コロナにより、お祭りが軒並み中止・延期になっている。
東京の江戸っ子育ちである私は、お寺(仏教)の娘といえど、祭り(神道)と共に育ってきた。
そんな街でも、日曜日は、教会の礼拝の鐘が鳴り響いた。
神道、仏教、キリスト教、そんな複数の宗教が入り交じる中、一神教と多神教の違いでも論じてみようと思う。
日本語で祭り、英語でfestival。人が集まって何かをお祝いするというのは同じだが、決定的に違うのは神の居場所。
人間が神のおはす場所まで、足を運ぶのか。
神が人間の所まで、来てくださるのか。
祈りという行為を、いつどこで行うのか。それが指定されるのが一神教であり、指定されないのが多神教だと思う。
キリスト教の教会も、イスラムのモスクも、一箇所に一つであることが多い。小さな村では「教会」といえば一箇所に限定される。そして、決まった時間に礼拝があり、そこに人が集まる。
キリスト教なら日曜の午前礼拝、イスラム教ならば1日5回のお祈り、などといった所だろうか。
神社というのは、村に一つだけしかない、とは限らない。一つの村の中に、稲荷神と龍神、寺院が共存することは多々あるし。だが、日単位、週単位、月単位と短い周期で繰り返す、決まった時間でのお祈りはないと思う。
寺の坊主が毎朝御経を読むことはあれど、宗教関係以外の人がそれをするのは稀だ。(私の父は仏教寺院の住職だが、仕事以外に御経を読んでるのを聞いたことはない。遥か昔、私が生まれる前には御経の練習してたのかしら…)
※仏教は、多神教なのか、一神教なのか。議論はあれど、私は仏教は多神教だと思う。理由は、仏は複数種類存在するから。(菩薩が出世したら阿弥陀になる、など。キリスト教世界では、「大イエス」とか「中イエス」なんて存在しない。そんな呼び方したら不謹慎と言われそう)
いずれの宗教においても、お祈りや日頃の感謝は良きこととされており、それには全く同感。
その場所や時間を指定するのか否か。
そこに大きな違いがありそうだ。
時間も場所も指定しないからこそ、「神輿」という存在が思いつくのだ。神輿は、英語では portable shrine 、持ち運び可能神社。人間に担がれた神様が、氏子の町を見回り、人々は祈りを捧げたり、酒を浴びたりしているわけだ。
キリスト教文化で育った欧米人には、非常に理解しにくいコンセプトだ。
彼らにとっては、人間が神様のもとにわざわざ足を運び降臨を願うものであって、神様を担いで歩き回るなんてとんでもないこと。
唯一神の発想である多神教では、「神が今、ここに存在するならば隣町には今いないのではないか」とか思うのだろうか。(同時時刻に、2つの場所には存在してはいけないミッキーマウスのようだ。そういう意味では彼も神格化されているか。)
まあ、彼らにすれば、神を担いで歩き回ること自体がとんでもないのだ。
宗教とは古来から、人々を支配するための道具として使われて来た。
その昔のキリスト教会議でも、三位一体説が選択され、一神教色がますます強くなった。他説は認めない!的な。
- 場所(教会?モスク?)
- 時間(礼拝タイム?)
- 行動(お祈りの時の呟くセリフ、歌、お辞儀の仕方など)
場所も時間も行動も指定したら、支配しやすいのかなぁ…
日曜の朝に聞こえた、教会の鐘一つでここまで思いを巡らせる私ってば、なんと気難しいことか。
こんな脳みそだから、自粛の苦しさの中、本が破けて泣くほどストレスを溜めてしまったのだろうか。
いずれにせよ、宗教は今も昔を支配の道具に使われている。姿形を変えて、きっと、人類と共に存在し続ける。
※私は宗教のプロでもなんでもなく、私が書いた各宗教の習慣なんて、てんで、間違ってるかもしれません。あくまで個人的意見ですので、あしからず。不快な思いをされた敬虔な信者さんがおりましたら、この不届き者に一言教えてくださると嬉しいです。