打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

子供の小さな希望を叶えられない本当の理由

絵本読んで〜!

抱っこ。

一緒に遊ぼ!

 

子供の要求はとてもシンプル。一つ一つは小さいもの。

 

「今〇〇してるから、後でね」

 

後でね、と言って、本当に後でしてあげなかった事が、山ほどある。昨日約束した絵本、結局読んであげられなかったな…。一緒にパン屋さんごっこしよう、○○ごっこしよう、と言われ、やって挙げられなかったのは通算、何回になるんだろう。

 

洗濯、掃除、食事の用意、メールに返信…

確かに、自分が他にしている何か、があって、それを中断されるのは嫌だ。

 

子供たちの願いは、こんなににも小さくシンプルなものなのに、なんで叶えてあげられないんだろう?

 

子どもたちが起きる前の、静かな朝に、そんなことを考えていた。

 

掃除や洗濯など、わかりやすく家族のためになることをしている時は、子供たちの願いを退け後回しにしても、そこまで罪悪感を感じない。

 

けど、お友達へのメール返信は?読書は?ただのくだらないネットサーフィンは?

 

生産性もなく、家族のためにもならない行為をしたいが為に、子供の「遊んで」を後回しにする。罪悪感と自分に対するイライラが出てきてしまう。

 

なんで、子供たちの小さくてシンプルな願いを後回しにしてしまうことが多いの?私はなぜそれを叶えてあげられないの?

 

ノートにそんな事を書きながら考えていたら、理由が見えてきた。

 

私自身の小さな願いを、私は叶えていない。

実現していない小さな願いが沢山ある。

 

 

「子供たちの願いは、シンプルで小さいもの。だから、叶えてあげたい」

 

頭ではそう思っても、心が反発する。

 

「私だって、〇〇もしたいし、☓☓もしたい!それを我慢してるのに。」

 

子供のためにしている我慢もあれば、子供とはおよそ全く関係ない所でしている我慢もある。

 

頼まれてもいない我慢

 

たとえば、食べ物。本当は、+300円のCランチが食べたいのに、+0円のAランチにする。

 

たとえば、洗濯。今日は疲れたから、洗濯したくないなぁ…でも明日は雨だから、今日やらなきゃ。

 

たとえば、ヨーグルト。本当は、ねっとりのギリシャヨーグルトが好きなのに、割安のブルガリアヨーグルトを買ったり。

 

たとえば、洋服。断捨離してるし、できるだけ増やしたくない…お金もかかるし…と、あの時欲しかった水色の靴を買わずにいる。

 

たとえば、本当は毎月で美容院に行きたかったのに2-3ヶ月ごとになってる。

 

たとえば、もっと早く寝たかったのに、くだらないスマホいじりで夜ふかししている。

 

たとえば、着物。私はそろそろ着付けを習いたいが、やれ時間やお金が、と習わずのままずっと過ごしている。

 

たとえば、たとえば、たとえば。

 

きっと、書き出せば切りがないほど、自分が叶えていない小さな願い達が沢山ある。

 

 

それだからなのかな。それとも体力のせいかな。忍耐力のせいかな。子供たちの小さな願いを、退けてしまうことがあるのは。

 

他人の願いを叶えるのは、心理的ハードルは低い。「人の願いを叶える」行為そのものが、なんか道徳的に見えたり、「良い人」になれる気がするから。

 

自分のためだけにしかならない願い。自分の願いを叶えるのには、何だか罪悪感が伴う。「ワガママ」に見えてしまうからか。

 

 

子供たちの願いを全部退けてるわけじゃない。もちろん、一緒に遊ぶし、れーちゃんとワカメちゃんの絵本も読むし、二人とお散歩も行く。

 

 

快く子供たちの小さな願いを叶える。その時間も回数も、まだまだ少ない。

 

少しでも、そんな時間が、回数を増やしたい。

 

普通のヨーグルトじゃなくて、ギリシャヨーグルトを食べる。

欲しかった靴を買う。

早く寝る。

 

小さな自分自身の願いを、叶えて行こうと思った。結局それで、私の「ワガママ」が満たされている方が、結局子どもたちの願いも叶えやすくなる。たとえば、苦手な分かち合いもできるようになるかもしれない

 

 

まだ叶っていない、貴方の小さな願いはなんですか?

 

自分の小さな願いを叶えることは、決して悪いことじゃない。

自分の本当の幸せは、誰かの我慢の上に成り立ったりしない

 

結局は自分の願いが叶って、ご機嫌でいる方が、周りも幸せにできると思うから。

 

 

 

 

☆☆☆秘密のFacebookグループ作りました☆☆☆私は、

「本を書いてみたい」という気持ちがあります

 

一人ではなく、読者さんと一緒に作って行きたい。そのための、秘密のグループを作りました。

 

ブログには載せない私の一面を載せたり、本の構成の意見交換などをしています。

 

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ここまで読んでくれた貴方も、仲間になってくれたら嬉しいです♪

 

私の直接の知り合いじゃない方も、ウェルカムです☺

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんだよ!寝たと思ったのに!」とイライラしちゃう

子供が寝ると、胸をなでおろす。

おやすみの挨拶の後、子供部屋のドアを閉めると、「やっと終わった」と、ホッとする。

 

その平穏に、一番水を差すのは、子供がまだ寝てなくて起きてきた時。

 

「なんだよ!!寝たと思ったのに!!」

 

つい、イラッと。してしまう。

なんなら、舌打ちしちゃう事もある。

 

けど、寝顔を見ては反省する。

 

大好きなんだけどね、おやすみの時にも「大好きだよ」って伝えるんだけどね。思ってしまう。

 

ママは一刻も早く「1人タイム」「大人タイム」に入りたい。だから、邪魔しないで早く寝て!!

 

寝かしつけのスタイルは、お家によって様々。我が家では、絵本を読んで、布団に入り、「おやすみ」のご挨拶をしたら、自分で寝てもらう。1歳位から、このスタイル。

 

要するに、子供が寝落ちするまでは親は付き添っていない。そこまで待たなくて済むように、本当に小さい頃から、娘たちが一人で眠りに落ちれる様にした。子供たちのためでもあるし、私のためでもあった。

 

これって一筋縄では行かない寝かしつけで、かなり研究して、試行錯誤して、苦労してこのスタイルが定着した。

 

基本的には子供部屋のドアを締めたら、布団からは出て来ない約束になってるのだが、何か変わったことがあればそれば出て来る訳で。

 

怖い夢を見た、鼻血が出た、水をこぼした、

いつものお気に入りタオルがない、いつも一緒に寝てるぬいぐるみのぴよちゃんが居ない。

 

ただのいたずら心で、布団から出てくるわけじゃない。

 

悪意なんて微塵もない。

 

わかってる。わかってるけど!!

 

それでも「あ〜やっと、今日も私の一人タイムだ💕」「やっと来た、夫婦で話せる時間✨」と思っている時に、忍び寄る子供の足音は、恐怖だしイライラしちゃう。

 

「おやすみなさい」の挨拶までは、心の体力を残して、私にしてはかなり優しい「おやすみなさい」のご挨拶をする。

 

その数分後に子供が起き出して来た時の私の不機嫌っぷりったら…もはや二重人格。

 

ううう…ごめんよ…

ごめんよ、れーちゃん。

ごめんよ、ワカメちゃん。

 

一人タイムではこうやってブログを書き溜めたり、読書することもあるけど、くだらんネットサーフィンやゲームしてる事も多くて。

 

夫婦タイムでは、すごーく濃くて深い話をしている時もあれば、深夜番組バラエティの様なくだらん会話も多いわけで。

 

 

そんなものの為に、れーちゃん相手に、ワカメちゃん相手に、プリプリしてしまってるのか…

 

 

子供はかわいいよ。かわいくて大好きだけど、それだけでは済まない。

 

時々不安に思う。

 

私みたいのが親で果たしてよいのか…」

 

 

だから、つい聞いてしまった。

 

👩「れーちゃんはさ、別の人がママだったら良かったって思う?」

 

👧「ううん。今のママがかわいいから!

 

ヤバイ、この時点で泣きそう。我が家の「かわいい」と言い続けて育てる教育は、こんなところでも発揮されている。自分だけじゃなく、他の人にも「かわいい」と言える子

 

👩「んー、もっとさぁ、優しかったりお料理上手なママもいるでしょ?そういう人がママだったらいいなー、って思ったことないの?」

 

私が自信なさげに聞いた。

 

👧「でも、その人知らない人だし!」

 

そう言って、れーちゃんは微笑みながら、お気に入りにぬいぐるみ達を抱いて、眠ろうとしている。

 

👩「そっか…ありがとう。。」

 

 

緊急事態宣言中、保育園がお休みだった。だから、今年の母の日のプレゼントは何も受け取れなかった。

 

無いもの、と思って忘れていたのに、先日、父の日制作と一緒に、母の日用プレゼントも渡してくれた。

 


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「まま、だいすき」

 

だって。

 

いびつだけど、れーちゃんががんばって書いた文字が書いてある。

 

そのいびつさが、下手っぴさが、なんだか愛しくて、たまらないよ。

 

 

子育ては大変だ。大変だけど、こんなに有難いこともない。

 

たとえ「こんな女のどこがいいのか」と自分では思っても、「まま、だいすき」でいてくれるのだから。

 

 

昨日は夕方からずっとダルくて、子供たちに優しくできなかった。今日は昨日よりずっと優しくできた。比較論だけどね。

 

 

明日はもっと、優しくできるかな。

 

 

 

れーちゃん、ワカメちゃん、おやすみなさい🌛

 

 

 

 

 

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れーちゃんは考えてるの!(いくら考えてもわからない、自分の才能)

子供の成長はすごい。

 

少し前まで殴り書きのようだった絵が、絵らしくなってくる。

 

そして、口も達者になってくる。

 

絵を巡って、主人が、5歳の愛娘、長女れーちゃんに一本取られたお話です。

 

れーちゃんの画力がどんどん上がっている。先日、こんな絵を描いてくれた。親バカな我々夫婦は、可愛くて上手な絵にしか見えない💕


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この絵を巡っての、主人とれーちゃんの会話。 


パパ👨:れーちゃんすごい!!パパが絵が苦手なのに、れーちゃんはパパの子なのに、なんで絵が上手なの?


れーちゃん👧:れーちゃんは、かっっんがえて(考えて)描いてるの!パパも、かっっんがえて(考えて)描けばいいじゃん!

 

比較的オールラウンダーな主人ですが、絵だけは本当に苦手。人の絵と言えば、棒人間しか描けない。

 

その昔、保育園時代に描いたきゅうりのスケッチでは、緑色の点をきゅうりだと言ったそうな。(これはどちらかと言うと、やる気がなかっただけかも。)

 

 

れーちゃんよ、パパはかっっんがえて(考えて)いない訳ではない。

 

いくらかっっんがえて(考えて)も、描けない人はいるのだよ。

 

いくらかっっんがえて(考えて)も、○○ができない人はいる。

 

私はいくら考えても、裁縫は下手だし、料理はそこまで好きじゃないし、若干音痴だし、苦手なものは沢山ある。

 

そして、私がいくら考えてもできないことを、自然にできる人達がいる。それって才能だと思う。

 

 

自分が自然にできること、考えたらできることがある。自分に才能があるものは、他の人も出来ると思いがち。

 

自分にはどんな得意があって、不得意があって、どんな才能があるのか。

 

それは1人で過ごしていては学ぶことは難しい。人と一緒に過ごす中で、人との違いに、自分の才能に気がつく。

 

LINEの友達追加という私にとっては朝飯前の行動も、60代のデジタル不得手のMさんには物凄く喜ばれた。Mさんには朝飯前の茶道具入れの裁縫も、裁縫がめっぽうダメな私には宝物なのだ。

 

自分にとっては、「大したことない」「どうでもよさそうなスキル」が、誰かの宝物になるかもしれない。

 

れーちゃんには、ワカメちゃんには、どんな才能があるのかな。娘たちの人生、どうなって行くのか、見るのが楽しみだ。

 

そして、ハッと思った。私の人生もまだまだ終わっちゃいない。娘の人生の傍観者だけで済んで良いわけない。

 

私はまだ30代前半。寿命が80でも100でも、まだ半分にも来ちゃいない。

 

私の才能のことも、知って行きたいな。

これを読んでる貴方にも、どんな才能があるのかしら。

 

いくら考えたとて、私は裁縫や運転が下手だし、主人は絵が下手。

 

それと同じくらい、自分の才能はいくら一人でかっっっんがえても(考えても)わからないから、周りの人に聞いてみてください。

 

よければ私にも!

 

 

秘密のグループでは、メンバーがどんな素敵な人か?を私が紹介する、という他己紹介をしています。自己紹介ならぬ他己紹介

 

自分自身を違う視点から見れる、と好評です♪

 

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どうってこと無い事が、喜ばれた小話(お金って、価値って、何だろう?)




特定のものに、物思いにふけることはありますか?

 

私は、胡椒を見ると、「胡椒と銀が当価値で貿易されていた時代があったのか」と謎の物思いにふけることがある。

 

時々考える。

 

お金って何だろう。

 

「お金」の歴史と、今日私が体験したお金を介さない経済循環を交えて考えてみた。

 

目次

■胡椒貿易やら塩の価値の歴史うんちく

■今日の私が垣間見た、お金を介さない価値の小話

 

 

■胡椒貿易やら塩の価値の歴史うんちく

ちょっとここで、胡椒貿易の話をします。うんちくを読むのが嫌な人は読み飛ばしてください。

 

私の愛読書の一つが塩野七生さん著作の「海の都の物語」。ベネツィア共和国の歴史物語。「ローマ人の物語」に続き、大好きな作品。

 

ベネツィア共和国とは、ヨーロッパでは最東に位置する土地の利を使って、トルコやアラビア地方との貿易して財を成した国。ベネツィアの歴史には、私は中々特別な物を感じる。新婚旅行の土地でも行った↓

(嗚呼…また次に行けるのは、いつなのか。)


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いつの時代も、軽くて(輸送費が安い)、高単価な物が貿易に好まれる。当時の軽くて高単価な物は、胡椒だった。

 

肉の臭み取りに最適な胡椒は、ヨーロッパの気温では育たなかった。簡単に入手できない、ということで価格は高騰し、銀1gと胡椒1gが同じ価値で取引されていた事もあるとか。

 

あれから経済は変わったものだ。胡椒は数百円で買える。

 

かつての高級品の値段は大暴落。

 

米や塩、胡椒と同様、これまで貨幣と同等価値を持っていた物の価値は下がっているのか?

 

為替、株価、金、いずれもその価格は変動する。

 

それならば、お金そのものの価値も、いつか下がるのか?価値ってなんだろう??

 

■今日の私が垣間見た、お金を介さない価値の小話

私は細々と茶道を習っている。今日は、緊急事態宣言もあり、数カ月ぶりのお稽古だった。

 

有難いことに、親子ほど年の離れた人生の先輩とも、同じ門下生として学んでいる。今日のお稽古でご一緒した二人、Mさん、Nさんは、まさに、私の親または親以上のご年輩。茶道歴もずっと長く、私は教わることが沢山ある。

 

そんな素敵な先輩達も、スマホの作業に苦労していた。

 

 

MさんとNさんは、お稽古が中止であった緊急事態宣言中に、なんとかLINEで繋がろうとしたものの、「遠隔での友達追加」の方法がわからず、数カ月間はSMSメッセージでやり取りしていたそう。

 

かと言って、対面で出会えた今日も、設定の仕方がわからない…と悪戦苦闘中。代わりに私が設定してあげた。

 

そしたら、MさんもNさんも大感激!これでSMSよりも楽にやり取りできる!と。

 

今日のお礼に、と、Mさんは茶道具一式を入れる袋(手作り!)をプレゼントしてくれた!!↓

 


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扇子を入れる内ポケット、懐紙を入れるのにピッタリの内ポケット、非常に良くできている袋。さすが、茶道歴が長い方考えて作っただけある。

 


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私はこれまで、茶道具を小さな箱に入れて持ち歩いていた。あんまり格好が付かないし、ケースが欲しいなぁ、と思っていた所だったので、非常に嬉しい!

 

 

しとしと雨の降る帰り道。これは物々交換だなーと思った。

 

裁縫が得意なMさんにしてみれば、茶道具袋一つ、大したことはない。

私にしてみれば、「LINEの友達追加」という作業は、なんてことはない。

 

 

お互いに、「自分にとっては大した労力ではない」物が、相手にとっては、貴重で喜ばしいことだった

 

これぞ、物々交換、またはスキル交換。お金は介在していない。けど、そこに価値はある。

誰かが助かってるし、誰かが嬉しい。そこに価値はある。

 

 

コロナにより、新時代が来るとか来ないとか言われている。

 

会社員を辞めた今の私は、以前ほどの収入はない。そこも分かって、覚悟して、退職したのに、分かっていたけど、モヤモヤしてしまう事は多い

 

月収とか、給料とか、収入とか、数字が減ってると、「はぁ…」と思ってしまう事もある。

 

けど、今日はお金という数字を介さずとも、私はMさんが喜ぶ価値を作り出していたし、Mさんの手作り袋にも同じ価値を感じた。有難い!

 

数字に換算して、金額という解りやすい形になっていないだけで、ちゃんと、価値はそこにある。

 

ま、もちろん、収入が増えたら嬉しい!お金が欲しくないなんて、綺麗事は言わない。だって欲しいもん(笑)。

 

「あれもやってみたい!」「これを買いたい」「娘に○○させてあげたい」「○○に旅行に行きたい」煩悩だらけ。やりたいこと、お金がかかることは沢山ある。お金は必ずしも悪いものじゃない。お金が減った増えたで、必要以上に一喜一憂するのが健康に悪い事だと思う。

 

減った「金額」という解りやすいものだけじゃなくて、自分の他の部分をちゃんと見つめてみようと思った。それを続けたら、あの嫌いな相手ですら、「多くの価値がある」と直視できるかもしれない。

 

これを読んでる貴方も、周りの人に聞いて見てはいかがでしょうか。「私の才能って何?」「私が自然にできてることって、何?」

 

自分にとっては、なんてことのない無価値に見えるものが、誰かにとっては宝物かもしれない。

 

 

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本当は利己的な「汝の敵を愛せ」

「あの人苦手だな〜、嫌だなー」って人、いませんか?

 

どこぞの徳が高い方は言うのです。

「汝の敵を愛せ」

 

そんなの無理!!ってずっと思ってた。そんなのわかるなんて奇跡だよ!!と。

 

が、そんな奇跡が、私を訪れた。


利己的に考えたら、嫌いな人の幸せを祈れるようになった。

 

「敵を愛する」「嫌いな人の幸せを祈る」の超利己的解釈をご紹介します。

 

先日、ブログで本音を語ってたら切れたご縁がある話()を書きました。

 

これを公開するのは勇気がいる事だった。特に!切れたご縁の相手もこれを読んでる…かもしれない、と。

 

縁が切れた相手。彼らに嫌われることを恐れてはいなかった。既に嫌われてるだろうし。 

 

恐れていたのは、縁が切れた相手が、何か嫌な事をしてこないか?何か妨害してきたりしないか?だった。

 

「昔こんな人がいて、嫌だったの!」とか、ブログで書いちゃっておきながら、私の脳内での被害妄想炸裂。相手からの復讐を恐れる、ビビりな私。

 

そんな自分がいる事を、認めざるを得なかった。

 

意図に関わらず、人が人を妨害してしまう事、不快にさせることはある。けど、一人一人が心底幸せならば、誰かに復讐してやろうとか、考えもしないよね…。

 

と悶々としていたら、ひらめいた。

 

そうだ!彼女達が幸せであれば、私が恐れる事態は起きない。それならば、嫌いな相手の幸せを祈ろうと思うに至った。

 

嫌いな相手が幸せならば、私に何か余計なことをしてくる可能性は極めて低い

 

私はそう気づいた。

 

だから、まだされてもいない妨害や危害を恐れる暇があったら、あの(嫌いな)人の幸せを祈ろうと。

 

本やら人やらに、「汝の敵を愛せ」とか「全てに感謝せよ」教えられたけど、私には馬の耳に念仏、豚に真珠だった。

 

「敵を愛せ」と、いくら説かれても、その先生がマザーテレサでもダライラマでも、無駄無駄。自分で気がつくしかない。強制されてできるものじゃない。

 

自分で気がつくしかない、のは何も「敵を愛する」ことだけではない。

 

車の運転も然り。

 

私は、ペーパードライバー以上サンデードライバー以下。運転が下手だから、いつもビビリ運転。

 

ある時、ビビり運転しながら、ふと気がついた。

 

「事故に会いたくないのは、誰もが同じ。ほとんどのドライバーは私よりも上手。たとえ運転が下手でも、私が余程突飛な動きをしない限り、周りは避けてくれる。

 

そう気がついた。

 

私の主人は運転慣れしている。私のこの発言を聞いて、主人は小さく拍手した。

 

「ある程度の時間・距離を運転しないと、それに自らは気づけない。気づけてよかったね。」

 

私の運転の教官とも言える主人は、いくらでも「変な運転をしなきゃ、周り避けて貰える」という事実を教えることはできた。でも、それをしなかった。

 

人に教わるのではなく、自ら気がつく事に意義がある

 

私は聖人君子でも何でもない。ただの人。

 

それでも「自分の苦手な人・嫌いな相手の幸せを祈る」と決めたのは、自分のため

 

自分に火の粉がかからないように、火の粉の元になりうる相手の幸せを祈る。そして鎮火を企む。

 

「汝の敵を愛する」ってのは、自分の身を守るため。結局は自分のためなんだな。

 

私は、敵を「愛する」っていうのは、未だピンと来ていない。

 

私が今、しっくり来ているのは、「嫌いなあの人も、幸せでありますように」と祈ること。

 

その人のためでもなく、偽善でもなく、とにかく自分のためにやる、と思えるようになった。

 

これも、自分が嫌だな〜と感じる経験があったからこその気付き。

 

好きな人にしか出会えてなければ、「人の幸せを、自分のために願おう」とは思えなかったかも。

 

 

自分を好きな人が、私に危害を加えてくる可能性は低い。私が幸せを願おうが願わまいが、その確率は変わらない。妨害も危害もないなら、「その人の幸せを祈ろう」なんて発想にはなれなかった。

 

私は聖人でも聖母でもない。いくら大好きな人達相手でも、「あなたの幸せは私の幸せ」とまでは思えない。

 

けど、自分の身を守るためならば、人の幸せも祈れる、という自分の図々しさやズルさが見える。

 

こんなわけで、嫌いな人の幸せを祈れるようになった私。嫌いな相手よりも、自分が好きな人の方がもっとずっと幸せになってほしい。

 

だから、嫌いな人も、好きな人も、両方幸せを祈ることにした。相手によって祈る幸せレベルを変えるのは面倒くさい。だから、祈りの強さは同じでいっか。博愛ってこういうことなのかな(笑)

 

私は、あの(苦手な)人の幸せを祈ります。

私は、この(好きな)人の幸せをいのります。

私は、私の幸せを祈ります。

 

「敵を愛す」、「嫌いな人の幸せも祈る」、「人の幸せを祈る」、全てこれは自分のためだったのか。

 

自分にとって嫌な体験をしたからこそ、超利己的動機ではあれど、「敵の幸せを祈る」ことができるようになった。これには感謝しかない。苦手だったあの人、嫌いだったあの人、みんなありがとう。

 

 

これまで、豚に真珠だったご高説の本質が見えてきた。イエス・キリストも釈迦もこんな利己的に解釈されるとは思わなかったかもしれない。寺の娘なのにごめんなさい!超利己的です。

 

利己的な目的で何かを始めて、おこぼれ的に他の人にも幸せをもたらすなら、結果的に利他的にもなれたら、ラッキーだな。

 

 

極めて利己的な、「敵を愛す」の解釈でした。

 

 

あ、ちなみに、これは私が描いた豚の絵↓

 

豚々コブタ〜。

 

一番好き肉は、豚バラ。自分の絵を見て思いつくのがそんな事である自分が、なんだか少し哀しい(苦笑)

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ブログが繋いだご縁・切ったご縁②(次なるチャレンジ)

本音を語ると、何が起きる?

 

本音を出すと、離れていく人、繋がれる人がいる。 

仕事でも、同じことがありました。入る仕事となくなる仕事があった。

 

趣味でブログを書いていたら、お仕事なくなった!なんて、ぶっちゃけ、かっこ悪い。

 

けど私らしく、「打たれ弱いママの徒然日記」らしくそれも書く。

 

今日はまた、かっこ悪い所を見せる勇気から、一歩進む。

 

恥ずかしくて、自信がなくて、言えなかった、「次に挑戦したいこと」についても書きます。

 

本日の目次はこちら↓

■ブログで本音で語ったら、なくなったお仕事

■本音で語ってたら、入ってきたお仕事

■次なる挑戦の構想 

■ブログがくれたもの

 

■ブログで本音で語ったら、なくなったお仕事

ブログでお仕事がなくなった…というか、ブログがきっかけで、私が手放したお仕事がある。

 

「この人と一緒にいたくない」人たちとは、離れた方が良い。ただの友人知人なら自分の意志だけで離れられる。けど、仕事が絡むと簡単ではない

 

特定の人と一緒に過ごすと、私がしおれて行く、自信がなくなっていく。その1人が仕事関連だった。

私は昨年、会社を退職し、新しいお仕事を始めた。ファッションやカラーのお仕事。今までとは全く違う仕事。勉強はしたものの、最初は知らない事だらけで(今もまだまだ勉強中!)、楽しくやっていた。

 

お客様と接する楽しさ、自分がしおれて行く加減。前者が大きい時は、頑張れた。けど、その人と一緒に居る時は、私の警戒心と緊張感が強くなっていた。私の心が枯れて行った。

 

「私って、センスないんじゃないか」 

 

弾劾や指摘が続くと、こんな風にも思うようになった。

 

彼女はそんなつもりはなかったかもしれない。私がそう受け取っていただけ。でも、良い影響ではなかった。

 

 

お仕事自体は好きでも、働く仲間との関係がギクシャクすると、辛くなる。

 

新しい仕事を始めたばかりの私としては、沢山の経験が欲しかった。短期間で経験を積むには最適の場所だった。それを思えば、この仕事を辞めるのは得策じゃない。頭ではそれをわかっていても、心も体も「NO」と言っていた。

 

数カ月間以上悩み、その人から、その仕事から離れることにした。

 

次に、いつどんなファッションのお仕事を誰に貰えるのか、なんて定かな物はなかった。次は決まっていなかったけど、体の叫びには逆らえなかった。

 

 

■本音で語ってたら、入ってきたお仕事

このブログは3年ほど書いてる。趣味というか、「育児だけしてて、社会から取り残されるのが嫌」と始めた。これが仕事に繋がるなんて、考えてもいなかった。

 

「ねえ、ライターのお仕事は興味ある?」

 

と、私の友人かつ、ブログの読者さんである素敵な方に、誘っていただけたのです。

 

私はそれまで普通の内勤の会社員で、不特定多数の人が読むものの発信なんて、したことがなかった。せいぜい、公開ヘルプページの日本語訳がおかしい所を訂正する位(外資系企業のヘルプページには、よくあるんです。英語を直訳したら、日本語的には不自然になる文章って)。

 

だから、私にライターの仕事が務まるのか?って少し不安もあった。

 

「あれだけブログも書いてて、文章力もあるから大丈夫!」

 

文章力が凄くある方にそう言っていただけて、初めてライターのお仕事を貰った。

 

その初仕事がこちらです。

https://motake.jp/magazine/infield01

 

これをブログにも公開するのか?って、かなり迷いました。記事公開日から3ヶ月以上経ってるのが、その悩み期間の証。 

 

「私すごいでしょ!」って自慢してるみたいにならないか、小さいけど、私の写真も出てるし、これ出して大丈夫?って不安で。

 

色んな理由はあったものの、それは全て言い訳。本当は、自分に自信がなかった。

 

「私はこんな仕事してみました」

「もっとこんな仕事をしてみたい」

 

と、胸を張って言えなかった。

 

それが、今なら、言える気がする。そう思って、今日はそれを書けた。

 

これもね、私の「本を書きたい」を応援してくれるグループの皆様に後押しして貰って、やっと、このブログでも公開しようと決めれた。

 

持つべきものは、応援してくれる、本音で語れる仲間!!

 

 

■次なる挑戦の構想

このブログがきっかけで、ライターの仕事を頂けた。昔から、趣味で好きなことであった物書き。

 

額で言えば、今までの会社員の給料とは比べ物にならない少額。でも、その嬉しさは、満足感は桁違い。虎の威ならぬ会社の威を借りる狐、ではなく、自分という人を見込んで頼まれるとは非常に嬉しいことだった。

 

一方、このブログがきっかけで、一つ(しかもその時は唯一の)ファッションのお仕事を手放した。

 

幸い、月数回ですが、今は、バイトとして、ファッション/カラーのお仕事を担当できています。

 

今は楽しい妄想が沢山できるようになって来て。人に雇われる、とかバイト、ではな。自分が主宰するサロンを持ちたい、と妄想してます。

 

「私という人だから、お願いしたい」 

 

そんな風に思われる、そんな風にお願いされる。

 

ファッションのアドバイスをする人としては、私は異色の経歴。

 

  • モデルをしたこともない
  • お勉強はできても、おしゃれには疎い期間が圧倒的に長い
  • 学生時代は、実験用白衣を纏う時間が長く、おしゃれ感は皆無(バリバリの理系)
  • 薄化粧(眉毛とベースメイク以外、あんまり興味がない)
  • おしゃれのために服を沢山持つよりも、断捨離してスッキリしたいので、服は少なめ
  • 流行に疎い。流行よりも、大事にしたい物が強くて頑固。

 

異色ではあると思う。でも、そんな私だからこそ、できることが、あると思う。

 

そんな自分が主宰するサロンを作りたいなぁ〜、と準備中です。

 

今までも、この野望はあった。ライターのお仕事記事を公開できないのと同じ様に、様々な言い訳をして人に伝えられずに居た。上記に書いた「ファッションアドバイスの人としては異色な経歴」の箇条書き、全てが言い訳になってた。それ以外の言い訳もあって、言い訳だらけだった。 

 

自信がなくて、不安で、人に言えなかった。

 

「どうせ上手く行かないんじゃない」って。

 

けど、今日はなぜか、勇気を持てた。

 

だから、この読者様には宣言します。

 

私は、もっと、ライターの仕事をしたい。

私は、自分だからこそ伝えられるファッションアドバイスをするサロンを作りたい。

 

 

いや〜!!恥ずかしい!!言っちゃったよ!!

 

 

どんなサロンにするか、実は構想は既にあります。それは追々、お伝えできたら嬉しいなぁ〜、と思います。

 

ここまでお付き合いくださった貴方、本当にありがとうございます。そんな貴方にこそ、このグループに入って欲しいです♥

 

■ブログが私にくれたもの

このブログが私にもたらしてくれたものは数しれず。これからも、まだまだ、ブログは続ける予定。けれども、ブログに私が何を与えてくれていたのか?を振り返りたい。

 

  • 文字にする、言語化することで私の心と脳内を整理してくれる(育児の悩みに関しては、本当に助かってる。主に、子供の問題ではなく、私の問題であることが浮き彫りになる
  • 私の本音が嫌い/苦手な人を引き離し、私の本音に共感してくれる/好きと言ってくれる人を引き寄せてくれる
  • グループ内では、コアな読者たちともっと近距離で接することができる♪
  • 自分の本当の希望(もっとライターをやってみたい、自分のサロンを作りたい、など)を告げる勇気をくれる

 

これだけ良い事があるんだから、ちょっとくらい嫌な事があっても、書くのが面倒なことがあっても、辞められません☺ 

 

ブログの読者様には感謝しかありません。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

☆☆☆秘密のFacebookグループ作りました☆☆☆

「本を書いてみたい」という気持ちがあります。一人ではなく、読者さんと一緒に作って行きたい。そのための、秘密のグループを作りました。

 

ブログには載せない私の一面を載せたり、本の構成の意見交換などをしています。

 

https://m.facebook.com/groups/548019025796481/

 

ご興味がある方は、仲間になってくれたら嬉しいです♪気軽な感じでOKです。

 

私の直接の知り合いじゃない方も、ウェルカムです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嬉しい質問、寂しい質問 Question と Interrogation

英語を学ぶ時、他言語を学ぶ時。思いませんか?

 

「この単語って英語だとなんて言うの?」

「この日本語に相当する英語はあるの?」

 

辞書を使っても、訳がしっくり来ない事がある。

 

訳し切れない単語達について書いてたら、「どんな質問をされたら嬉しいのか」なんて哲学にまで、脳内が旅してしまった。

 

言葉の意義、翻訳しきれない言葉、から「嬉しい質問、寂しい質問」まで、書いてみた。

 

嬉しい質問と寂しい質問は何が違うと思いますか?

 

 

言語体型も文化圏も全く違う日本語と英語では、言葉の扱いが全く異なる。語順、語彙、言葉の成り立ち、すべてが違う。

 

■訳しきれない英語その1:life、That's life.

life=命、生命、生活、人生

lifeとは実に広義な単語。この全ての意味を含む日本語の単語はない。

 

留学中、上手く行かない事を話す場面で「That's life」と言うセリフを頻繁に聞いた。結構軽い感じで出てくる多用フレーズ。

 

「それが人生だよね〜」

「それは生命だよね」

「それが生活だよね」

 

日本語になると、なんだか重い感じになる。人生の迷い子相談している時みたいになる。

 

英語での that's life は、酒を片手に軽ーく言うような物。世間話中にも出てくるフレーズ。

 

ニュアンスが大分異なるのだ。

 

■訳せない日本語:わび、さび

侘び寂びとは、日本独特の文化だと思う。ゆえ、また、これに相当する英語も見つからない。wabi sabiとしか書けない。

 

私は茶道のお稽古の度に「わび、さび」を体感している。

 

地味な色の畳と壁、茶道具の色も基本的には全て地味色。抹茶を飲む器は、ピカピカ光るような素材ではない。

 

わびしい花を生け、地味空間に身を置く。「無」に近い状態。それに美しさを見出すのは、日本人だけかもしれない。

 

究極の引き算。それが侘び寂び。豪華絢爛を極めてみたら、「これやっぱり違うかも」と思ったのかなぁ。そりゃあ千利休と秀吉のソリは合わなかったのだろうなぁ…。

 

侘び寂びは、かなり深い日本文化。これを好きになる少数派の外国人も勿論居て、彼らはそこらへんの日本人よりも日本文化に詳しいエキスパートになっていたりする。

 

コテコテの白人アメリカ人の同僚が、流暢な日本語で「桜の枝垂(しだれ)ているのがキレイ」「うちの女房が…」と聞いた時は、ひっくり返るほど驚いた。

 

この他にも、訳し切れない日本語は、 過労死、着物、などだろうか。着物は文化だけど、過労死が文化になどなって欲しくない。

 

■訳しきれない英語:interrogate

時々覗いている掲示板(英語)で見かけた質問があった。

 

「〇〇の人って、質問されるのが嫌い?」

 

私は以下のように返答した。

 

I don't mind questions if they are really questions, not interrogations. 

質問(question)は嫌いじゃない、(interrogations)でなければ。

 

訳すとこんな感じ。

 

私が気になったのは、question とinterrogate の違い。どちらも「質問する」という意味だが、ニュアンスが違う。

 

I was interrogated. (Interrogate された)

 

と友達に報告されたら、私はその友人の身を案じずにはいられない。どこかに捕まったのか、濡れ衣を着せられてるのか?誰かにイジメられたのか?等と考えてしまう。

 

日本語ではinterrogateは「尋問する」と訳されているが、これまた 違う気もする。

 

日本語の尋問=そもそも相手が黒、という前提でかかっている。明らかに責める感じ。

英語のinterrogate=相手を白とは判断していないが、どっちとも取れる、巧妙な"質問"。質問手が保身的になってる感じがする。

 

私は日本語でいう「尋問」よりも、英語でのinterrogate の方が苦手。理由は、どっちつかずだから。

 

「尋問」は、相手が私を黒だと判断しているのがハッキリとわかるので、反論しようもある。

 

「 interrogate」は、相手が私を完全に黒とは判断していないので、反論が難しい。反論すると「そんなつもりじゃなかったゼ☆」と逃げられることがある。

 

たとえば、相手が知らないであろう事に対して、「〇〇って知ってる?」とわざと質問をする。そして「そんなのも知らないのね。」と嘲笑う。これぞinterrogation。(私的にはね)

 

 ニュートラルな質問、純粋な好奇心から聞かれる質問は、嫌いじゃない。むしろ歓迎する。

 

何か別の意図があって、質問される時。それは苦手。

 

生きてれば、誰だって色んな質問をされている。その中で心地よかったものと、心にひっかかった質問があったはず。

 

「〇〇で働いてるの?〇〇って、何してるの?」

 

就職した会社が有名だったりすると、こんな質問をされることがあった。私自身が、何十回も聞かれた質問だ。

 

 

真面目に答えたくない時が多かった。正直、良い気がしない事が多かった。

 

当時、その理由はわかっていなかったけど、今分析してみるとわかる。

 

あー、私自身に興味があるんじゃなくて、会社に興味があるだけなんだ

 

きっとこんな感覚があったんだなぁ、と。

 

実は、似たような質問を、親にもされたことがある。本人はそんなつもりは無かったのかもしれない。

 

 

変わった仕事をしているから、説明しづらい。

この会社独特の仕事だから、言葉にしづらい。

企業秘密かもしれないから、言えない。

 

真面目に答えたくない理由は色々あっかもしれない。

 

けど、一番の理由は、寂しかったから。

 

 

私そのものに興味はないんだ。野次馬的に、会社のことを知りたいだけなんだ。

 

 

そう受け取っていた私は、寂しかったんだと思う。

 

だって、私という人物に興味がないなら、私が答える必要はないじゃない?

 

 

保身でもない、私をバカにするためでもない、野次馬でもない。

 

私という人物を知りたい。

 

そんな風に嬉しい質問をされたら、もう、私はなんだって答えてしまうかもしれない。

 

 

自分が今何を聞こうとしているのか。

どんな意図でそうしようとしているのか。

 

 

人に質問する時は、それを気をつけたい。

 

 

「ねぇ、歯磨きしたの!?」

「靴下、片付けてくれた?!」

「トイレ行った?」

 

 

まずは、娘や主人にinterrogate 、威圧的な質問をしないように気をつけよう…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログが繋いだご縁・切ったご縁①

SNSからご縁が繋がったこと、切れたこと、ありますか?

 

このブログは、繋がったご縁と切ったご縁があります。

 

本音を出すと、離れていく人がいる。

本音を出すと、繋がれる人がいる。

 

良いご縁だけを紹介するのは、私らしくない、このブログ(打たれ弱いママの徒然日記)らしくないと思う。

 

だから、今日は勇気を持って、切ったご縁、繋がったご縁両方をご紹介します。

 

私は打たれ弱いママ日記、として、人には見せたくない部分、弱い部分もブログに公開している。

それが誤解を呼んだり、私が批判されるきっかけになってしまったことがある。

 

■切れたご縁例1:私が虐待しちゃうヤバイ親だと思った人が居た

例えば、連休のヒステリーママ。保育園児の親にしてみると、出勤日よりも子供と24 時間一緒に居る連休には、恐怖かつヒステリックになりやすい時間。(コロナ自粛の二ヶ月の登園禁止期間を耐えれたんだから、今更連休は恐怖でもない。が、あの時は恐怖だった!)

 

そんな話を書いたら、私がマジで虐待しかねない親とでも思った人が居た苦笑。

専業主婦で毎日子供と一緒にいる人にしてみれば、連休数日だけ一緒に居るのが辛いだなんて、甘えに聞こえたのでしょう。

 

そんな誤解しちゃう人用の「ヒステリーママの解説」まで書いたよ…

 

連休は辛いよねー、そうだよね、と共感する親御さんもいれば(私はこっち向けにブログを書いてた)、これを甘えだ、と思った人も居たらしい。

 

■切れたご縁例2:要するに、八つ当たり

こんな些細なことで、子供たちを怒ってしまった…振り返れば大したことではないのに、あの時めっちゃ怒っちゃった話を書いたら、誤解された。

 

とある知人は、私を裕福で良い夫に恵まれていると思っていたらしい。裕福さの基準はわからないが、夫婦仲が良いことは私も自認していいる。

 

「理解あるご主人もいて、経済的にもゆとりのある人が、なんでこんな些細な事で子供に怒るの?!」

 

要約するとこんな事を言われた。私の頭は????となった。

 

経済的にゆとりがある人は、精神的にもゆとりを持ちやすい…かもしれないけど、そうとは限らない。億万長者の家だって、親子関係に悩みはあるのだ。そもそも私は富裕層じゃないんだけど…と突っ込む事すら忘れていたよ。

 

「些細な事で子供を怒り過ぎたかも話」は、共感してくれるお母さんもいる。冷静になったらね、小さなことでは怒らなくて済む。けど、冷静さも体力もない時は、そうなっちゃう時もある。

 

 

ママも人間だから。貴女は1人じゃない。

 

どちらのケースも、私の伝えたい主旨はこれ↑だった。結果、全く意図としていない方向でキャッチされた。本人曰く余裕がなく、嫉妬して八つ当たりしてしまったそうです。

 

 

−−−−−−−−−−−−−

■受け取り方は個人の自由

どんな受け取り方をするか、は個人の自由。同じものを見ても、全く違う見解を持つ。それこそが個性であり、柔軟性。だから、どんな見解があっても、誰も悪くない。

 

けど、いつもいつも、その人と話すと嫌な気持ちになった。「私ってそんなにダメかしら…?」「そんなにセンスない?」って。

 

けどね、赤裸々に書いた私の心理を見て、私を弾劾する口実にする人とは、一緒に居たくない。私相手になら八つ当たりしても構わない、と思う人とは一緒に居たくないのだ。私を「悪人」「ダメ人間」に仕立てようとする人とはいたくない。

 

もう、ダメ人間だ!なんて、私が自分に対して何万回も言ってるから、今更他の人にまで言われる必要もないっ!( ー`дー´)キリッ

 

この人との付き合いは辞めない方がよいんじゃないか?でも一緒に居ると、私がしおれて行く。。。

 

色々迷った結果、そういう人からは離れることにした。また八つ当たりされたら嫌だし。

 

ブログがきっかけで、人間関係がぎくしゃくするなら…赤裸々に書くのを辞めようか、と迷ったこともあった。

だけど、辞めれなかった。

 

当たり障りのない事を書いていても、誰の心にも刺さらない

 

私はそれを知っていたから。それに、私もそんなのはつまらなかったから。

 

私のことを嫌いになる人もいるだろう、それを覚悟して自分の本音を沢山書いて来た。本当は人に見せたくない、かっこ悪い本音を。

 

 

 

続けていたらね、

 

 

「こんな事を思ってたなんて、私も一緒だよ」

「すごく共感する

「このブログに救われています

「昔はもっと近寄り難かったのに、今は身近に感じられるよ!」

 

そんな感想もいただけるようになった。私が誰かの救いになってるなんて、なんて有難いことだろう!

 

はてなブログ上でいつもコメントをくれて応援してくださってるママ読者Cさんが居る。お互い、顔も名前も知らない。私のブログだけが、二人の繋がり。

 

そう思ってた。

 

先日、「本を書いてみたい」という思いを公開した。出版のプロのススメで、秘密のFacebookグループも作った。グループ作るのとか、いかにも「自分を売ってます」風になりそうで抵抗していたが、プロの後押しもあり、頑張った。

 

そしたら、Cさんが私のグループに入ってくれて!!今までブログ上で時々コメントのやり取りをするだけだった相手の顔とお名前が見えた。今までも会ったことが無い人が、私のブログを読んでくれてるんだ、と実感できた。本当に嬉しかった。

 

ブログを書いてて良かった。グループを作って良かった。

 

心底そう思えた瞬間だった。

 

自分の本音を出すと、離れざるを得なくなる人間関係がある。その先には、自分の本音で繋がれる新しい人たちが居る。

 

きっと、誰かを批判するのも、弾劾するのも、楽しくてやってるわけじゃない。お互いにとってハッピーじゃないと思う。

 

お互いがハッピーと思える関係を増やしたい。だから私は、これからも、かっこ悪くても本音を綴り続けます。

 

来る者拒まず、去るもの追わず。すくっと立っている。本音で付き合える人に囲まれている。

 

そうできたら理想だな〜。あとはメンタルが強かったら、最高。打たれ弱い私は、それだけは一生克服できないかもしれない苦笑。

 

☆☆☆秘密のFacebookグループ作りました☆☆☆

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硬いけど堅くない、子供の頭

この絵の人物に、あなたならなんて吹き出しをつける?


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私は、瞬間的に「この洗い物の山にうんざりしてるのだろうな」、と判断した。

 

この絵は、保育園児のママ向け雑誌の挿絵。絵本を見るように、娘たちとこの絵を見てた。れーちゃん(5歳)とワカメちゃん(2歳)は、それぞれ違う見解だったよう。

 

 

ワカメちゃん「この人どうしたんだろうねぇ」

 

困った顔の絵を見て、その理由を不思議がるワカメちゃん。それに答えるれーちゃん。

 

れーちゃん

「手を洗いたいのに、お皿が邪魔で困ってるんじゃない?」

「それか、お水が出なくて困ってるのかも?」(断水かな?)

 

 

娘たちのそんなやり取りを聞いて、私の頭の硬さと、子供たちの頭の柔軟さを思い知った。

 

 

私ってば、「溜まって食器にうんざり」しか出てこなかった。そうだ、と決めつけてた。

 

保育園のママ向け雑誌だから、私の推測は、作者側の意図と恐らく一致している。

 

けれど、私は自分の頭の堅さを自覚せざるを得なかった。子どもたちの発想の、なんと柔軟なこと。

 

私と娘たちも、同じものを見ている。それなのに、持つ認識や疑問が全然違う。その認識に優劣はない。

 

この間ね、散歩中に橋の上でれーちゃんと雲を眺めてた。

 

「れーちゃん、あの雲はママにはワニさんに見えるな。れーちゃんはどう思う?」

「サンタさんがソリに乗ってるみたい!」

 

ワニにもサンタにも優劣はない。ただ、「違う」というだけ。

 

保育園で3つのりんごのスケッチをした時、れーちゃんだけの絵だけは3つ以上のハート型りんごが沢山描かれていた。数も形も全くスケッチしていない。写実的ではないが、写実的にスケッチが上手な子に、決して劣るものではない。 

 

芸術にも文化にも、優劣なんて、ない。あるのは嗜好だけじゃないのか。個々の人間の捉え方も、同じじゃないのか。

 

そんな事を、ふと思う。

 

今までも、子どもたちと同じ物を見て、同じ匂いを嗅ぎ、同じ空の下、屋根の下に居る。

 

一体、今までどれだけの物を共有してきたのだろう。それの全てにおいて、きっと全部、違う認識なのだろう。

 

同じものを見ていても、私の目を通して見た世界と、れーちゃんの目、ワカメちゃんの目を通して見た世界とは、まるで違う物が映っているのだろう。

 

それに気がついた。

 

 

「そんなの○○に決まってるでしょ!!」

 

 

つい、言ってしまう。やってしまう。先入観からの言動。

 

 

雲がワニに見える位、ワニがサンタに見えるくらい、物事の捉え方は千差万別。

 

生まれたての赤ちゃんに先入観はない。成長とともに、何かしらの観念や先入観が植え付けられていく。この社会で生きていくためには、それは必要な事だった。

 

ただ、その先入観は、時として私を苦しめる。

 

頭をもっと柔らかく、先入観を減らして生きたいなぁ。

 

自分を助けない先入観であれば、観念や信念であれば、パッと手放せる。そんな人間になりたい。

 

 

しかしなぁ。子供たちって、あんなに発想は柔軟なのに、石頭なのはなんでだ。(事故で)頭突きされる度、すんごい痛い。

 

骨がズキズキ。自分の頭の堅さに、心もズキズキ。

 

ちなみに…

 

私がこんな事を思うようになったのは、ドン・ミゲル・ルイス氏の著書「愛の選択」の影響です。

 

愛の選択

愛の選択

 

 

彼の言ってる事を実践できたらめちゃくちゃ心が豊かになるんだろうな、と。本の通り色々やってみると、自分の盲目さに気づいて結構なショックを受ける。そこがスタート、という本です。

 

これまで何回か読んだみて、やっとルイス氏の言ってることが、本当の意味で理解できるようになって来た。

 

「このままじゃダメだ、根本的に変わりたい!」と思っている方に、おすすめの本。

 

 

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ピンクの壁紙事件

子供を喜ばせるためにしたはずのことが、なんでこんな事になっちゃったんだろう?

 

そんな経験はありませんか?

 

自分ではない誰かの笑顔見たさに、頑張ったら、予想外の展開に落ち込む。先日の私に起きた、そんな事件について書きます。

 

名付けて、「ピンクの壁紙事件」。(ゴロが「生麦事件」に似てるなぁ。中身は全然違うけど。)

 

れーちゃんが喜ぶかな♪と、思って、先月、こんな壁紙を買った↓


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子供部屋を可愛くしよう!

 

海外からの郵送で何日もかかった。やっと届いた壁紙を、私は慣れない手付きで貼り始めた。素人なのでゆっくり、ゆっくり。

 

幅1メートルほど貼った、一旦中断した。一気にやる時間がなく、私は用事があって出かけた。娘たちはパパとお留守番中。

 

帰宅したら、新しく貼った壁紙には、落書きされていた。

 

私は、ショックだった。素人の私が、汗だくになりながら、できる限りキレイに貼ったのに…ものの数時間で落書きが…↓

 


f:id:kaorikawa:20200614200718j:image

 

 

 

事情を聞くと、れーちゃんは、壁紙の中の気に入ったお人形さんに○を付けていたらしい。それも、どのお人形さんも気に入ったので、全部に丸をつけたそうで。

 

落ち込む私を見て、説明してくれた。

 

その理由はとても可愛い理由だった。けれど、ショックは消えようもなかった。私があんなに頑張ってた貼ったのに、もう落書きされるなんて…汚されるなんて…ショック。

 

私はショックのあまり、ソファーに座り込んでいた。体育座りで。口をへの字にして、静かだった。

 

落ち込む私を見て、れーちゃんは泣き出してしまった。「ママ、ごめんなさい」と。

「私のせいだ」と思ったのだろうか。ショック中だった私は、れーちゃんになんと言ってあげれば良いのかわからなかった。

 

れーちゃんの笑顔が見たくて、壁紙を買ったはずなのに、何故こんなことになっちゃったんだろう。

 

子供部屋は、子供たちの部屋だけど、家のインテリアは私の作品のように思っていた。大層なインテリアではない。普通の家だ。

 

子供を喜ばせるために買ったはずの壁紙が、私のショックを呼んでしまった。

 

「気にせず許してあげればいいじゃん」

 

そんな声が聞こえるけど、否定しきれない。私のショックさ、と「私の美意識がそれを許さない」という気持ちが。

 

私の美意識なんていう独りよがりのものと、れーちゃんの笑顔。どっちが尊いのか、少し考えればわかるものなのに…

 

私の中での理性と感情が、せめぎ合った。

 

一晩二晩経、壁紙事件について考え直した。

 

美意識ってなんだ。

 

何が美しいか、否か。

 

そんなものは、私そのものではない。「○○を美しいとする」と捉えるようにこの世に洗脳されていただけだ、と感じるようになった。

 

決して、れーちゃんの落書きが醜いわけではない。私の素人の壁紙張りも、ぶっちゃけ端っこの処理などが甘い。

 

美意識って、なんなんだろう。

 

それを持つことは大事。とても大事だけど、それが私を落ち込ませる位なら、持たない方が良いとも思った。

 

 

美意識も、常識も、良識も、自分が心地よいなら持てば良い。自分を害するものになるのなら、捨てれば良い。

 

もちろん、壁紙の落書きが相応しくない場所だってある。例えば高級デパートの壁。でも、我が家は我が家だ。人にどうこう言われるものではない。

 

落書きされた部分を貼り直すかどうか、はまだ決めていない。

 

むしろ落書きを残した方が、今後の抑制になるのか。落書きがある方が美しいのか、わからない。

 

目の前にある事実、壁紙が買ったままの貼ったままの姿ではない事は変わらない。

 

貼り直すことも、そのままにすることも、私が決めれる。

 

自分の行動を選ぶことができる。

 

そして、自分の捉え方はいくらでも変えれるんだなぁ…と実感した。

 

家で座ってる時間が長くて、腰が痛い。

 

このクレヨンの丸は、れーちゃんがこの壁紙を気に入ってくれた証。それは間違いない。これの絵の女の子、全部を気に入ってくれたのかぁ。

 

服にしろ、壁紙にしろ、れーちゃんの好みを、ちゃんと把握できている。それには誇りを持とう。

 

 

自分を不幸にするのは、目の前の事実ではなく、自分の中にある良識・常識・観念である、そう気づいた事件でした。

 

きっとこれからも、思わぬことで落ち込むこともある。けど、これを忘れずに行こう。

 

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子供を泣き止ます魔法なんて、ない。

「子供が泣き止まない」「癇癪を起こした」、と困ったことはありませんか? 

それにイライラしませんか?

 

今朝、派手な姉妹喧嘩があり、まさに私は困った。

 

長女れーちゃん(5歳)と次女ワカメちゃん(2歳)は、とある絵本を巡って大喧嘩していた様子。

 

癇癪が治まったワカメちゃんと、対話していたら、「私が子供の泣き声にイライラする本当の理由」が見えてきた。 

 

「ワカメちゃんもそれ(絵本)使いたい!!ワカメちゃんのだった!」

「れーーーんちゃんが最初に使ってたの!!ワカメちゃんは『貸して』も言わないで取ったでしょ!」

 

こんなのは日常茶飯事だが、あまりにもワカメちゃんが泣き喚くので、れーちゃんにお願いして、ワカメちゃんに譲ってもらった。(「お姉ちゃんだから」と無理をさせてないかパート②💦)

 

せっかくれーちゃんのが譲ってくれたのに、泣き喚くほど欲しがった絵本※を貰っても、その本を開くことはなくずーーっと泣き喚いていた。癇癪!

※しかも、この絵本がハロウィンに関する本で季節外れも良いところ。絵本は何十冊もあるのに、なぜここまで一冊を巡り喧嘩するのか…他の本が寂しそうに床に散らかっている。

 

 

絵本の取り合い喧嘩は、私がトイレに行ってる間に発生し、エスカレートしていた様子(全容は見ていない)。

 

ワカメちゃんは、お目当ての絵本を渡しても、他のおもちゃでも、全く泣き止む様子がない。あの手この手も無駄。 

 

とりわけ、このタイミングで私は気が短くなったいたのか、大声はもとより、些細な泣き声も耐えれなかった。

 

子供が泣いてるのを聞くのは辛い。

「子供が可哀想だから」ではない。

 

まるで私のせいで泣いてる、と責められている

 

そんな気持ちが消えなくて、怖くて、辛い。

 

絵本の取り合い喧嘩に、私は関与していない。喧嘩の発端は、私に起因しない。

 

でも、私がトイレに行ってなかったら?少し離れている間に、私が仲裁に入っていたら?こんなに永遠と泣き続けることはなかったかもしれない…それじゃあ、私のせい??

 

そんな考えが止まらなくなった。

 

こんな、トイレに行った自分を責めだす。人間として必要な行為なのに。

 

あまりにもずっとワカメちゃんが泣いてるので、イライラが止まらなかった。子供が泣いていることそのものに、イライラしない。よその子供が泣いていても全くイライラしない。

 

自分の子だと、物凄くイライラする。それは、「お前の○○がいけなかったから、泣いてるじゃないの?!」と、言われている気がするから。

 

イライラが募りすぎて、何をしても泣きわめくワカメ叩いたりしないように、私はワカメちゃんを子供部屋に残し、部屋を出た。

 

ドア越しにも、泣き声は聞こえる。それでもボリュームダウンすることで多少落ち着いて来る。

少し落ち着くと、自分の心情も見えてくる。イライラのあまりに、叩きそうになった自分が、心底嫌になった。

 

一通り騒いだワカメちゃん。泣き喚いて汗だくだったので、シャワーしてあげて、仲直り(?)した。

 

しゃくりあげながら、私にしがみついてた。

 

仲直り中の会話。

👧=ワカメちゃん、👩=私、です。

 

👩ママに怒られて、悲しかったんだよね?

 

👧うん。。。ママ、どうして怒ってたの?

 

👩ワカメちゃんは、れーちゃんと、絵本で喧嘩してたでしょ。ワカメちゃんが欲しがってた絵本を渡しても、ずっとずっと泣いてたでしょ。他のおもちゃをあげても、ずっと泣いてたでしょ。

 

👩だから、ママは、ワカメちゃんがどうしたら泣き止むのかわからなくて…ママが悪いんじゃないかって思って、それで怒っちゃったの…ごめんね。

 

2歳の小さいワカメちゃんを膝の上に乗せながら、本気でお話ししていたら、私も泣いてしまった。

 

そっか、私は「どうしたら良いのかわからなくてイライラしていたのか…」と。

 

そう、私は「子供が泣いてる」からイライラしたわけではない。

 

  • なんか、私のせいで泣いてる気がする!(自責の念、罪悪感
  • でも、どうやったら泣き止むのか?わからない!! (無力感

 

罪悪感と無力感が、私をイライラさせた。

 

お母さんという存在はね、子供を泣き止ませる魔法なんて持っていないし、習得することはできない

 

人の親になって、それを痛感する。そんな魔法を習得できるなら、とっくにしてる。

 

「母親なのに、子供を泣き止ませることもできないのか」と視線や声が、辛い。

 

例えば電車で、子供が泣いていたとする。最善を尽くしても、どうしても泣き止まないことがある。もうそれは、お母さん側の理由(愛情が足りない、とか、あやし足りない、とか)ではなく、子供側の理由。

 

「母親なのに、子供を泣き止ませる事ができないのか」

 

公共の場に子連れで行くと、常にその声なき声に怯える。子連れでない時は、「今日お子さんは?」とか聞かれるがそれも嫌。もう、そぅっとしておいて!基本的人権がなくなった気がしてしまう

 

そして、周りの視線などなくても、たとえ家の中であっても、子供が泣いてる時は、自責の念が止まらない。

 

「自分のせいではない」と断言できる時以外は、そうなってしまう。(別名「宇宙人タイム」)

 

「母親なのに、子供を泣き止ませる事ができない」

 

これは、誰よりも私自身が私に向かって発している言葉なのかもしれない。これが「理想の母親の呪い」かぁ。

 

魔法のように泣き止ませる、なんて、もはやフィクション。理想ですらない。

24時間ずっと、優しくて怒らない、イライラしないママでなんて、至難の業。

 

「子供を泣き止ますことができない」

 

そんな親は、お母さんは、貴方だげじゃない。0歳児の親だけでもない。

 

必要以上に、自分を責めることはない。

 

泣き疲れて、仲直り(?)して安心したワカメちゃんは、珍しくお昼寝タイムに。かわいい寝顔だなぁ。寝顔に向かって謝るって、私はいつまで続けるんだろう。

 

 

こんな時は、一杯の温かいお茶でも飲もう。こんな話を、同じ悩みがある人たちと語り合うながら、一緒にお茶が飲めたらなぁ〜。これってオフ会?オンラインのオフ会ってあるかな?

 

秘密のグループ(↓)で、オフ会参加でも募ってみようかなぁ。どれくらい来てくれるかしら。

 

 

 

 

☆☆☆秘密のFacebookグループ作りました☆☆☆

「本を書いてみたい」という気持ちがあります。一人ではなく、読者さんと一緒に作って行きたい。そのための、秘密のグループを作りました。

 

ブログには載せない私の一面を載せたり、本の構成の意見交換などをしています。

 

https://m.facebook.com/groups/548019025796481/

 

ご興味がある方は、仲間になってくれたら嬉しいです♪気軽な感じでOKです。

 

私の直接の知り合いじゃない方も、ウェルカムです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

権力のない少数派の本音

ジョージフロイド氏の死亡事件により、人種差別に対する議論があちこちでヒートアップしている。

先日発見したある投稿に、嫌悪感を覚えている。

 

「暴動に参加するよりも、しっかり勉強して、黒人がもっとMBA取れば、黒人差別もなくなっていく」

 

ですって!!心底、引いた。しかも、善意と思って、本気で発言している。

 

この発言者には山ほど言いたいこと・聞きたいことがある。

  • 自分が既得権益層にいることはわかってる?それは、誰がどのようにして、支えているのか知ってる?
  • 全ては自分の力だけでと思ってる?
  • 既存の権力ゲームを制してからじゃないと、低層階級の人たちの権利は認められないって??
  • MBAってそんなに偉い?なんで?どこが?

 

選民思想は恐ろしい。それに気づいていない場合は、恐怖度が増す。

 

少数派が権力を持つと選民思想になりがち。

じゃあ権力がない少数派はどうなる?

 

権力がない少数派は、多数派の人たちが怖いことがある。長い前置きを経て、ようやく本題、「少数派について」に入る。

 

人種差別からはちょっと離れて、「少数派」に対する差別問題について、私の率直な思いをお伝えします。

 

私は自分自身をマイノリティだと自負している。

 

「マイノリティの方がカッコよくない?だから、マイノリティって言いたい」んではなくて、本当にマイノリティなのだ。それによる苦悩も苦労も沢山あった。

 

 

権力のない少数派の悩み:いちいち大げさに騒がないで欲しい

少数派は、特別待遇して欲しいなんて、思っていない。変に目立ちたくはない。

 

少数派は「普通に」、平和に、生活したいだけ。

 

けど、なかなかそれが許されないのは少数派の普通≠多数派の普通なだなら。

 

少数派が「普通に」望んでいることは、多数派にとっては「変」と思われる事が多い。

 

この世では、まだまだ、多数派が正義とされている。特に、村社会の日本には、その色が強い。ちょっと変わった事を言うと、「あいつは空気を読んでない」と揶揄される。今まで、私は、何度もそう言われて来た。

 

少数派の人は、別にワガママでも人のことを考えていない訳でもない!でもなぜか、少数派が言ってる事が、多数派の誰かの心を刺激して怒らせてしまう事が、私は多かった。

 

誰しも、意図的に人を傷つけたいなんて思わない。心の奥底では、誰も、そんなことを望まない。

 

多数派が正義な場合、人と異なる姿、異なる考え方、異なる行動が「異端」と見なされる。

 

 

多様性?ダイバーシティ

 

確かに大事なことかもしれない。でも、私は、「ダイバーシティが〜」と謳う企業も人も、あんまり好きじゃない。

 

そんなブログを昔も書いたなぁ…「ダイバーシティの嘘ホント」。

 

ダイバーシティが大事」とか言ってる彼らは、「少数派でいるとは何か」「少数派は何を望むのか」を、何にもわかっていない。

 

Diversity and Inclusion 

 

私には吐き気がする言葉。なぜ「Inclusion 」(受け入れる)なの?

 

「俺たちはマイノリティを受け入れるだけの器があるぜ〜」

 

とでも言いたいのか。

 

 

自分が「受け入れる側」だと思って、優越感にでも浸ってると思うのか。しかも、そういう人たちに限って、「俺たちエリートだぜ☆」って思ってる人が多い。エリートもどきは、一番多様性から遠い真のエリートと偽エリートは全然違う

 

少数派はね、「我々は貴方を受け入れますよ」なんて言われても嬉しくないの!!恩着せがまくすら、感じる。

 

例えば、私が妊婦という少数派だったとき。電車で「ここに妊婦さんがいますよ〜!」なんて大声で言われたくない。普通の体よりも、身重は疲れやすいし、不安定→だから、座りたいってだけ。譲って頂けた時は、それはもう有難かった。

 

例えば、私が、社内では稀なバリバリ働けないお母さんだったとして、フルタイム勤務じゃなくて勤務時間や日数を減らしたいことを、大げさに扱って欲しくない。(でも、前例がない、って色々難航した経験もある)

 

私はヘテロセクシャルだけど、LGBTの人だって同じだと思う。 

「私、ゲイとかそういうの平気だから」とか言われても、ちっとも嬉しくない。その発言には既に差別意識が見える。「ああ、貴方は中華料理が好きなのね」位の感覚で、「ああ、貴方の性的嗜好は〇〇なのね」って受け取ってもらいたい。

 

 

ちょっとね、少数派としての愚痴をこぼします。

 

もう、少数派って、疲れる!

じゃあ多数派になれば疲れないのか?を実験したこともある。結果、本心でもないのに、多数派の意見にすり寄ってみても、イライラして余計疲れるだけだった。自分に嘘をつくことになると、更に疲れる。

 

何が疲れるって、私の中ではごく「普通」に、自然に湧き上がる考えに、逐一あーだこーだ言われるから。

  • それって変!
  • 普通さぁ、〇〇だよね(なぜ、お前は〇〇じゃないの?)
  • ここは日本なの!(長期留学から帰国した時、よく言われた)

 

私の願いは、平和に過ごしたいだけ。

 

多数派が正義というルールで生きる場合、少数派の罪なき希望を通すには、改革が必要である。

 

少数派の希望に何の悪意も害もなくても、既存のルールとは異なる対応が求められるのは、わかる。

 

わかるけど……それをイチイチ大騒ぎして欲しくない。

 

以前書いたとおり、私は資本主義も民主主義も決してベストではないと思う。なぜなら、以下のどちらも、人間が幸せになるためのルールではないと思ってる

 

  • 資本主義の世界:「金持ってる奴=正義」
  • 民主主義:多数派が正義

 

※私は社会派かもしれないけど、社会主義者ではないです。

 

資本主義、金=正義だったから、列記とした人間を奴隷にする、みたいな非道が起こる。

多数派が正義だから、少数派は「空気読めない」などと迫害される。

 

日本はほぼ、単一民族国家。人種差別は起こりにくい。けれど、日本にも差別はある。女性差別、片親差別、非嫡出子差別、上げたらキリがない。

人種に限らす、世界のあちこちに差別は存在してる。私の中にも、差別はある。「俺たちダイバーシティ受け入れてるぜ☆」と言ってる人たちを、めちゃくちゃ差別してる。そういう人たちのことも受け入れてこそ、本当のダイバーシティなのか。

 

これだけ偉そうに言っておきながら、私の心は「高慢と偏見」の塊。ここで読んだ事もない小説のタイトルを引用する自分の図々しさが、またすごい。

 

力のない少数派の気持ち、少しでも伝わったら嬉しいです。

 

追伸:人種差別がメインテーマではないですが、「銃・病原菌・鉄」という本は良書です。「いかに、ヨーロッパ系白人が優れていた訳ではなかったか」が物証と共に理論的に語られている本。作者自身は白人のアメリカ人だが、彼の思想はアメリカ国内では相当変わり者扱いされてるに違いない。

 

☆☆☆秘密のFacebookグループ作りました☆☆☆

「本を書いてみたい」という気持ちがあります。一人ではなく、読者さんと一緒に作って行きたい。そのための、秘密のグループを作りました。

 

ブログには載せない私の一面を載せたり、本の構成の意見交換などをしています。

 

https://m.facebook.com/groups/548019025796481/

 

ご興味がある方は、仲間になってくれたら嬉しいです♪気軽な感じでOKです。

 

私の直接の知り合いじゃない方も、ウェルカムです。