打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

平和とは無か?有か?

昭和の終わりに生まれた私は、物心つくと平成時代になっており、バブルも崩壊しており、毎年お年玉総額が減っていく、ゆとり世代の走りです。

 

生きている間、ほぼずっと平成だった。「平和が成る」と書く平成。私の目には、平成って昭和の残務処理の時代と映っていた。

 

平成の終わりに、「平和ってなんだろう?」を考える。

 

不幸自慢、とかではなく、「ああー平和だなぁ…」って、心の底から感じたことは、私の人生上ありませんでした。極めてせっかちな江戸っ子である私は、いつもセカセカしてた。

幼少期は「勉強しなきゃ」、社会人になってからは「働かなきゃ」、母になってからは「子育てしなきゃ」。いつも「空白の時間」を埋めようとしていた。物理的な拘束時間うんぬんではなく、精神的にいつも脳みそが「次は○○しなきゃ」「△△もしなきゃ」「そのためには効率的にやらなきゃ」って、忙しかった。

 

はて、私ってばなんでそんなにいつも「忙しくしていたのだろう?」と、疑問に思った。

 

やらなきゃならない事が山積みで、それを考えちゃう、って誰にでも起こりうる事態。私の場合は「次にやるべきこと」を常に探していたんだ。わざと忙しくしていた。きっと、そうしたら、「無」の時間、「無」の自分と向き合わずに済むから、それこそ「無」意識でそうしていたんだと思う。

 

「無」の自分って、結構しょうもない。無能だし、無神経だし、無駄やるし、無意味なことで悩むし、無効だし、無責任だし、無知で、無鉄砲で、無名だし、無用。そんな自分がいるなんて、知りたくない・見たくないから、代わりに他のものを見て、やって逃げてきた。

 

タスクを何かこなしていれば、「アイツは頑張ってる奴!」って思われやすい。安直だけど、そう思ってたんだよね。

 

 

果たして本当に、目に見えやすいタスクをしいる人だけが頑張ってるのか?誰にそう思われたかったのか?

 

幼少期には、当然、世界のすべてとニアリーイコールである親に、「私は良い子でしょ?!」と思って欲しかった。

 

令和を迎え、30 も過ぎた今、親軸で生きる必要はもうないのだ。親のことを大事にすることと、大事に思うことと、親軸で生きることは違う。

 

これに気づいて、「自分軸で生きる罪悪感」を持たないことに30年かかった。「平」担ではなかった平成時代。

 

平和ってなんだろう?

無知で無能で無駄な自分と向き合うには、平和ではいられない。が、それから目を背けるためにセカセカと忙しくすることも平和とは言えない。

 

平和って、自分の心の中にあるのではなく、人と人のつながり、物と人のつながりの中にしか存在しないのかもしれない。

 

 

平成さん。「無」と向き合うのが怖い私に、逃げの選択肢をくれてありがとう。

 

令和さん。やっと私は「無」の私に向き合う気になったから、そのチャンスを沢山ください。