打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

分かち合えるために必要な条件

人が物を分かち合う理由ってなんだろう?

 

自分の取り分が減ってでも、分かち合いたい理由はなんだろう?あの時、どうして娘たちは大好きなドーナツを分けてくれたんだろう

 

分かち合うのが苦手な私が、その理由を考えてみた。

 

結局は、○○が満たされていることが必要みたい。

 

長女れーちゃん(5歳)は、本当に小さいときから、分かち合えるタイプの子です。なんで私からこんな子が生まれたのか、と思うほど。

 

たとえば、去年の出来事。当時4歳だったれーちゃんと私は二人で近所にドトールに行った。妹が生まれて以来、ママと二人だけでお出かけの機会は滅多にない。近所のカフェと言えど、私もれーちゃんもウキウキ。れーちゃんはお気に入りの羊のぬいぐるみ、通称「ひったん」も一緒に出かけた。

※カフェでは非常に「ひったん」をかわいがっていたが、帰宅したら玄関付近にポイッと放置されてて、私はひっそり、「ひったん」に同情した。

 

私はミルクレープを、れーちゃんはワッフルを頼んだ。「いただきまーす」をした途端、れーちゃんはワッフルを半分にちぎり、ママに分けてくれた。

 

なんと!ママにはママにお菓子があったのに!しかも「その分ママのケーキを頂戴」とかも言わない。ただ、与えてくれたのだ。(買ったのは私だけど…親だから当たり前だし、それは「与えた」とは言わない気が…)

 

なぜ、れーちゃんは、見返りも求めず、ママに分けてくれたのか。

 

去年のドトールでは、「れーちゃんは本当に良い子なんだな。だから、嫌がりもせずに自然に分かち合えるんだな」と思っていた。

 

そして、先日の我が家のドーナツタイムでも、れーちゃんは自然に、自ら分けてくれた。

 

次女ワカメちゃん(2歳)は、妹らしく(?)人に分ける事よりも自分の分の確保に忙しいタイプ。末っ子三女である私もこのタイプ。

 

れーちゃんがドーナツを分けたら、ママがれーちゃんをとっても褒めた。それを見て、ワカメちゃんもドーナツを分けてくれちゃったり。

 

なぜ、ワカメちゃんは分けてくれたのか?

 

褒められたかったから?

 

いや、違う。

 

「こうするとママが喜ぶんだ!」

 

とわかったから、分けてくれたのだ。

 

 

人の喜ぶ顔が見たいから、

ママの喜ぶ顔が見たいから、分けてくれる。

 

主人も、娘たちの喜ぶ顔が見たいから分かち合える。

 

誰かの喜ぶ顔見たさに、人は分かち合えるものなんじゃないか。

 

冒頭のとおり、私は基本的には、分かち合うのが苦手だ。

 

では、私はなぜそれが苦手か?

 

 

誰かの喜ぶ顔を見たい、という欲求は、本来誰にでもある。それが第一欲求か、第二以下か、という所が違い。

(吸血鬼と人間の恋を描いた「トワイライト」にも似たような事が書いてあった。全ての吸血鬼は、人間らしい欲望を持っている。ただ、血を求める欲望の下に埋もれいるだけ、とか。)

 

では、性善説的に見れば、私にも「誰かの喜ぶ顔が見たい」欲求があるはず。

 

色々考える。

 

「誰かの喜ぶ顔が見たい」が一義的な欲求になる条件は、自分が満たされているといことではないか?

 

シャンパンタワーは、一番上のグラスが満杯になって初めて、下段にもシャンパンが溢れて行く。それと同じか。

 

私ったら一体何が満たされていないのか…

 

 

主人や娘、分かち合える人たちにか込まれて暮らすのは、嬉しい反面、自分の分かち合えなさが目について辛い。

 

けど、反面思う。

 

主人も、れーちゃんも、きっと満たされている。私は、家族の前で泣いちゃったりするけど、この三人が「満たされている」と感じるのに役立っているんだな、とも。

 

 

そもそも、最初から分かち合うつもりだった主人。

 

ママの「チョコドーナツいいね!!」一言に反応して、分けてくれるれーちゃん。

 

ママの「まあ、れーちゃんってば、あんたなんて良い子なの!」という感嘆に満ちた褒め言葉に背中を押されて、ドーナツを分けてくれたワカメちゃん。

 

分かち合うのが苦手だからこそ、こんな分析をしてみることもできたり。

 

 

三人とも、ドーナツを割と食べた後だったから、「分けてもいいや」と思えていたのかもしれない、もし一口も食べていない時だったら、分けてくれたかどうか…

 

なんて、邪推もしてみたり。

 

私ってば、性善説なんたが、性悪説なんだか。

 

今日はホットケーキを焼いた。ホットケーキはすんなり分かち合えるが、多分、肉は分けれない。自分がたっぷり食べた!と思ってから、やっと分けるんだ!

 

分かち合うのが苦手な人がいたら、伝えたい。なんだか、罪悪感を持ってしまうかもしれない。それは、良し悪しではなく、性質だから、罪悪感を持つ必要はないかもしれない。

 

分かち合えない人がいるからこそ、分かち合える人の素晴らしさがわかるのかもしれない。