日本語って難しい!!空気・行間・裏を読んむってどういうことよ?!言語ごとに性格の向き不向きがあるのでは?という話の続きです。
私は「曖昧さ」が日本語を難解にしていると思う。曖昧さの内訳は・・・
- 主語がなくても成立する
- 一つの言葉に当てられる意味の種類が多い
- 同音異義語が多い
など。
徒然考えていたら、人間って騙されるのが実は大好きなんじゃない?って思いました。
文法やら語順やらは、文化圏によって異なり、親しい文化圏内の言語は似ている。例えば否定形の NOTは 動詞の前に来るとか来ないとか。
#1主語がない
主語という単語がない言語もある。たとえばイタリア語。動詞の変化型によって主語を特定できる仕組みだ。主語が I なのか We なのか、Sheなのか。それによって異なる。日本語では主語が I でも We でも明示されていなくても、同じ動詞が使えてしまう。ここに曖昧さが生じる。
「誰が主語なのかな~わからないな~この含みがある感じが美しい」そういうこともある。が、ミスコミュニケーションが生まれやすいのも事実。「誰が『Aさんはあなたを好きって言ったよ』」みたいな話になりかねない。
#2 一つの言葉に当てられる意味の種類が多い
どんな言語だってそうじゃないか!!まあ、一単語に一つの意味や使い方しかない、っていう方が稀かもしれない。ここで難解なのは、一単語がもつ複数の意味が特に直接的につながってるように、瞬間的にはわからないこと。例えば「軽い」。
物理的に体積が軽いってこともあれば、遊び人として軽いって話もあるし、尻軽ともなればまた違った意味になる。軽いの反対は重い、だが尻重の反対語は尻軽ってわけでもない。
#3 同音異義語が多い
日本語で使われる音の種類は、他の言語と比べても少ないほう。たとえば L と R の区別がなかったり、英語の "th"に相当する発音はない。音の種類が少ないことは、発音的な問題だけを言えば言語学習を容易化するもの。が、そうとも行かないのが言葉だ。
音の種類が少ない分、単語の数が少ない・・・なーんてことはない。日本語の語彙とは実に多様であると思う。でなければ、短歌や俳句のような文字数の少ないものが詩足り得ない。
音数は少ない、単語は多い。なぜこの相反するものが成立するのか?というのが同音異義語の存在だと、私は思う。
同音異義語は無数にある。「松」と「待つ」、「愛」と「哀」、「秋」と「飽き」。和歌の世界でも好んで使われた技法だった。現在で言うところのダジャレ。
ふと最近目にした同音異義語がある。「語る」と「騙る(だます)」だ。なにかを話すということは、すなわち人を(または自分を)騙ってるということらしい。
私はおしゃべりが大好き。しゃべるとは語る、語るとは騙ること。 グレーゾーンの理解も苦手で、すーぐ顔にでるから嘘も苦手。そんな私でも、毎日毎日ずーっと、誰かを(または自分を)、騙し続けているらしい。 無意識に「語る」、または「騙る」とは、これまた演技の必要もないから、ポーカーフェイスができない私にもどうやらできてしまっているらしい。
長女れーちゃん(3歳)も、作り話や嘘を言うようになってきた。たとえば、行ってもいないのに「トイレ行った」など。まあ、当然すーぐにバレます。嘘は良くないこと・・・・そうかもしれない。が、子供が嘘をつくようになるのは悪いこととは思えない。だってこれは発達や成長の証だから。
自発的に嘘をつくようになり、物を語り(騙り)、人と自分を騙し、それを繰り返すことによってのみ、自分の中での善悪の基準が形成される気がする。
映画やお芝居、あれって演技という名の「騙り」だ。わざわざお金を払い、足を運び、人は騙されに行く。役者さんだって演技という「騙り」を楽しんでいるだろう。
人間ってのは、騙すのも騙されるのも好きな動物なのかも。