先日は「妻の育児負担が増えるから、夫の仕事を応援できない」話を書きました。いつもより男性からの反応が多く、みんな思い当たる節があるがあるんだなぁ…としみじみ。
その投稿で触れた「育児のアウトソース」について、深堀りします。
アウトソースできることはとても助かるし、選択肢があるのは大事!けど、面倒くささと精神的負担がつきまとう。全てが解決されるわけじゃないよ!って私は言いたい。
アウトソースは、父親という子育て共同責任者が一緒に行ってるのとは、違うんです。外部リソースを使うと物理的負荷を減りますが、私にとっての精神的負荷は変わらなかった。
育児をアウトソースできる選択肢があることはとても重要だが、「母親がやるべき」妄想が、アウトソース自体をしにくくてしいる。
保育園は慣れるまでこそ大変だったが、一度慣れてしまえば大したことはなく、助かる一方!保育園様々。
じゃあ自分の親なり、ベビーシッターになり、頼んだらどうなる?って話。緊急時にはすごく助かりますが、単発にアウトソースすることのデメリットは圧倒的面倒くささと私の精神的負担。
■圧倒的面倒くささ
アウトソースでは、自分が全てのタスクを管理して指示する訳です。夫婦でいつもやってることなら、「いつ誰誰が○○をして…」というタスク管理をしなくて済む。
この精神的負担と面倒くささはある。いくらアウトソースしても、親として自分が責任者であることには変わりない。
自分がやりたい仕事がある、行きたいイベントがある。そんなモチベーションがあれば、面倒くささなんて感じないが、私は主人の出張に対するモチベーションは 0 なのだ。面倒くさいの一言につきる。
■精神的負担
前述のとおり、自分のやりたいことのためのアウトソースなら、面倒くさくても前向きに頑張れる。が、イヤイヤやっている場合は、余計なことを考えてしまうのだ。
- もっと私が我慢できれば、自分でやれればアウトソースしなくてもいいはずなのに…。
- ワンオペで二人見てるお母さんなんて他にはいっぱいいるのに…なんで私は…
罪悪感と劣等感という、不毛な気持ちを抱く。
育児のアウトソースの選択肢がある程度あることは、とても大事です。保育園なしでは我が家の子育ては語れません。子供は社会で育てるものだから、それは必要です。でもね、この国で(いや、世界的?)育つと、つい思ってしまうのです。「本当は母親が全部やるべきなのでは…?」と。
「ベビーシッター・保育園・ジジババに頼めばオールオッケーで、俺は別に特に何かしなくてもいいよね?」
いいや、母親たちの望みは、「何もしない俺」ではない。そもそも、そんな考え方をしてほしくないのでは。※「頼むから何もしないで、邪魔しないでいてくれた方が良い」という場合もあります
アウトソースだけですべてを解決できるわけじゃないよ、ってことを、この世の人にもっと知って欲しい。
父親は、本来、育児の共同責任者なんです。一人親の家もあったり、家庭の形は様々。精神的に人をどれほど頼りたいか、それがどれだけ必要なのか?も人それぞれ。
そもそも、デフォルトですべての育児負担が母親のみに行っていることがおかしい。母親が助けを自ら求めなれければ、助けは来なくて、言わなければ自己責任?みたいになっちゃって。
配偶者でなくても良い。親じゃなくてもよい。でも、人間は一人では生きていけない。一人で子供を育てることはできないのです。誰か心の頼りになる人は必要なのです。
けどね、精神的に追い詰められると、逆にどんどん人を頼れなくなるものなのでしょうか。つい、思ってしまう。
「弱い自分を人に見せたくない」
そんなプライドが、人を頼れなくしちゃう。メンタル弱った時、私は実の親に会うのが嫌だったりすることもある。そういうこともあるんですよ!!
つい、子育てをママに任せてしまいがちのパパに考えてもらいたい。
奥様は、なぜ怒っているのか、なぜ悲しんでいるのか、またはもうなぜ諦めてしまったのか。
母親だけに負担が偏りがちなこの世界が、少しだけでも変わる。変わって欲しい。夫婦で完全に平等の負担なんか求めてないの。
実際におむつ替えを、夜泣き対応をやるかやらないか。大事なのはそういうことじゃない。日々の積み重ねが大事で、それは精神性から来るもの。一人だけが子育ての責任者なんてつらすぎる。この「責任者」という精神的負担を、一緒に担って欲しい。
そうなるために、私たち夫婦は、会話し、努力し続ける。今日も、明日も、これからも。
夫婦で会話、してますか?