌な感じのエリート(インテリヤクザとか?)、清々しいエリートの違いはなんなのか。
イギリスには6年住んでいました。日英のエリート教育の違いについて語ります。学業だけでは真のエリートを育てることはできないのです。
日本でのエリートと、ヨーロッパでのエリートは何が違うのか。真のエリートが育つためには何が必要か。
【何が違うのか】
もちろん、イギリスにもヨーロッパにも嫌な感じのエリートは居ます。「こいつ嫌な奴!」って人にも散々会ってきました(笑)
若干ですが、イギリスでの方が真のエリートに近い人に出会う機会が多かった。
日本との大きな違いは、学校や社会での精神面の教育です。
イギリスは階級社会です。階級社会の方が真のエリートたる精神は育ちやすいのか?と、私は仮定してみます。
イギリスの階級を大きく分けると3つ。
- 上流階級(貴族)
- 中流階級(裕福な庶民)
- 労働者階級(庶民)
お城の城主、執事などの従業員のまとめ役、その他の従業員ってところでしょうか。
上流・中流階級はそれは学業や躾などにしっかりと手間暇・お金をかけて教育します。そこそこはお勉強ができる方が多いかもしれません。でも、それだけじゃ足りないと思う。
【学業面の充実だけでは真のエリートになれない】
親がエリートであっても、学業面でエリート教育を施しても、真のエリートを育てる充分条件ではない。
私自身が正にその典型例です。教育ママ・パパに育てられたが、自らを真のエリートだとはとても思えない。
私の両親は学者です。私の両親の出会いは大学院時代。母は結婚を機に学業の世界からは遠ざかったが、父は退官するまで学者だった。そんな両親の元で育ち、学業に関しては厳しくも恵まれていた。結果、私がエリートになったとは言い難い。が、いわゆるそれなりのエリート教育は受けていた。
学校でも家でもない。真のエリート教育はどのように成されるのか?それを考えるようになった最初のきっかけは古代ローマ史についての読書です。ローマ帝国の影と意志を受け継ぐ文化圏、ヨーロッパに住んでから、「エリートとは」を真剣に考えるようになりました。
そこでのキーワードが「ノーブレス・オブリジェ」。これはローマ帝国の公用語のラテン語です。
【ノーブレス・オブリジェとは】
なぜ日本語には「エリート」にあたる単語がないのか。つきつめると「ノーブレス・オブリジェ」の精神の有無が理由だと思います。
日本で私が施されていた「エリート教育」は、エリートになるための必要条件である学業に関してでした。それは、充分条件ではない。
ノーブレス・オブリジェを直訳すると「貴族の義務」、意訳すると社会的地位の高い者・能力がある者が背負う義務です。
先日私が読書感想文を投稿したジャレッド・ダイアモンド氏の「銃・病原菌・鉄」につながります。この本では、人類が農耕するようになってから、より複雑な階級社会が作られたと説明されています。
農業により、米や小麦などの貯蔵可能な食物を余剰生産できるようになりました。その恩恵として、農業や食料を獲るために従事しない人間も養えるようになった。だから文化や文明が生まれたとされています。
要するに、特権階級は野良仕事などの重労働をせずとも飢え死にしなくなったのです。その特権階級は何をしていたか、というと徴税だけではなく、農業がしやすくなるための灌漑設備を作ったり蛮族に攻撃されないように警備したりしていた。
自分の食料を汗水垂らして作ってくれる人たちを守ることが、特権階級の人たちの利益にもなっていた。
恵まれし者が恵まれし者たりうるのは、重労働をしてくれる庶民がいるからこそ。その庶民の暮らしを守り、より豊かにすることをマクロ的視点で捉え、実行できるのが特権階級なのです。時には我が身を削ってそれを果たす。責務を果たしてこそ、真のエリートになれるのではないか?と思います。
その資金提供ができるお金を持っていないときでも、自分が果たす責務を自覚していることが肝要だと思います。
恵まれし者はそれを使って社会に還元する責務がある。
これはヨーロッパの特に上流中流階級では刷り込まれている思想です。高校二年生まで日本で過ごした私には、知らない発想でした。
【能ある鷹は爪を隠すのか、社会のために能を使うのか】
資本主義社会では、上手くいけば一代で大きな財を成せます。ITの力を借りれば一代どころか、数年でも可能。しかしながら、ノーブレス・オブリジェは数年そこらでは培うことはできない。
寄付できるお金がある、というだけでは「ノーブレス」貴族的とは言えないのです。バラまいてるだけでは品がない。品だけあって資金がない、なんてこともあります。没落貴族とか。じゃあ、金がなくても残るものは?
ローマ帝国史には、ローマ街道や上下水道などのインフラが沢山出てきます。画期的な発明です。インフラ開発にも維持にも、莫大な労力とお金がかかります。当時の貴族階級は、このインフラ設備のために、喜んで寄付し、寄付金提供者として己の名前が刻まれるのを誇らしく思っていたのです。
どんな意図で資金提供するのか。その結果、提供者はどんな気持ちになるのか。自ら磨き上げた能力を何のために使うのか。そこにエセエリートと真のエリートの違いが存在する。
能ある鷹は爪を隠す、ではなく、能ある者は社会に還元せよ、なのです。
高度経済成長期を経て、日本の経済は大変大きくなりました。経済は一等国として認められ、G8なんかにも入ってたり。それでも「政治は三流」と言われ続けて居ます。
ここは日本だから、必ずしもヨーロッパ的な発想が風土や国民性にマッチするわけではない。ヨーロッパ的エリートが、日本を救うとも限らない。けど、私はこの国の行く末は心配です。
成金ではなく、先祖代々の貴族的な階層であれば真のエリートなのか、といったらそれも充分条件ではない。現に、二世三世政治家の全員はエリートっぽくない。(そういう人もいますよ、きっと。私が知らないだけかも。それに日本に限らずどの国にもしょうがない政治家はいます。)
日本の政治家が、私の考える真のエリートっぽくない理由は、社会問題を他人事として捉えているからと思います。。下層階級での問題って、上層の方には直接は関係ないのです。スラム街で下水管が詰まろうが、貴族の家にはキレイな水が出る。社会問題をスルーすることも、見て見ぬ振りもできる。
例えば、保育園の待機児童問題がいつまで経っても解決されないのは、現在の政治家にとっては他人事だからだと思う。乳幼児のお世話をする役割を背負っていない人には、待機児童問題に取り組むことは、金も労力もかかる面倒なことなんです。
結局は、他人の問題をどこまで自分事に捉えられるのか?につきる。
日本人の素晴らしい所は、とにかく秩序やルーチンを守れること。こんなに時刻どおりに電車が来て、ホームドアに合わせてピタッと停車する。そんな芸当ができるお国はそう多くありません。そもそも思いつきもしない。用意された型にピタッとはめていく。はめ方を改良することは、日本人はとても得意です。日本人が誇るべき所。
が、これからの時代、一体何が型なのか?は不明瞭です。たとえば、ワンオペ育児が母親の負担であることや、児童虐待問題は決まった型があっても解決はできません。虐待を防ぐための手段は一つだけではない。唯一の正解の型なんてないんです。働き方改革だって同じ。
が、我々日本人は今、様々な社会問題を解決するために型を考えなくてはならない。
日本人は、鉄道や車を発明しなかったが、大掛かりな改善をした。人を運ぶ手段って、どの国でもそうは変わらない。他国人が作ってくれた型を改良して行くことはできた。型をお借りしていた。
他国は、日本人の精神にあった解決方や型なんて考えてくれません。私もこうやって揶揄してないで、その新しい型を考える側に立つ必要がある。そうやって戒めなければならない私は、やっぱりノーブレス・オブリジェを持ち合わせていないのだ、と実感します。
たとえ精神を刷り込み教育されたとしても、真のエリート、またの名をノーブレス・オブリジェは存在できないのかもしれない。
追記
「エリートとは一番、多様性から遠い存在かもしれない」についても書きました。