打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

「社会が変われば良い」と訴える心情

最近は、インターネットの普及により、誰でもいつでも社会運動を始められて、広がりやすくなっている。

 

良いな、と感じる社会運動もあれば、違和感を覚えるものもある。気持ちはわからないでもないが、たとえば、以下の運動にはどうも違和感を拭えないのです。

 

  • 足が痛いから、女性にハイヒールの強要を辞めて欲しい
  • 男性の育休を義務化して欲しい
  • キャラ弁を禁止にして欲しい

 

私の違和感の理由は、これらの訴えの共通項は「誰か、自分以外の偉い人がこれらのルールを決めてください。」という心理が潜んでいる気がするから。

 

誰が決めた訳でもない、明記もされない、いわゆる不文律的のルールは沢山あります。不文律だから、罰だって特にはない。

 

にも関わらず、自分たちを勝手に罰しているような罪悪感を持つこともある。母親という生き物には、それが妙に多いかもしれない。(母乳神話3歳児神話、○○神話、私はもう聞き飽きています)

 

足が痛くてハイヒールが履けない女性もいるし、なかなか育休を取れない男性もいるし、キャラ弁を作るのにネタがなくなって困ってる親御さんもいるでしょう。

 

それぞれの気持ち、わかります。が、義務化・ルール化する必要があるのか?

 

ルール化・義務化しなければ、ハイヒールから解放されないのか。男性の育休は取れないのか。得意でもないキャラ弁を作り続けなければならないのか。

 

そんな事はない。ハイヒールを履かない仕事もこの世にあるし、義務じゃなくても育休を取る男性はいるし、キャラ弁を作らない家庭だってある。

 

結局は、自分の選択の問題。

 

ハイヒールを履かない仕事を選べば良いし、育休を取ればよいし、キャラ弁を作らなきゃよいわけです。

 

育休に関しては、会社によっては左遷されたり不条理な転勤を命じられたりする結構大きな不利益もあって、自分の意志だけではどうにもならないこともありますが、私の嘆きは「義務化しないと多数派は育休を取れないのか…」という勇気と自主性のなさです。

 

(個人的には、主人が育休を取ったことは、とてもありがたかった。主人の会社でも育休を取る男性は稀で、義務化なんてされてない。これはあくまで私達夫婦協議の末の選択だった。)

 

人からなんと言われようと、私は絶対にキャラ弁は作らないでしょう。「手の込んだお弁当じゃなきゃ愛情がない」なんて言う人は、愛の定義が狭くて乏しくて可哀想に思える位、キャラ弁はどうでもいいです。私の母はキャラ弁なんて作ったことはないし、手抜きの日もあったけど、しっかりとそこに愛情はあったのだ。好き嫌いが多かった子供時代、私にとっては、キャラ弁がどうか、色とりどりかどうか、よりも「自分が美味しく食べれるもの」が入ってることが大事だった。

 

じゃあなぜ「キャラ弁を禁止にしてほしい」みたいな声が出てくるのか。それは子供からではなく、周囲の大人からの同調圧力に耐えきれなくなっているからではないか。

 

その理由を私は、以下と推測する。

  • 自分の選択なのに、その理由を他者に転嫁できるから(ルール化する、義務化を要請する)
  • 自分と同じ考えを持つ人を増やすことにより、「みんながやってるし」と言い訳できるようになるから(自分の考えを多数派化する)

 

結局、自分の選択に責任を持ちたくないのでは?

 

自分の考えが社会の多数派に属していたら楽でしょう。何も考えなくても、批判もされないし、「空気読める」「協調性がある」と思ってもらえる。

 

果たしてそれ(他者の評価)がそんなに大事なことなのか?

 

男性の育休義務化運動にしろ、ハイヒール禁止にしろ、「なんとか自分の意見を多数派に持っていく」ことを念頭に置いてる様に見える。

 

多数派になることが、それほど大事なのか?生まれ育った家で、学校で、少数派で有り続けた私は、多数派に回ろうと自分を曲げたこともなければ周りを自分シンパにしようと布教したこともない。(いずれにせよ、成功してはいない。ま、それが学校が好きではなかった理由かも

 

「この社会のルールはおかしい!」

 

そういうルールは沢山あります。何をどうおかしいと思って反発するのか、長い物に巻かれるのか、個人の意思決定に委ねられている。

 

母親が暗黙の了解のようにワンオペ育児になることは、確かに好ましいこととは言えないが、それをどう解決するのか?は人それぞれではないのか?育休を一週間だけ取るよりも、3年間定時に帰って来る方が好ましいかもしれない。

 

とにかく自分が多数派になること、自分の考えを多数化すること、に必死になっている人には危険信号を送りたい。

 

その活動や発想は、非常に危ういということを。時代を経て、世の中が変われば、ルールや「何が多数派なのか」は変化する。いくら頑張って、己の考えを多数派化したところで、いつ何時それが覆されるのかは分からない。

 

「今の社会はおかしい!」と気づいたり、声を上げることは大事なこと。が、なぜその声をあげたのか?はよくよく考える必要がある。

 

社会の中で生きている以上、ある程度社会のルールに沿って生きる必要があります。ルールは人間が作る物で、それに誤りがあったり、ルール自体が時代に合わなくなることもあります。

 

義務化して、多数派がハイヒールを辞めれば、多数派が育休を取れば、市民権が得られるのでしょうか?

 

多数派でなくても誰しも市民権はあるし、少数派だからといって揶揄するのもおかしい。少数派の人間はいじめのターゲットにされやすいが、子供時代だけではなく、社会人になって何歳になってもこの構図が続いているのが、成長しない社会だと感じる。

 

 

人の意見は気になります。気になるけども、自分がどんな行動を取るのか、は自分の選択であり、責任も自分にある。

 

人に揶揄されるから、無難だから、自分の意思とは反しても多数派の意見を選ぶのか。人になんと言われようと、自分の意思や信念を貫くのか

 

人生は決断の連続。小さな決断をして、その責任を取る。それを積み重ねてこそ、大きな決断もできるのではないか。

 

秩序はあれど、精神の不自由度の高い日本という国がもう少し変わるには、「多様性」を高めるには、こういう意識改革が必要だと思う。

 

日々の小さな一歩。、世間という得体の知れないものではなく、小さな一歩の積み重ねが、自分を作って行くのだ、と娘たちにもしっかり教えていきたい。