人間には色んな思考があって、全てが表面に出て来るわけでもなし、表現したところでそれが理解されるとは限らない。
完全なる理解は目指さなくてもよい。理解しようとする努力があったか、が大事だと思う。
そもそも、自分とは違う人間を、理解するなんて、本当はできない。
「完全なる理解を目指さなくても良い」んじゃないか、という記事の続きです。
ちょっとした発想の違いならば、理解することも同調することもできても、政治や宗教というものは、それが難しい。
そして、自分に親しい人が、自分とは違う考えであることに対してアレルギー反応すらする人がいる。
異国人や赤の他人が違う考え=当たり前、どうとも思わない
親しい友人や血族が違う考え=許せん!
ってことはある。
特に、政治思想は難しい。
そして、更にアジア圏の方が難しいと思う。
先日の朝活会で「大好きなお父さんと政治思想が合わない」という話を聞いて、昔、私が考えていたことを思い出した。
2004年から2010年にかけて、私はイギリスに住んでいた。その歳月は6年。
日本人とイギリス人の政治に対する向き合い方は、すごく違ったという印象を受けた。
あくまで私が受けた印象です。
海外に出てみると、自国について違った味方ができるという不思議。
日本もイギリスも島国。村社会気質がより強いのが日本。
日本においてのイメージ
- 普段は仲良く付き合っていても、選挙や何かで「自分とは違う政治思想の人」を見つけると村八分にする
- 上記の理由から、自分の政治思想について、友人や隣人とあまり深く話さない
- 友人と政治思想が違うとわかると付き合いにくくなる
- 政治って、高収入の一部のホワイトカラー労働者たちがやんややんややっているもので、その他の人にはあまり関係ない
- 実像はともかく、政治家はお金の扱いから女性関係までクリーンでなければならない思想
もちろん、これに当てはまらないケースは沢山ある。が、概ねこういう印象。
日本で右翼の人と左翼の人が、政治的に対立してるけど、プライベートでは超仲良し!って、聞いたことない。
反対に、イギリスにおいてのイメージはこんな感じ↓
- 自分とは政治発想だからといって、村八分にしたりしない。(たとえ、政権の党員であっても、特定の政策に反対であれば、与党席を離れるのがイギリスの政治家)
- 友人の間でも、政治の話は頻繁にされる(私は理学部の学生で、政治の勉強はしていなかったが、政治は理学部生にとっても、よくある会話内容だった)
- いわゆる低所得者であっても、しっかりと政治に関心を持ち、友人と討論したりする
- 政治家=クリーン妄想はない。お金に汚いのは困るが、浮気しようが宗教がなんだろうが、政治という仕事を全うしてくれることのが大事
- 政治思想が違う親友が存在しうる(遡れば古代ローマ時代のカエサルとキケロがその一例)
政治思想か異なる親友が存在確率は、ヨーロッパとアジアで大きく違う。
成り立ちが、法治国家か、人治国家か。これが大きな原因ではないか、と推測する。
古代ローマ時代からも、ヨーロッパは法治国家だった。○○さんが言ったから、この人は処刑になるのではなく、法という客観的なものによって裁かれいた。
※法律は万能ではないし、おかしな法律も沢山ありますが、文字に起こされている=客観的になる
法治国家では、法律の否定は、為政者の否定に直接は結びついていない。ゆえに、抗議もしやすかったのではないか。
アジア圏、というか中国文明が根っこにある社会では人治国家がベース。「俺が法だ!!」という人が、様々な決まりを作り、その「俺」が死ねば新しい王が「法」になる。
人が法律なわけだから、法律の批判=王の批判に直結。打首が怖くて、おいそれと法律の批判はできない。
江戸時代の日本だって、お代官や上様の愚痴をこぼしてそれを密告されようものなら…と皆恐れていたのではないか。
こういった歴史的背景からも、アジア圏では昔から、「私は異なる政治思想を持ってます」って言いにくかったんじゃないかなぁ。そして、その伝統というか DNA は今にも生きている。
これって政治思想に限らず、よくある話だと思う。私は中学時代、部活の運営方法について、友人とぶつかったことがあります。私は「運営方法について違う意見を持ってる」と明言しただけで、友人の人格否定なんて微塵もしてないのに、なぜかその友人と喧嘩状態になってしまったことがある。
意見は人格そのものではない。
私はそう考えていたが、相手はそうではなかった。意見を否定された=自分の人格やプライドが傷つけられた、と捉えていたようだ。私にはそんなつもりは露ほどもなかった。
私は法治国家のやり方で、相手は人治国家のやり方で物事を捉えていた。
誰に教えられたわけでもなく、私も、その友人も、それぞれの考え方をしていた。根底の考え方が違ったために、揉め事になってしまった。
もちろん個人差はあれど、
アジア圏では「意見はその人の一部」と捉え、
ヨーロッパ圏でら、「意見はその人から発せられた全く別のもの」と捉える傾向がある。
どっちが良い悪いはない。文化に優劣はないのだから。私は生まれつき「法治国家」的思想で生きてきたから、周りの人間と異なりイジメに会ったりしたのかもしれない。そして、だからこそ、イギリスに行った時になんとも言えぬ心地よさを覚えたのかもしれない。
人前で語れるような立派な大政治思想を、私は持っていない。が、この歴史的文化的背景からか、我が身可愛さゆえに、この国で政治思想を語るのは息苦しく感じる。やっぱりここは、思想統制国家なのか。
自分以外の人を変えるなんて難しい。自分が変わるのが一番早い。
けど、どうしても願ってしまう。
人治国家的思想の人が居てもいい。そっちが多数派でもよい。
けど、わかってほしい。たとえ対立意見が私の口から出ても、相手の人格を否定してるつもりなど微塵もないし、交友関係を意図的に悪化させようとはしていないことを。
さーて。私が黙っておくべきなのか、※アサーティブに行くか。※相手のきもちを汲み取りつつも、自分の希望をニュートラルに伝える。
私にはどっちも結構難しい。