打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

脱☆良妻賢母のススメ➅ 「人のための」の我慢をやめよう

社会の中で生きていくにはある程度のことを我慢する必要もあります。今日は「その我慢は本当に必要?」ということについて。

 

誰も好き好んで我慢はしません。ドMを除く。

私の個人的な考えでは、「今この我慢をすれば行く行くは報われる(我慢の先取り)」「これは自分が望んでする我慢」という我慢以外はしない方が吉と思ってます。そう、将来の我慢量を減らすために、将来の楽しいことのためであれば納得して我慢できます。

 

辛い受験勉強でも、楽しい高校生活や大学生活を考えると頑張れる。

部活の練習が辛くても試合のことを考えたら頑張れる。 

 

例えばそんな感じ。私は前向きな理由の我慢と分類してます。

 

 

反対に私が嫌いなのは、後ろ向きの我慢や人のための我慢。例えば

「とりあえずその場を丸く収めるための我慢」

「本当は自分は○○をしたかったのに、相手が怒る都面倒くさいから☓☓をすることに合わせた」

など。

 

これは将来の我慢を減らすどころか、増やしてしまう。だって毎回そのやり方で進めていかないといけなくなる。これは我慢の前取りの逆で、単なる先延ばしです。

 

食べに行ったレストランで何か不手際があった時、そこで怒るか我慢するか、みたいな本当に「その場限り」の我慢であれば、グッとこらえて我慢した方が楽なこともあります。嫌ならもうそのお店に行かなきゃ話。

 

でも、仕事仲間、夫婦や親子は「関わらなきゃいい」で済む相手ではないです。こういう相手には「その場しのぎの我慢」はするべきではない、と私は思います。

 

 

「今、私が我慢すれば波風立たないから…」 

いやいや、心の中で波風立ってますよね?そして悶々と考え続け、イライラやモヤモヤが膨らんでいきません?

 

「丸く収まるから…」

『丸く?』夫婦や親子って、『丸く収まる』関係じゃない。誰かと真面目に正面から向き合ったら、必ず何かしらあります。『丸く』済まそう、なんて本気で渡り合ってるとは私は思えない。人と真剣に向き合うってのは、ある程度自分も相手もズタズタになる。そんなこともある。

 

 

妻が科学的に辛いのは当然なワンオペ育児を必死でやってるのに理解を示さず労りもしなかった夫が、熟年離婚されたり。

 

欲しいの物を買い与えれば子供が黙るから、と買い与え続けてコントロール不可な子供になったり。

 

「あなたのために○○を我慢して、子育てしたのよ!」とか押し付けがましいことを言う親が、「そんなこと頼んでないし!」と子供から嫌われたり。

 

 

 

人のために我慢してばかりだと、自分が本当は何をしたかったのか、どう生きたかったのか、がわからなくなる。

 

人のためって言って我慢してると、「良い人」に見られるから、良い人って思われたいときはやっちゃいがち。でもそれじゃ「都合の良い人」。

 

得てして「人のための我慢」をして生きてる人は、この手の我慢をしない人に対してものすごーーーーくイライラしてる。

「なんで私は、俺はこんなに我慢してるのに!あいつはなんて勝手な奴だ!」

と。

 

自分も○○を我慢してるんだから、お前もそうしろ、なんてただの押し付け。

 

お酒飲みたきゃ飲めばいいし、家事をサボりたいならサボればいい。

 

 

その「勝手」に見える人々が全く我慢をしてない、と思ってるんでしょうか?

 

「勝手」に見える人々は、散々人から余計なことを言われます。本人からも、噂話でも。その誹謗中傷には耐えてるんですよ!

 

勝手

ワガママ

協調性がない(←小学生の通信簿でこれ、書かれました)

人のことを考えない

 

例え「勝手」な人でも、人を傷つけていない限り悪い人とは思えない。

 

 

私は協調性はないし、ワガママだし、勝手な人かもしれません。ただ意図的に人を傷つけたりしません。

 

自分に正直に生きていたら、それは「ワガママ」ってことですよね?自分の望む道が、たまたま周りに期待されてるものと一致してたら、「あいつは勝手だ」なんて言われません。それが不一致で、それでも己の望む道を行くと、期待外れなことをすると「勝手な人」と言われます。

 

そんな批評をしている人のほうがよっぽど勝手でしょ!!と思う。

 

自分の真の望みに正直であり続けようとすると「勝手」と批判されたり、ワガママと言われたり。「何も悪いことはしていない」「恥じるようなことはしていない」と、挫けそうになりながらも、私は自分に正直であり続けて生きて来たと思います。なんせ私は打たれ弱いママ。ママになる前からも、打たれ弱かった。

 

「ワガママ」とか言われる時期に耐えて、望むものを得て、認められて…それを繰り返してる気がする。

 

打たれ弱い性格だから、この手の悪口にはかなり傷つきますが、それでもこれを耐えることは前向きな我慢だ、とやってきました。

 

おかげで私は断言できます。

 

例え時間を巻き戻せたとしても、何回それがあっても、私は今まで歩いて来た道と同じ道を歩むであろう。

 

と。

 

知っていたらもう一度はやりたくない時代とありますが、人生の分岐点では結局毎回同じ選択をしてただろうな、と思う。

 

 

こう断言できる私は幸せだと思う。辛い時代があっても、「これで良かったんだ」と思えます。

 

親になると我慢しなきゃならないことは増える。「子供のため」って凄く大事なんだけど、自分ができる範囲でやるってのが大事だと思う。他の親が同じ我慢をしてないからってイライラするくらいなら、その我慢は辞める方が親にも子供にも良いと思います。

 

子供のためでもあって、自分のためでもある我慢ならそれでいいと思う。自分を殺してまでする我慢なら辞めないと辛い。そんなの長続きしない。

理想の母親像の呪いから自由になれず、自分自身まで殺してしまう。

 

人のためにしてる無理な我慢、ありませんか?

それって「良い人」に見られたいからですか?

20年後の自分が「これで良かったんだ」と思えそうですか?

自分を主語にして、Iメッセージで生きてますか?

 

我慢を先に済ませるか、その場しのぎの我慢で先延ばしにするか。人生における総我慢量って、同じなんじゃないかな。

 

自分の心の声をもっと聞いて、自分に正直に行きたい。

そうやって生きてて批判されても一々傷つかないくらいの打たれ強さが欲しい…そんなことを思う夜です。