先日、久しぶりに浴衣を着ました。娘たちの保育園の夏祭りに。
コロナで今年の夏祭りはキャンセルかと覚悟してたが、先生たちはかなりの感染対策をして、開催してくれた。年長さんである長女れーちゃんにとっては、最後の夏祭りだったので、とても嬉しい。
娘たちと一緒に和服を着たことで、気づいた事があった。
「宝って、なんだろう?」という話です。
長女れーちゃんは、水色の地に朝顔の甚平、そこに濃いピンクの帯(三尺)。
次女ワカメちゃんは紺に鞠のような花の甚平。
私は薄紫の地に濃い紫の花柄、そこにクチナシ色の帯。
和服って、世代間を繋げてくれるものだな、としみじみ思った。
れーちゃんの帯(三尺)は、私が幼い頃に使っていたもの。姉も使っていたのなら、軽く30年選手。それを我が娘が着ているのを見るのは、嬉しい。
私の帯は、母方の祖母のもの。黄八丈という帯で、八丈島に伝わる帯。八丈島は、私の祖父の出身地。私の誕生よりずっと前に死んでしまった祖父の名残が、20年程前に他界した祖母が使っていた帯が、ここにある。
薄紫にクチナシ色を合わせるって、正直色合いとしては微妙だと思ってたが(一応、カラーコーディネートするのが仕事でもあるので)、どうしてもこの帯を使いたかった訳がコレ。
れーちゃんが、私の三尺を使ってくれるのを嬉しく感じるのと同じように、祖母も祖父も、私が黄八丈の帯を使ってるの知ったら嬉しいのだろうか。
十年、二十年、または半世紀。着物とは、世代を越えて、流行り廃りなく受け継ぐことができる家宝かな。
ふと、そんな事を考えてた。そしたら、頭の中で声が聞こえた。
「着物でもない、帯でもない。自分の存在こそ、家宝。人がそこに存在している。それこそが家宝。」
帯じゃない。着物じゃない。
私自身が家宝。
れーちゃんも、ワカメちゃんも、存在自体が家宝。
誰しも、その存在そのものが宝なのか。と気がついた。
チマチマしたことに、イライラもしちゃう。腹立たしいことも、そりゃあ、ある。
そういう何かあったときには、「誰しも存在が宝」って思い出せたら、気持ちも落ち着けるのかしらん。
母方の祖母、父方の祖母、それぞれの着物道具を触り、身につけてみる。そうしたら、今まで見えなかったことが、なんだか見えてきた。
着付けは一朝一夕では覚えられない。けど、必ず覚えたい。身につけることで、もっともっと、色んな気づきを得られるのかもしれない。
今はまず、帯の結び方の練習かな。
10代の頃、リボン風に帯を締めるのを、母に習った。30代の今、ちょっとリボンよりも大人らしい締め方を、できるようにならねば。
あれから、15年以上経っているかと思うと、時の流れが早すぎて恐ろしい。
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