打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

長期海外生活の後、帰国しても続くアウェー感

海外生活が長い人特有の悩み第二弾です。今回は「海外生活長かった人が日本に帰国してから悩むこと」です。

 

帰国子女、留学、海外に住んでいた理由は問わず共通することは、前回書いたとおり、アイデンティティ・クライシス。その続きです。

 

海外生活が長かった人にとって、帰国後のチャレンジは多々ある。私にとっては、母国に帰ってきたはずなのに、いつまでもいつまでも、アウェー感が否めないことだった。

 

母語圏とは異なる国に住み、母語以外で学校の授業を受ける。家庭では日本語をしゃべる。海外駐在員の子供たちはこんな環境で育ちます。

 

こういうのって、自然とバイリンガルになって良いじゃーん♪と、思うのは安直です。一文喋るのに、複数言語(例 英語、フランス語、日本語)が混ざって、現地人には誰も理解されずに友達0人なんてことがある。

 

複数言語混ざっちゃう問題は、言語を学習していけば徐々に解決されます。○○って単語は英語だったのか、○○はフランス語だと△△なのか、などの知識の蓄積によって。

 

 

多言語や多文化の知識の蓄積が、問題を解決するどころか、新たな問題を呼ぶ。

 

その多文化生活に慣れた状態、日本文化以外の「他文化」に触れたり感化されたり、と実に複雑な価値観の人間が出来上がる。

 

その多文化に慣れた人間が、日本という均一的な文化圏に組み込まれるのは中々辛いものがある。

日本独特の不文律文化を理解できず、そしてそれを理解しないと「アイツは空気読めない」とレッテルを貼られる。

 

私の実体験をいくつか紹介する。

 

 

-------------実体験ここから-------------

①面接時

就活の面接時、当時23歳だった私は、結論→理由の順番に、端的に正直に質問に答えた。その時、日系企業の面接官に、何気なく言われた。

 

「あなたは英語を喋る人の話し方をしますね」

 

確かに私は英語を喋る。それは17歳以降の話であって、23歳当時の私には英語習得は「わりと最近」のことであった。そして、英語習得の以前からも、私の話し方スタイルは大きく変わっていない。

 

つまり、私の話し方は「英語を喋る人の話し方」ではない。面接官は、勝手に、私の喋りスタイルを「英語人の話し方」に分類していた。 

 

要するに、私の話し方は面接官に不評だった。私はあの時の面接官の言葉がずっと心の小さなトゲとして刺さっていた。要するに、面接官が私を気に入らなかったのである。それをこんな言い方するなんて!!と。

 

②「空気読めない」話

空気を読む。

 

これって非常に難しい。どうやって空気を読むのか、って正確に言語化された方法を習った人なんいないのではないんだろうか。

 

ちょっとした発言で、私は「KY」「ここは日本なの」と言われた。スマホYoutubeなど何もない留学当時、日本の流行語など知らない私は、「KY」が何を意味しているのかさえもわからなかった。

-------------------実体験ここまで---------------------------------

 

私の実体験が何を物語っているか、と言えば「自分とは違う発想の人間を尊重するのか、下に見るのか」だ。 

 

相手を「空気読めない」と言えば、自動的に自分が優勢になるとでも思っているのだろうか。

 

 

民族的にも、思想的にも、正直に言って日本の文化は多様とは言い難い。多様なものが、広範囲には許容されていない。

民族的にも90%が日本人。学校での試験も同じ回答を求める選択肢式が多い。白熱ディベートを行うような授業もほぼ皆無。

 

要するに、日本の学校は、「同じ価値観の人間製造機」に近い。同調圧力というものは、学校以外でも存在し、色々と均一化を図ろうとする事が多々。

 

私が詳しく知るのはイギリス教育と日本教育のみなので、ここでの比較しかできない。他国についてはわからない。

私は日本教育を批判して、イギリス教育を絶賛さるわけでは断じてない。どちらにもメリット・デメリットがある。日本教育の網羅性はかなり高い。 

 

ただ、ここで私が言いたいのは、もう21世紀になり頭脳労働が増えたこの時代でも、日本の学校教育は19世紀や20世紀初頭の工場員を育てるのと大差ない図式を取っている。

 

本の学校教育批判に話が逸れてしまった。「海外で多文化に慣れた人間が、日本に戻った時の苦労」に話を戻す。

 

村社会や風土(災害が多い)のせいか、この学校教育のせいか、日本特有の文化がある。

  • 和を尊ぶ
  • 波風立てない
  • 空気を読む
  • 忖度 

など。

 

これらを「どうやって」やるのか、how の部分を、誰も正確に言語化されて教えて貰ったことはないのではないか。

しかし、この国で市民権を得られる人間のほとんどは、このhow を知っており、駆使できる人達だ。 

 

海外生活が長いと、この独特の日本文化を学ぶことが難しいことがある。空気を読んで和を尊んでばかりいては、例えばアメリカのような自己主張が強めな国では生き残れない。存在が認識されない。空気を読んでいては、空気のように無視されてしまうのだ。

 

たとえ、何年も何年も同じ国で暮らしていても、いかにその国を愛していても、日本国外に住んでいれば、現地人からは「日本人」「外国人」と扱われる。

 

やっとの思いで日本に帰国しても、「アイツは留学帰りだ」「帰国子女だから楽してる」「空気が読めない」などの中傷を受ける。

 

誰しも、何かしらの中傷は受けたことがある。「外国語できて羨ましい」という嫉妬の裏返しなのだろうか。

 

確かに、私のような海外生活が長かったものは空気が読めないかもしれない。普通の日本人ができることが、できないかもしれない。

 

それは決して、学ぶ気がなかった、とか、日本の文化をバカにしているという訳ではない。

 

日本人がコーランを読めない、読んでも中々イスラム文化を理解できないのと同じように、帰国子女や留学帰生も、空気を読んだり和を尊ぶ文化を理解できていないのだ。

 

外国に住んでる間は、現地人とはみなされず「この国に住んでる日本人(つまりは外人)」扱いされ、帰国したとしても、「留学帰りだ」「帰国子女だ」と別カテゴリー分けされる。

 

母国に帰ってきたはずが、アウェー感は続く。自分のホームなんて無いことを知る。帰国後の最大かつ予測できないショックってこれかもしれない。

 

もし、貴方がそんな人に遭遇したら、ほんの少しだけでも、優しさを持ってくれたら、私は幸いです。

 

 

今回は、「帰国してもアウェー」というパラドックスをお伝えしました。

 

次回は「海外なのにとても閉塞的な日本人社会」というパラドックスを紹介します。海外に感化海外に住むことによって、極度に日本人化する人達もいるのです。