こんまりさん流の「人生がときめく片付けの魔法」を実践中レポート、その3です。
洋服→本・書類→コスメ用品と進んできた私は、次にアクセサリーのお片付けを行いました。アクセサリーと向き合ってたら、「遺品と向き合うとは」について考えました。
私は気づいてしまいました。遺品をただ持っていても、故人と向き合っていることにはならない。お片付けを通して、死んだ祖母に思いを巡らせました。
アクセサリーを捨てるって、結構勇気いりました。これまで、洋服→本→コスメって進めておいてよかった。こんまりさんの経験則で「これが正しい順番!」っていうとおりに実行してたら、あら不思議。コスメが終わった後は、本当にアクセサリーを断捨離したくなりました。
子供が生まれてからつけれないアクセサリーって多いんです。
私はピアスホールがないのでイヤリング派。ママチャリをかっ飛ばす間に紛失するので登場頻度は少ない。
私アクセサリーは
- 自分で買った
- プレゼントされた
- 遺品整理で見つけた
のどれか。
遺品整理で見つけたものは、ジュエリーそのものだけじゃなくて、引き出しも、でした。
この引き出しは祖母の遺品整理のときに出てきた鎌倉彫りのもの。「埃かぶってるけど、良いものだし、おばあちゃんが使ってたものだから…」となんとなく捨てれなかった。そもそもジュエリー用の引き出しじゃなかったし、使いにくい。(戦後の配給用の書類とか入ってたよ。時代を感じる…)
正直、そんなに気に入ってなかったし、中のジュエリーたちもあまり嬉しそうではなかった。
「ときめくものだけ残す」法則に従い、この引き出しにもお別れを告げました。
最初はなんとなく後ろめたさがあった。「おばあちゃん悲しむかな…」って。
よく考えたら、おばあちゃんは「これ、もらってね!使ってね!」なんて押し付けたことはなかった。遺品整理の中で、私が「勝手に捨てれなかった」だけなんだ、と。
引き出しがなくなっても、おばあちゃんの存在は私の中から消えない。
ジュエリーも断捨離し、自分が大好きな物たちだけ残した。頭を使って、ジュエリーが喜ぶような美しい収納を、娘たちの将来も考えながら選んだお気に入りの鏡台の鏡裏に作った。あまりにキレイに収納できたので、夫に見せたら「わー…小宇宙ができてる」と言われるほど。
引き出しがなくなったことで、自由にのびのびできる所にお引越ししたアクセサリーは、なんだかキラキラして見える。
祖母の鎌倉彫りの引き出しと向き合い、手放したことで、これを手に入れた。
遺品の引き出しがなくなっても、きっと私はこれからも、ジュエリーを見るたびにおばあちゃんのことを思い出す。
遺品は、「故人を偲んで持っていないといけない」なんてのは思い込みでした。遺品を維持さえしてれば、故人との思い出に向き合ってる気がしてしまうだけだな、と気づいた。むしろ、遺品にバイバイしたからこそ、気づけたことが沢山あった。
学校の先生だったおばあちゃん。生きている間も、彼女の死すら私に色んなことを教えてくれた。今も、おばあちゃんは私に何かを伝えようと、教えようとしているのかもしれない。
向こうの国で、元気にしているのでしょうか。法要が近づく中、祖母に思いを巡らせてしまいました。
自分が楽しくて嬉しくて伸び伸びできる環境にいるって、モノにとってもヒトにとっても大事なことなのかもしれない。
この世で伸び伸びできなくなってきたら、皆あの世へ行くのでしょうか。
その人や物にとって、今、最適な場所。そのために冥土に行ったのか、と思うと、残された者は救われないようで救われるのか。
しかし鏡台とは不思議な場だ。片付けで家のあちこちを見て、色んなものを触ってるのに、一番物事を考えさせられるのは鏡台周り。
もしかしたら、覗き込んだら死んだおばあちゃんが会いに来てくれたり…しないかなぁ。