打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

ナイロビの蜂

 

 

同じ映画、同じ本、同じ物語を見ても、以前とは異なる感想を持つ。そんな物語はありませんか?

 

沢山の映画よりも、何度も同じ映画・本を見るのが好きな私には、そんな物語が沢山ある。

 

その一つが「ナイロビの蜂(原題 Constant Gardener)」というイギリス映画。

 

これが、前回の記事で触れた「駐在妻という枠を超えて「自分らしく」行動した外交官妻が呼んだ悲劇」の映画です。

 

この映画を見る度に、私の感想・感動ポイントは変わっている。

 

どんな時代に、どんな感想を抱いたのか。

私はどう変わったのか。

どう視野が広がったのか。

 

それを紹介します。

 

 

まず、「ナイロビの蜂」のあらすじを。

※ネタバレあり

※この話は現実に近いが、フィクションです

 

------------------あらすじ ここから------------------

主人公のジャスティンは、イギリスの外交官。「外交官のくせに嘘が苦手」と言われるほど、正直で優しい。事なかれ主義の外交官。

 

妻のテッサは、正義を強く持ち、怖れることなく自らの意見を発する若き活動家のテッサは、ジャスティンと恋に落ち、結婚し、赴任先のケニアについて行く。

ケニアについて行くために、テッサからプロポーズしたも同然。

 

ケニアにても、身重になっても、テッサは意欲的に活動する。ジャスティンが止めるのを聞くこともなく、テッサはケニアのスラム現地人等とも交流を深めていく。テッサは賢くて正義感が強い、好奇心に溢れた人だった。

 

外交官の妻というのは、大概他のお仕事はしていない。「外交官の妻」という仕事であることが多い。テッサはそれに収まらなかった。

 

地元民との繋がりを持ったことで、製薬会社が行う「不都合な真実」が見えて来た。

 

  • ケニアの貧しい人達を、無料の人体モルモット(治験者)にしていること
  • 製薬会社が出した新薬は、実は死に至る副作用があること
  • 副作用によって死に至る人がいることを知りながら、製薬会社がこの死を隠蔽し、このまま世に新薬を出そうとしていること
  • イギリス本国が、この隠蔽を認め、むしろ国家ぐるみで隠そうとしていること

 

勇敢な女性であるテッサは、徹底的に調査してこの不都合な真実を公表し、製薬会社に新薬の開発のし直しを求めるつもりだった。

 

副作用による死を避けるために。人の命のために。正義のために。

 

その最中、悲劇は起きた。

テッサは暗殺された。

 

ジャスティンは、愛する妻の変わり果てた無惨な姿を見て、思う。

 

「なぜ妻は、僕に何も話してくれなかったのか…」

 

テッサは、自分が何を調査しているのか、追いかけているのか、ジャスティンに全く知らせていなかった。それは、ジャスティンを守るためだった。

 

ジャスティンは外交官というイギリス政府側の人間。国家レベルで隠蔽しようとしている事実を公表することは、国益を害する。国家側の人間が直接国益を損ねることはできない。

 

死人に口なし。テッサが誰と何をしていたのか、ジャスティンは教えてもらうことはできない。

 

テッサの秘密と、なぜテッサが死んだのかを知るべく、ジャスティンは意欲的に調べていく。途中で命の危険を感じても、果敢に立ち向かって行く。

 

事なかれ主義だったジャスティンが、勇敢な愛妻の死をきっかけに変化していく。

 

------------------あらすじ ここまで------------------

 

 

結構壮絶なストーリーです。この深い深い、哀しい映画を、私は何度も見ています。

 

そのたびに異なる感想を持つ。それによって、自分の変化を感じる。同じ物を見た感想なのか!?と思う程、毎回違う感想を持つ自分に驚く。

 

自分の立場、人生経験、読書量が変わったことが、この感想変遷でよくわかる。

 

感想① 正義を持って悪に立ち向かうテッサに共感し、憧れた大学生時代

感想② 大きな夫婦愛に心打たれた結婚5年目位

感想③ 「悪」に手を染めてでも、国益を守ろうとする外交官と国家

 

感想① 正義感溢れるテッサに憧れた大学生時代

確か2009 年頃、初めてこの映画を見た。  

 

独身で大学生だった私は、屈せずに、悪に立ち向かうテッサ・クエイルに強い憧れと共感を持った。

 

大好きな女優、レイチェル・ワイズが演じていたこともあり、自然と憧れた。

 

(そもそも、この映画を見た理由は「レイチェル・ワイズが出演しているから」だった。それ位、彼女自身が好き)

 

この時期、私はジャスティンには全く共感できなかったし、目に入ってもいなかった。あくまで「テッサの夫」としか見ていなかった。ジャスティンが主人公なのにね。

 

 

感想② 夫婦愛に心打たれる

2017年頃(出産後、夫婦で見る)

この時は、テッサとジャスティンの夫婦愛によって凄く感動した。

 

テッサは正義を持って、副作用によって死ぬかもしれない人達の命を救うために、立ち向かった。一番愛するジャスティンに、自分の活動を伝えたかったに違いない。誰よりも、ジャスティンに伝えたかったし、理解して欲しかっただろう。

 

でも、ジャスティンを守るために、隠していた。

 

ジャスティンは、妻の死の裏にある真実を知るために、身の危険を冒してまで調査する。その中で、事なかれ主義のジャスティンは消え、たとえ国家の敵になろうとも、真実を明らかにして人命のために力を尽くす。まるでテッサのようになって行く。

 

自分の気持ちだけを考えれば、自分の身だけを案じるならば、決してできない行動だ。テッサもジャスティンも、己よりも大切な人のために、行動していく。

 

結婚して数年経ち、母となった私は、この夫婦愛に心打たれた。私が知っているよりも、大きな大きな愛が、そこにはあった。

自分も夫婦愛を感じたことがあるからこそ、ジャスティンとテッサの間の夫婦愛にも感動できた。

 

やっぱり自分の中に無いものには、気が付かないもの。気がつくからこそ、感動する。

 

 

感想③ 「悪」に手を染めてでも、国益を守ろうとする外交官と国家

 

2019年の今、感じたことは「国益とは」です。私は公務員ではないし、政治家でもないので、国益を考えて仕事をしたことはありません。

 

国益とは何か」を常に考えて仕事をしていた元外交官が書いた本を読んだからでした。 

 


国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
※読書感想文はいずれ書きたい

 

映画には様々な立場の人が登場する。初見ではテッサ側からしか映画を見れなかったが、今なら国家や外交官側の気持ちもわかる気がする。

 

悪党に見える人達にも、それぞれの正義を持って行動している。

 

テッサの正義は最も人道的で道徳的で尊いものだ。致命的な副作用を隠そうとする製薬会社にも、ぐるになってそれをもみ消そうとするイギリス国家にも、それぞれの正義があった。

 

【製薬会社の「正義」】

映画の中では、製薬会社が悪党として書かれていました。再度、何億円をかけて、新薬研究のやり直しをしたくなかった。

 

新薬の副作用による死は、ごくわずかな数だった。この新薬によって、大儲けできる予定だった。

 

製薬会社の正義は「利益」です。利益のためなら、たった少数の人間の死は隠蔽し、新薬を発売するほうが、会社と社員を守ることになる。

 

営利企業である限り、利益は「正義」なのだ。

 

【イギリス国家の「正義」】

この新薬が世に出るためには、工場がいる。それを売るための営業職も必要になる。この新薬発売により、イギリス本国では何千もの新しい職が生まれる。失業者達を救うことができるのだ。

 

ケニア人を無料で人体モルモットとして治験実験させていたことは、どうみても人道的ではない。が、それが明るみに出れば、訴訟問題になり製薬会社にはお金がなくなり、結果的にイギリスの失業者達に職を与えられないかもしれない。

 

ケニアの貧しい人達の命と、失業した本国イギリス人の生活、どちらを守るべきか。

 

それを天秤にかけなければならない時、外交官は、国家は、自国の国民の生活を守ろうとする。

 

他人の生活や命を踏み台にして、生きる。その生き方は決して褒められたものではない。

 

もし、国益を優先しなければならない立場に居たとしたら、

ケニア人のイギリス人の生活どちらを優先するか選ばなければならなければ、

私だって自然と同じ選択をしたかもしれない。

副作用を隠す、という。不都合な真実を隠す。

 

 

テッサの正義は、国益と反する部分にまで踏み込んでしまった。真実を知った彼女は、口封じのために殺された。

 

 

 

なぜ、テッサは殺されたのか。彼女は何を知っていたのか。

 

これまで何も知らなかったジャスティンは、必死にその理由を探す。真実を見つける中、彼も危険な目に合い続ける。

 

ジャスティンも、彼の正義を持って動き出す。「テッサのため」それが彼の正義だった。

 

 

「外交官の妻」という枠を飛び越えて活動し続けたテッサは、自らが暗殺されるという悲劇を呼んでしまった。

 

これを考えると、ですよ。以前は私がバカにしていしまっていた「極度に日本人化した駐妻たち」側の気持ちもわからないではないのです。

 

もし、駐妻たちが、社益や国益を忘れ、枠を超えて「自分らしく生きる」をやってしまっていたら、何か恐ろしいことになるのかもしれない。だから、彼女たちは己を押し殺してきたのかもしれない。そこに駐妻の「正義」があるのかもしれない。好きでそうなった訳ではないのかもしれない。

 

そう思うようになったので、私はカーストにかじりつき、謎にひれ伏す駐妻たちを以前ほどバカにしなくなった。バカにできなくなった。彼女たちにもそれなりの事情がある。が、今でも、あの世界観は理解できないし、自分もその構成要員になりたくはない。

 

 

「正義」という言葉。昔は好きでしたが、今は非常に危険な言葉だと思う。

 

正義ってなんなのか、誰のためのものなのか、正義の存在自体が正しいのか。次は「正義とは何か」についてでも書いてみようかしら。

 

 

 

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ナイロビの蜂」は素晴らしい映画です。ぜひ皆様に見て欲しい。これには原作の小説があり、作家は言っています。

 

「これはフィクションです。でも現実はこの小説以上にひどい状況であろう」

 

と。

 

 

我々が知らない所で、悲惨なことが起きている。そして、その恩恵を、知らず知らずのうちに受けているのかもしれない。

 

誰かの生活を、命を犠牲にして、何かを得ているのかもしれない。私達が認識していないだけで。

 

きっと、私達のそう遠くないところで、「不都合な真実」は存在する。

 

不都合な真実の存在について考えたら、なんだか色んな事が些細な問題に思えてきた。その些細な問題たちのために、私はどれだけ翻弄されてきたのか。

 

私は今、自分の小ささという不都合な現実を目の当たりにしている。