先日、友人とZOOMで話しながら、「人と人ってこんなに違うんだなぁ」としみじみ実感した。
この時は、友人のAちゃんがが life tree card というカードを使って、※数秘術に似た占い的な何かをして。私が理系ファッションアドバイザーとして、似合う色や柄を簡易的に診断して。
物々交換的なセッションでもあった。
そこで話題に登ったのは、「SNS疲れ」の話。なぜある人はSNSに疲れ、なぜ私は疲れないのか。それを綴る。
数秘術とは、自分の生年月日をすべて一桁に分解して足し算した結果、「自分は3の人」「5の人」などと割り出すもの。
この数字による違いなのか、個の違いなのかわからんが、SNSの捉え方が全然違った。
私はSNSとは、ジャングルだと思う。多様な植物と動物が居て、肉食も草食も傍観しているだけの空中の水分みたいな人もいる。
SNSを見ると疲れるから、あんまり見ないようにしてる
Aちゃんはこう言った。「あの人はキラキラしてるのに、自分は煮詰まってる」などと感じてしまうのだろうか?
私はSNSを見ても、あんまり、疲れを感じない。というか、疲れなくなった。
■疲れていた頃に怒りを発信していた
私は流行っているものに爆弾を持ち込む癖でもあるのか?
去年流行ったブックカバーチャレンジの最中には「このチャレンジなんなの!!チェーンメールみたいに紹介するとか、本ってそういうものじゃないし」と書いたり、clubhouseが流行り出した時には「Androidユーザーだし、知らん。clubhouse関連の投稿飽きた」とか書いたり。
SNSを見て腹立たしく感じることもあり、「じゃあ見なきゃいいじゃん」となり、色んな人のフォローを解除したり友達削除したりしている。
そこに罪悪感を感じる必要は微塵もない。
■SNSで疲れないための物の見方
今は、「SNSという舞台を見に来ている」という感覚でいる。要するに、ちょっと斜めから見ている。特にキラキラ投稿は、うがった目で。
ああ、この人も大変なんだろうな。少しは虚勢を張りたいのかな。
なんて。
ぶっちゃけ、この考え方は性格悪いのかもだが、少し斜に構えていた方が心が疲れない。
なりたい自分に近づくためなのか、他人を牽制するためなのか、色んな思惑がSNS投稿には見える。投稿を真に受けるのではなく、相手の真意をそれとなく邪推して、斜に構える。
見ていて疲れそうな投稿にはこうやって脳内処理している。
■良い人でいようとしない
良い人でいようとするのは、とても疲れる。ネット上でもそれは同じこと。
インターネットによって変化した大きなことは、無名な人でも何かを発信できるようになった事。誰でも何でも投稿できる。
虫眼鏡で何かを拡大して見る様に、自分の良い所だけ、見せたい所だけを誇張して投稿することもできる。つい、自分をビッグに見せたくて、そうしてしまう。
人間、生きていれば自分をよりよく見せたい・大きく見せたいことはある。けれど、常に誇張された情報ばかりを目にしていたら、それを真に受けていたら疲弊するに決まっている。
嘘の情報、見せかけの情報とは、なんだか気分が悪くなるものだ。本物の料理は食べて美味しいが、精巧な模型は食べることも匂いを嗅ぐこともできない。
誇張ともいえるSNS投稿って、食べ物の模型に似てるんじゃないかしらん。
■本音は絶対に面白い!
かっこ悪くても、様にならなくても、本音を投稿している人には、どことなく親近感が湧く。
本音がつまらない人なんていない。本音はどこまでいっても個性的で唯一無二だから。何かつまらない・面白くない・疲れるSNS投稿を見たら投稿主の本音を邪推すると、疲れにくくなる。
キラキラしてる投稿でも、本音で語られてるものなら疲れないんだよなぁ。なんか不思議。
この世は嘘にまみれている〜!!と思うと、真に受けずに済む。
SNSに限らず、大概のことは真に受けない方が生きやすいのかなぁ…なんてふと思ったり。
そんな私は、なんでも真に受ける星人。SNSにおいては、やっとそれを脱却しつつある。
嘘にまみれたこの世界、このどうしようもない世界。この世界の良いところを見つけて、一筋の光である人々の本音を、知りたいなぁ。
知ったらビックリしてひっくり返るんだろうか。