打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

自己犠牲で人助けをしてはいけない理由

誰しも、誰かの、何かの役に立ちたいと願う。それが人間の性だと思う。

 

人助け、というのはわかりやすく「お役に立てた」と実感できるものだ。心地よく人助けするためには、自己犠牲をしない範囲に収める必要がある。

 

自分が我慢してまで、身を削ってまで人助けをするのは、決して美談でもないし、心地よくもない。

 

通りすがりの天使に人助けされて、私はこれに気づいた。その背景と、「自己犠牲の人助けをしてはいけない理由」を綴ります。

 

まずは、背景を。

 

「自己犠牲しない範囲で、私ってば人助けできちやった☆」

自画自賛していた数日後、遙かに私の人助けのレベルを上回る天使に、私は助けられた。

 

【私のした人助け:席を譲る】

正直人に自慢するような事ではないが、自己犠牲なしで人助けをした時というのは、非常に清々しい気持ちだ。

 

たとえば、自分が疲れていたり、具合が悪い時に無理をして譲るのは辞めた。「譲らなければいけないのに…」と自分を責めるのも辞めた。そんな相手に席を譲られた方も気まずいだろう。

 

正直に告白すると、人に席を譲ったのは久しぶりだった。最近は疲れて混む電車に乗る事が多いので、とても自分が立ち続けることができなかったからだ。

 

自分がとても快調だった時、一人のお年寄りが見えて、私は「どうぞ」と一言伝えて積を離れた。譲って貰った方はありがたいだろうが、感謝しなければならない相手が視界に居続けるのも中々の圧力になる。だから、私は席を譲る時はいつも、その人の視界からは消える。

 

あんまりしつこくお礼を言われても恥ずかしいしね^^;

程々の距離感って大事。

 

なーんて、私は人に席を譲って、自分は良い気分になっていました。プレゼントをもらう側よりも、贈呈する側の方が実は楽しい、みたいな感情。

 

 

そんなことを思っていたら、その数日後、私の何枚も上をゆく清々しい方に、助けて貰ったのだ。

 

【天使の人助け】

とある平日、私は、紙袋に水筒やらお弁当やらを持ち歩いていた。が、紙袋の底が抜けて中身がどんどん落ちてくるという非常に困った現象に見舞われていた。

 

乗換通路で、「袋破けちゃった…どうしよう…」とあたふたしている中、私の肩をトントン、とする人が。振り返るとそこにはビニール袋を差し出してくれた女性が居た。

 

「あ、ありがとうございます!!」

 

天使が現れた!!と受け取った瞬間、踵を返す様に彼女は去って行った。

 

もう一度お礼を言いたい気持ちだったが、彼女はもうそこにいない。

 

私の困っている様子を見て、ビニール袋を黙って差し出してくれたのだ。おかげで、職場までも無事にたどり着くことが出来た。

 

 

 

この天使も、きっと自己犠牲のない範囲での人助けをしてくれたのだ、と思う。私はとってもとってもとっても助かったのだが、きっと彼女は痛くもかゆくもないのだ、と信じられた。

 

しっかりとしたリュックに、すべての荷物を詰めていたので、ビニール袋を一つ人にあげようと、きっと痛くも痒くもないのだろう。

 

恩着せがましいの真反対。すぐに、颯爽と視界から消えて行ってしまった。

 

【本当の人助けとはなにか。】

 

自分を犠牲にして、自分の能力や持ち物を差し出すのではなく、

 

自分が持っているものを、適切なタイミングで、

 

それを必要な人に差し出す。

 

自分の心の負担のない範囲で。

 

自己犠牲の人助けをしてはいけない理由は、ずばり、自分も相手も不幸にするからです。

 

自己犠牲の家事を辞めたほうがいい理由と近いかな。

 

自分を犠牲にして、誰かを助けるって美談に聞こえるかもしれない。けど、助けられた側って、全然救われないと思う。自分を助けてくれた誰かが、苦しむ姿を見なければならないのだ。 

 

人が苦しむのをみて幸せを感じる人種もいるかもしれないが、それは偽物の幸せだと思う。

 

自己犠牲を含む手助けとは、結局誰のことも心底助けれてはいなくて、「自分ってこんなに良い人なのだ」と言うためだけのものじゃないのか。美談どころか、偽善になってしまう。人助けの天使どころか、人助けの皮をかぶった悪魔だ。

 

助けた側だって「あんたのためにこんなにしてやったのに」と恩着せがましくなるかもしれない。

 

 

 

人を助けたいと思う。その心自体は純粋で、尊重したいもの。人助けのために必要なものは、決してそんな大層なものではない、と気づいた。

 

たかがビニール袋、されどビニール袋が、相手の一日を変えれるのだ。

 

自分の持っているもの、提供できるものが増えれば、人助けの手段は増える。人の役に立てる。が、これは必要条件であって、充分条件ではない。

 

それを、ベストなタイミングで、適切な人に差し出す。人間をどれだけ観察できるか、にかかってくる。

 

ビニール袋の天使の彼女だって、私の紙袋の底が抜けて困っていたのを実によく観察したから、サッと差し出してくれたのだ。

 

助けるためには、人を、愛を持って観察する。

自己犠牲にならないためには、自分を、愛を持って観察する。

 

自分が苦しくても、世間が言う「良い行い」をする。耐える。

 

 

私は声を大にして伝えたい。

 

 

そんなことしなくて、良いんだよ!

 

 

人を助けるならば、自分が苦しくない範囲でやるのが、結局は全員にとって良いことなんだよ!と。

 

献身的に自己犠牲するのは、美談でもなんでもない。人に同じ我慢をし続けて欲しい側の勝手な理論だ。己を消して、己を大事にできない人が、他の人をそれ以上には大事にできないと思う。

 

だから、まずは、自分を大事にしよう。

それから初めて、本当の意味で、周りの人を大事にできる、と私は思う。

 

 

自分を大事にするために、何をしようかなー。何をやめようかなー。