打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

日本語に不向きな性格

  日本語ってのは不思議かつ不可解な言語だ。外国語として学ぶにはもちろんのこと、母語を日本語とする私にもとても難しい。これって性格も関係していると思う。

 

文化的背景の差異が、言語学習を難しくしてるのは自明の理。私はそこよりも、個々の性格・性質が言語学習に及ぼすものについて語りたい。

 

私は昔から「空気読めない」だの「ストレートな球の受け取り方・投げ方しかしない」「白黒はっきりさせたがる」だの言われてきております。

  • 空気を読む(書かれていないものを読み取る)
  • 婉曲表現(書かれているものを違った解釈をする、または違う言い方をする。場合によっては嘘をつく)
  • グレーゾーンに残しておく

 

このどれも、私が非常に苦手なことです!!

 

人間ってのは多かれ少なかれ、無意識にまたは意識的に嘘をついています。

 

日本人ってのは古のころから、直接的な表現を避けてきた。平安貴族の短歌なんて婉曲表現オンパレード。もはや何を言ってるのか理解できない。手術場にあんな曖昧な語り方するやついたら、医療事故続出だと思う。

 

医療事故を心配する必要がなかった暇で金持ちな貴族たちは、「あの御方はこんなこと思ってるのかしら」「いや、そんなことないんじゃないかしら」なんて想像して、誤差を作り、騙されたり騙したりすることを愉しんでいたように思える。

 

医療事故ならぬ誤解やいじめを心配しなくてはいけなかった私は、騙すことも騙されることも楽しめていない・・・日本人たる私が日本語が苦手なのはそのためなんじゃないか。

 

裏を読む、とかすんごく苦手なんです。直接的に表現されていないものの意図を読み取るって高度な技術がいること。この国に生まれ育った多くの人が自然に行っていることで、自然すぎて、わざわざ教え込んでくれる師もいないまま私はうん十年生きてきてしまった。

 

 

「言葉」という漢字にも、日本人が言語をどう捉えているのか見える気がする。

 

「葉」を喋るって、なんだ?

 

言葉ってのは葉っぱみたい?

葉っぱと聞いて、貴方は何を思いますか?

 

葉っぱには表面と裏面があって、母なる木の一部であるけれども、匂い・色・素材など木を代表するような性質は全く持ち合わせていない。

 

言葉=人が言ったこと、発言者・表現者=木

 

と考えるならば、言葉がその人自体を表してるなんて考えるのは結構おバカなのではないか?なんて考えたり。

 

かの英雄ユリウス・カエサルは「文は人なり」と言った。確かにそうだ。「文は人なり」でも「言葉は人たりぬ」ってことでしょうか。

 

日本人ってのは、言葉を葉っぱのように扱っているのだろうか。固くも柔らかくもなく、表と裏があり、季節ごとに色を、質感を変えて行く。環境によって、だれが葉っぱをキャッチするかによって、まるで解釈のされ方が異なってくる。

 

日本語に不向きな私に、誰か効果的な空気の読み方を教えてください(´;ω;`) 振り返ると、幼少期の私がいじめられっこだったのは、ここにも要因があるのかも。