風邪っぴきの私です。のどが枯れて痛くて喋れない…なーんて事態、みなさんもご経験がありませんか?
今回「声が出ない」不自由を体験することによってね、私、わかったんです。
私は普段、喋りすぎていること。
「口は災いの素」とは真理であること。
不自由こそが、人間を人間にしてくれること。
できるだけ喉を守るために、ものすごーーく口数を減らしました。子育て中に声が使えないって非常に不便です。長女れーちゃん(3歳)はペーラペラお喋りするし、私が無言で無視するのも、次女ワカメちゃんに「○○はやめて!!」と注意・お願いするのも、できなくなる。
とももかくも、必要最低限だけを喋りました。
そしたらね、子供と揉め事になることが激減しました!!!
いや〜普段の私って、どれだけ喋り過ぎてたのか…を痛快しました。喉の痛みが教えてくれたのです。
喋れる!と思うと、「次には何をしゃべろうか」を考えながら喋る。子どもたちがやってる「今、ここを生きる」とは違って、1分先や5分先の未来ばっかり考えて喋ってる。しかも、余計なことを。
私の発言の95%は「余計な雑念」で5%しか「必要なこと」ではなかった。
喉を使えない分、目で会話したりジェスチャーを大げさにしたり、色んな工夫をしました。
技術が進歩すると便利。便利になると自由に、楽になるけれど、思考停止してしまう。工夫せずとも、なんとかできちゃうから。
人類のご先祖さまたちは、言葉を持っていなかった。共同生活の中で、どれほど工夫して頭を使ってコミュニケーションを取っていたのだろう。赤ちゃんって、ご先祖さまたちと同じように、頑張って頑張って全身で会話しようとしてるのかなぁ…なんて思いを馳せたり。会話、という人類が何万年かけて成し遂げたことをせいぜい3年程度で習得するわけだから、そりゃー乳幼児は必死で生きてるわけだ。泣きわめいてても仕方ないか。
いつも、空気のように「当たり前」と思って得ているもの、していること。それが出来なくなると不便です。不自由です。
不自由になってこそ、人間の本質って見えるのかもしれない。
たとえば震災の避難所で、強姦や盗みをしてしまう人たち。あれが彼らの本性なのか…と思うと……
被災者でなければ苦しみはわからない!!第三者が勝手なこと言うな!
って言われそう^^;
そりゃそうだけど、どんなに痛手を負っても、誰かを傷つけて良い正当性なんて、どこにもない。
いじめ、パワハラ、セクハラ、モラハラ、全ての被害者が、新たな加害者になっていないことを祈ります。
ある程度の不自由さって、人生に必要だと思う。「何不自由なく」育つと人の痛みもわからんし、思いやりや我慢も学ばない。ある程度不自由な家庭で育った兄弟の方が仲良しだと私は思うし、そういう人は深みがある。
不自由でもいいじゃない。
子どもたちに「不自由な思いをさせたくない」じゃなくて、不自由から深みを持てる人間になって欲しい。
だからこそ、敢えて時々不自由さを作ってみようかなぁ。。。