「あの人苦手だな〜、嫌だなー」って人、いませんか?
どこぞの徳が高い方は言うのです。
「汝の敵を愛せ」
そんなの無理!!ってずっと思ってた。そんなのわかるなんて奇跡だよ!!と。
が、そんな奇跡が、私を訪れた。
利己的に考えたら、嫌いな人の幸せを祈れるようになった。
「敵を愛する」「嫌いな人の幸せを祈る」の超利己的解釈をご紹介します。
先日、ブログで本音を語ってたら切れたご縁がある話(①、②)を書きました。
これを公開するのは勇気がいる事だった。特に②!切れたご縁の相手もこれを読んでる…かもしれない、と。
縁が切れた相手。彼らに嫌われることを恐れてはいなかった。既に嫌われてるだろうし。
恐れていたのは、縁が切れた相手が、何か嫌な事をしてこないか?何か妨害してきたりしないか?だった。
「昔こんな人がいて、嫌だったの!」とか、ブログで書いちゃっておきながら、私の脳内での被害妄想炸裂。相手からの復讐を恐れる、ビビりな私。
そんな自分がいる事を、認めざるを得なかった。
意図に関わらず、人が人を妨害してしまう事、不快にさせることはある。けど、一人一人が心底幸せならば、誰かに復讐してやろうとか、考えもしないよね…。
と悶々としていたら、ひらめいた。
そうだ!彼女達が幸せであれば、私が恐れる事態は起きない。それならば、嫌いな相手の幸せを祈ろうと思うに至った。
嫌いな相手が幸せならば、私に何か余計なことをしてくる可能性は極めて低い!
私はそう気づいた。
だから、まだされてもいない妨害や危害を恐れる暇があったら、あの(嫌いな)人の幸せを祈ろうと。
本やら人やらに、「汝の敵を愛せ」とか「全てに感謝せよ」教えられたけど、私には馬の耳に念仏、豚に真珠だった。
「敵を愛せ」と、いくら説かれても、その先生がマザーテレサでもダライラマでも、無駄無駄。自分で気がつくしかない。強制されてできるものじゃない。
自分で気がつくしかない、のは何も「敵を愛する」ことだけではない。
車の運転も然り。
私は、ペーパードライバー以上サンデードライバー以下。運転が下手だから、いつもビビリ運転。
ある時、ビビり運転しながら、ふと気がついた。
「事故に会いたくないのは、誰もが同じ。ほとんどのドライバーは私よりも上手。たとえ運転が下手でも、私が余程突飛な動きをしない限り、周りは避けてくれる。」
そう気がついた。
私の主人は運転慣れしている。私のこの発言を聞いて、主人は小さく拍手した。
「ある程度の時間・距離を運転しないと、それに自らは気づけない。気づけてよかったね。」
私の運転の教官とも言える主人は、いくらでも「変な運転をしなきゃ、周り避けて貰える」という事実を教えることはできた。でも、それをしなかった。
人に教わるのではなく、自ら気がつく事に意義がある。
私は聖人君子でも何でもない。ただの人。
それでも「自分の苦手な人・嫌いな相手の幸せを祈る」と決めたのは、自分のため。
自分に火の粉がかからないように、火の粉の元になりうる相手の幸せを祈る。そして鎮火を企む。
「汝の敵を愛する」ってのは、自分の身を守るため。結局は自分のためなんだな。
私は、敵を「愛する」っていうのは、未だピンと来ていない。
私が今、しっくり来ているのは、「嫌いなあの人も、幸せでありますように」と祈ること。
その人のためでもなく、偽善でもなく、とにかく自分のためにやる、と思えるようになった。
これも、自分が嫌だな〜と感じる経験があったからこその気付き。
好きな人にしか出会えてなければ、「人の幸せを、自分のために願おう」とは思えなかったかも。
自分を好きな人が、私に危害を加えてくる可能性は低い。私が幸せを願おうが願わまいが、その確率は変わらない。妨害も危害もないなら、「その人の幸せを祈ろう」なんて発想にはなれなかった。
私は聖人でも聖母でもない。いくら大好きな人達相手でも、「あなたの幸せは私の幸せ」とまでは思えない。
けど、自分の身を守るためならば、人の幸せも祈れる、という自分の図々しさやズルさが見える。
こんなわけで、嫌いな人の幸せを祈れるようになった私。嫌いな相手よりも、自分が好きな人の方がもっとずっと幸せになってほしい。
だから、嫌いな人も、好きな人も、両方幸せを祈ることにした。相手によって祈る幸せレベルを変えるのは面倒くさい。だから、祈りの強さは同じでいっか。博愛ってこういうことなのかな(笑)
私は、あの(苦手な)人の幸せを祈ります。
私は、この(好きな)人の幸せをいのります。
私は、私の幸せを祈ります。
「敵を愛す」、「嫌いな人の幸せも祈る」、「人の幸せを祈る」、全てこれは自分のためだったのか。
自分にとって嫌な体験をしたからこそ、超利己的動機ではあれど、「敵の幸せを祈る」ことができるようになった。これには感謝しかない。苦手だったあの人、嫌いだったあの人、みんなありがとう。
これまで、豚に真珠だったご高説の本質が見えてきた。イエス・キリストも釈迦もこんな利己的に解釈されるとは思わなかったかもしれない。寺の娘なのにごめんなさい!超利己的です。
利己的な目的で何かを始めて、おこぼれ的に他の人にも幸せをもたらすなら、結果的に利他的にもなれたら、ラッキーだな。
極めて利己的な、「敵を愛す」の解釈でした。
あ、ちなみに、これは私が描いた豚の絵↓
豚々コブタ〜。
一番好き肉は、豚バラ。自分の絵を見て思いつくのがそんな事である自分が、なんだか少し哀しい(苦笑)
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