「私って説明が上手くなくて、考えてることを言語化するのが苦手なんですよねー」
久々に会った友人の雨さん(仮名)が、こんな事を言ってた。仕事仲間とのコミュニケーションが難しいとか。
詳しく聞いてみると、雨さんと先方の方と、「ルールや方向性の捉え方」が違うのが見えてきた。
この捉え方の違いこそ、説明力の必要性を決める。世の中のマイノリティの人間こそ、強いモチベーションがある、と。
会社組織もサービスも、急にルールら方向性が変更されることがある。
その新しいルールや方向性を、あなたはどう捉えますか?
①すんなり受け入れる(または割り切る、ある意味諦める)
②新しい方向性自体の是非を徹底検証し、場合によってはルールを変更しようと努める
私の友人の雨さんは①、先方は②のタイプだったようです。
雨さんは、すんなりルールや方向転換を受け入れれるタイプなので、②タイプの人が一体どんな説明を求めているのかわからず、「話が通じない!」と感じてたとか。
ここまで聞いて、私は思ったのです。①タイプの雨さんは、組織に属する適応能力があるんだなー、凄いなーと。
私は、圧倒的に②タイプ。故に、大組織には向いていなかった。「どうせ変えれない事に疑問に思って、上司や同僚と衝突して、なんて要領悪い」と思われたこともあるかもなぁー(遠い目)。
②タイプの人をどうしたら説得できるのか、①タイプの雨さんは色々と考えた結果、「自分の説明が下手だからだ」と思ったそうな。
自分の脳内を言語化して表現することがあまり得意ではない、と言いつつ、「言語化できなくて、特段困ったことがなかった」とも言ってた。
私は言語化できずに困った経験が、苦しんだ経験が山ほどある。なぜ雨さんは、「言語化できなくても特段困らなかった」のか。この差はなんなのか。
その理由は、私がマイノリティの人間であったから、だと思う。
マジョリティの人間であれば、自分の思いを言語化できずとも、困らない。マジョリティとは、自分と同じ考えの人が沢山居るということ。言葉を介在しなくとも、思いが伝わってるのだ。正に以心伝心。言語化の必要がない。まさに雨さんが言ってたとおり。
しかし、マイノリティはそうは行かない。自らと同じ発想の人は少ない、または居ない。言語、という客観的なものを通さなければ、我が想いを伝えることすらできない。
英語力が低かった留学初期は毎日毎日、言語化できない悩みに直面していたが、母語である日本語でも、この悩みはいつもあった。上手く言語化できないために、いじめにも会ったのだと思う。
私は末っ子なので、育った家庭内では最年少。子供時代では、年齢が低いほど語彙力も表現力も乏しい。しかも、母曰く、家庭内では私だけが右脳タイプだったらしく、その時点ですでにマイノリティ。
マイノリティ✕最年少という、自分の思いを汲んでくれる人が中々いなかった人が、異国の地に留学したら更に大変だった訳です。どこまで行ってもマイノリティ!(私はそういう巡り合わせなのだ、と今は受け入れてる)
「自分の考えを分かってもらえない」と感じるからこそ、説明力や表現力を磨くために頑張るのがマイノリティなのかもしれない。
物凄く説明が上手な人は、社会の中ではものすごくマイノリティで、想いをわかってくれる人のために物凄い努力を重ねたのかなー、なんて。(私は言語化への努力をやり過ぎたのか、ストレートすぎる人になって、娘の婉曲表現を理解するのに苦労してたり!)
そんなこと考えていたら、池上彰やメンタリストDaigoの顔が頭を過ぎった。説明上手で毒舌な彼らも、それなりの苦労があったに違いない…と。
言葉とは、表現力とは、マイノリティの人間が生き残るためのツールだったのかもしれない。「普通の人」ではないから、名だたる作家になったのかもしれない。
こんな事を考えていたら、説明上手で嫌な感じの人に出会っても、心の中で優しくなれそうな気がした。
深堀りしていくと、心の中で優しく接することができる相手が増えて行く気がして嬉しい。これからも色んなものを深堀りしていきたい。