「子供の安全を考える」。とてもとても大事なこと。
でも、それが行き過ぎて過保護になることもある。
たとえば、木登りさせない、とか。
地元の公園にある、私が子供の頃に登っていた木は、多くの枝が落とされ、木登りできなくなっている。
木登りという冒険する機会すら与えられない、というのは、現代っ子が不憫に見える。
私は、木登りみたいな遊びこそ、プログラミング教育には有効だと思う。
プログラミング教育っていうのは、小学生にコードの書き方を教えるのではなく、物事の道理、物造りの組み立て順序などを教えるらしい。
木登りってかなり頭を使う遊び。
どこなら足をかけれるかな。
どの順序で行けば高く登れるかな。
自分の腕の長さでは、どこまでなら届くかな。
どの位の太さの枝なら、ぶら下がっても折れないかな。
正解は一つじゃなくて、どの順番で行くかを考えるし、観察もする。
木登り、工作、パズル、積み木、お料理。
これはどれも、論理的思考や、物事を進めるための工程を考える力を養えるもの。
私がここで伝えたいことは2つ。
①「勉強です」「プログラミング教育です」って考えるのはなく、日常にも「プログラミング」の教材は沢山ある。わざわざiPad や高価な知育玩具を与えることに、私は疑問を感じる。
②アナログな遊びは、頭の体操になる。知育玩具、知育アプリなどが多くある。確かにこれが便利なことも、アプリから学べることもある。
けどね、私は古典的なアナログのおもちゃの方が好き。パズル、積み木、すごろく、トランプ。
デジタルートおもちゃ:特に考えなくても直感的に楽しめて、すぐに没入できる。が、すぐに飽きる。
アナログおもちゃ:最初楽しみ方をわかるためには、時間と手間がかかる。それを超えれずに「つまらん」と投げてしまう事もあるが、最初の壁を超えれば、かなり長期間ハマれる。世代を超えて楽しめる。
ノスタルジー(または時代遅れ)な私は、最近の知育アプリとか全く知らない。本当に一つも知らない。ホームビデオを除き、我が家の子供たちもデジタルスクリーンは触らせていません。
このご時世、特に教えなくても、いずれ子供たちはデジタル機器を巧みに扱えるようになる。
アナログな物こそ、我々大人が教えない限り、現代っ子は覚えないかもしれない。
私は、プログラミングなんぞ全く書けないので、娘たちにコーディングを教えることはできない。
私にできるのは、それに必要な論理的思考や、物事の組み立てや順番などを模索する機会を増やすこと。
気が短くて、頻繁に怒っていてはそれを奪うことにはなるんだが…それは育児というより育自だなぁ。
国策として、新しい物教育するのは良いこと。でも、知識ばかり教えることに注力せずに、子供たちが体験できることを減らし過ぎないで欲しい。
子供の頃の木登り、楽しかったなぁ。鈍った体で、今、木登りに挑戦したら転落するかしら。
スリル感ある中での、次の一手を考える。
親が見てない所でやってたっけ。
娘たちにもぜひ、挑戦してほしい遊び。
きっと心配しちゃうから、ママの見てない所でやってね(笑)