打たれ弱いママ Kaori です。
みんなが○○だから、○○したい。
現在小 1 のれーちゃんがこんな事を言い出した。こりゃ私的には大問題!!
私はね、「みんなが○○だから」というのは、理由としては認めない。決して決して、断固として認めない。そんな母親である。
その理由とは…
一体何を「みんなと同じ」にしたいのか?と言うと、ノートの日付。
ノートの裏表紙に「使い始め」の日にちを書く欄がある。
つかいはじめ 5 がつ 20 にち、1さつめ
れーちゃんは太字部分(数字部分)を油性ペン書いた。先生が「書きましょう」と言う前に書いてしまったことが、めちゃくちゃ心配らしい。
「みんなのノートは、ここ(使い始めの日にち)は書いてないの。だから消したいの」
と涙声で訴えて来る。
私の脳内の声は…
- 使い始めの日にち、何冊目か、という数字は間違ってなさそう。
- たとえ数字が間違っていたとしても大した問題ではない。
- 「みんなのノートは」「みんなが」って理由になってない。
- 油性ペンを消すには除光液が必要で、除光液を使ったとしても、真っ白な状態には戻らない。(薄汚れたグレーが広がる)
先生の言いつけに反してしまったかもれない
と、れーちゃんはちょっとパニックの様子。
いやいや、わざとルール違反したわけでもないし、ノートの裏表紙に無礼な落書きをしたわけでもないし、全く問題ないと思うんだけど…。
除光液で油性ペンを消すなんて、すぐにできることだが、このままれーちゃんの言うとおりに消してあげることが、良い事とは思えなかった。その理由は…
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先生や親の指示がない事を率先して(または勝手に)やると怒られる…かもしれないと怒っている
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「みんなが○○だから」が理由になると思っている
それぞれの理由について、もうちょい掘り下げる。
理由1:先生や親の指示がない事を率先して(または勝手に)やると怒られる…かもしれないと怒っている
おそらく、「先生の言いつけを守れなかったかもしれない?!」という心配を抱くのは初体験だったのだろう。人間、初めての体験というのは、不安と驚きがあるものだ。
とはいえ…自らが考えて、自らの行動を決める。
それができる人間になって欲しい。もちろん、自分の知識だけでは判断できないこともある。何歳になっても、大人になってもそれは同じ。
周りの人に助けを求められるか?
それが大事な気がする。
しかし、まあ!この2ヶ月間、先生の言うことは全て実行してきた(らしい)れーちゃんは凄いと思う。真面目だ。
私自身は、最初っから先生に怒られる子供だった。「ひらがなを全くキレイになぞっていない」「(食べ物の)好き嫌いが多い」など。
我が娘れーちゃんは、小1の通信簿に「協調性がない」と書かれた母(私)とは大違いだなぁ。
理由2:「みんなが○○だから」が理由になると思っている
これ、私にとっては大問題!!
みんなが○○だから、は全くもって理由になっていない。私は決して、決して、その理由では何かを認めたりしない。
他の理由がいくつかあって、上乗せで「みんなが」って言うのならまあ、わからないでもない。が、「みんなが○○」単体では理由として成り立っていない。(私的にはね)
そもそも「みんな」って誰だよ!?※こういう時の「みんな」はせいぜい7%位らしい
クラス全員のノートの裏表紙をチェックしたのか?いやしているはずもない。
「みんなが○○」だから、○○が良い物扱いされるのか?それはおかしい。多数決が誤っていることもある。じゃなきゃこれまでの戦争が全て「正しかった」ことになってしまう。
「衆愚政治って知ってる?」と言いたくもなったが、小1のれーちゃんが「衆愚政治」なんて知ってるはずもない、と一人脳内でツッコんでいた。
「みんなが○○」
一見正当そうな理由に聞こえる。それで納得する人も多いかもしれない。
けれど、私は決して「みんなが○○」では説得されない。それ以外の確固たる、そして筋の通った理由がない限りは。
私は偏屈な大人かもしれない。
「みんなが○○なのに、お前は☓☓」
「普通○○なのに、アイツは…」
私自身は、こういった「みんな」や「普通」によって苦しい思いをして来た。
あっち側、「みんな」側の人間で居れたら、楽だったのかな。けれど、私は一度も「みんな」にはなれなかった。
「みんな」って誰だろう。自分ではない誰か、になろうとすることは、苦しい。
「みんな」や「普通」に苦しめられたかもしれないけど、私は私で良かったと心底思う。
我が子には、私が味わった辛酸を舐めては欲しくない。けれど、「みんな」や「自分ではない何か」にもなって欲しくない。
辛酸を舐めずに、苦しい思いをせずに、「自分」で居られる世界。この世がそんな場所に、なっていきます様に。