打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

エリート:多様性から一番遠い存在

先日の「真のエリートと偽エリートの違い」の続き、「エリート:多様性から一番遠い存在」と、エリートを切り口から書きます。今回は宗教観から。

 

最近イスラエルに関する本を読みました。電車で体臭強い人と大きな体格の人に挟まれ、「今日は電車よ隣人運がないなー」と思う平和ボケっぽい私と、何千年と隣人事情が緊張状態なパレスチナ地方の対照的なこと。

 

イスラエルといえば、ふと、イギリス留学時代の友人、仮名クレア(フランス系ユダヤ人)を思い出した。クレアのユダヤ教徒らしい習慣を、「バカみたい」と笑うのか、尊重するのか。そこに人間の性根が現れるのかもしれない。

 

偽エリートならぬ、真のエリートならどう反応するのか?気になるエピソードを綴りました。

 

私のイギリス時代は、実に様々な人種や国の人に出会いました。「大学に行ける以上の裕福さ」は皆同じだが、宗教観や文化は、日本より多様だった。

 

ブブカ付きのイスラム教徒、ユダヤ教徒キリスト教徒、各宗教の各宗派がぞろぞろと同じ講義室や実験室で共に学ぶ。私はそんな大学で4年間を過ごした。宗教の違いなんて特に意識せずに。

※完全に余談ですが、異教徒よりも、私が苦手だったのはキャピキャピキラキラ女子。日本に居てもイギリスに居ても、苦手属性は変わらなかった。

 

私は寺の娘でありながら、特に何の戒律もなく生きて来た。そんなの修行僧だけだろ!と。ゆえ、戒律を守る一般人に触れたことはあまりなかった。だから、少しびっくりしたのです。

 

晴れた午後にピクニックをしながら、旅立つお友達に、お別れ寄せ書きメッセージを集めていたとき。

 

「今日は宗教上の理由から、文字を書けない」

 

ユダヤ教徒であるクレアは、戒律を理由に寄せ書きを断りました。

 

 ユダヤ教では、安息日は神が世界を創造した日だから、人間は創造的な活動を控える

 

安息日がどうの、という話は19 歳の私には初耳だった。世界史の授業は、「ユダヤ人は迫害を受けた」ということしか教えてくれず、細かい戒律などの日常生活に関することは、何も、学ばなかった。

目の前の友人が自分とは違う習慣を持っている、ということは、何年も習った歴史の授業以上に世界を考えさせてくれた。

 

 

「戒律って大変だな。それじゃ土曜日は勉強できないってこと?」

 

これがユダヤ教に関して無知な 19 歳の私が抱いた感想だった。

学生は土日も勉強をする生き物。文字を書けない日のお勉強は、読み物に集中するらしい。

 

土曜日に文字が書けなかろうが、勉強できなかろうが、クレアは成績優秀だった。それ以外の曜日にしっかり勉強していたのだろう。

 

 

このエピソードを、東大卒の人に話したら、「(そんな戒律)バカみたい」と一蹴されたことがある。 

 

クレアは私の友人である。バカにされて、なんだかやるせなかった。

 

バカみたい、と一蹴して良いことなのか?何千年も受け継がれている戒律や習慣を、他文化、他宗教の人が嘲笑っていいのか?

 

エリートこそ、人を嘲笑ったり、バカにしたりすることが多いのではないか?エリートこそ、多様性から一番遠い存在なのでは?

 

私はそう考えるようになった。

 

エリートこそ、一番多様性がない社会の層だと思う。

 

流行ってる「多様性」という言葉。2 年程前に書いたとおり、私は「多様性とか言ってる人は本当は、多様性なんて欲しくない」「ダイバーシティなんて嘘!」と考えてる。 

 

組織によっては、多様性がなく、均一的であることが大事な場合もある。なぜここまで多くの人が「多様性」を求めるのか。本当に求めてる?

 

「多様性がないと業績が悪くなる…と、株主や投資家に思われるから。。」と邪推してます。自ら求めたものではない。だから、嘘っぱち、建前に見える。

 

組織の上層部が「組織の多様性が」と言っても、なんだか信用ならない。ワーキングマザーという少数派の立場から、それを痛感したこともある。

 

会社、とくに大企業上層部ってエリートが過半数。エリートって一番多様性がない社会の層だと思う。

 

良くも悪くも、この世はピラミッド構造です。社長は1人、管理職は20人、平社員は500など、上に行けば行くほど人口は減ります。

 

アンナ・カレーニナの法則は、「幸せな夫婦はどこも似た点があり、不幸な夫婦は家庭の数だけ不幸の形がある」と同じく、社会の上に行けば行くほど共通点が多くなる。

 

社会の上の層(金持ち)には共通点が多い。

 

大企業経営陣なら旧帝大早慶出身者が多く学歴も経歴にも共通点が多く、平社員になればもう少しバラける。そんなイメージでしょうか。霞が関の官僚に至っては、旧帝大はおろか、東大じゃないと大した出世はできないと来ている。

 

共通点が多い人たちに囲まれていれば、自分は心地よい。自動的に自分が多数派になり、無理をせずとも「あいつは空気を読んでる」と認識してもらえる。

 

村社会のこの国では、そうして生きる方が楽…かもしれない。「少数派」「弱き者」の声を聞くとか、本当は結構面倒くさいもの。可愛い可愛い我が子であっても、面倒くさいことはあるのだ。

 

自分が多数派でいられるコミュニティにさえ属していれば、少数派について真剣に考えなくて済むのか?逃げ切れるのか?

 

いいえ、逃げ切れない。

 

どんな社会層に居ようとも、どんなに多数派っぽい人でも、何時でも自分が少数派になることが起こりうる。

 

例えば、もし、自分や家族が病気になって、車椅子生活になるとしたら?

 

多様性を!!と求めたり、「うちはこんなに多様性に富んでるのよ〜」とアピールしてる人たちにお願いしたい。

 

自分の視野がどれだけ狭いのかという現状認識をして欲しい。そして、「本当に多様性を求めているのか?」を問い直し、そう望まないのならば、正直に言って欲しい。

 

「うちの会社は多様性なんて要りません!」と明言するのは、勇気がいるかもしれない。

 

せめて、本音ではないなら、沈黙を守って欲しい。ま、これは私の個人的好みが強いです。見栄えの良い建前よりも、クソみたいな本音の方が、私はしっくり来る。建前怖い。

 

 

他者の習慣を上から目線でバカにする人口は、エリート層に一番多いかもしれない。

 

世界史の教科書で、〇〇年〇〇事変とか教えるのもいいけど、生身の人間を想像させる様な内容も教えて欲しかった。

 

「〇〇教には△△の戒律があり、理由は✕✕です。」

 

戒律にはそれぞれ、なんらかの理由がある。背景まで学ぶことこそ、真の理解への近道だと思う。

 

これまでの日本の知識詰め込み型教育では、こういったことは中々培われないのかもしれない。