お花見の季節ですね。毎年春に咲く、日本人なら愛してやまない桜。
家族でお花見をしている写真が SNS でも沢山見かけられる。そんな中、世の、人の、そして自分の偏見がしかとそこにあることに気づいたのです。
桜を、一枚の写真によって気づいたのです。自分の知らない自分に。
そんな自分に、みなさんは会えていますか?
桜の下でママと子供が戯れる姿。なんとも美しく微笑ましい風景です。
「ご主人素敵な写真撮るね!」
というその写真に対するコメントを発見。
私が思ったのは、「ご主人が撮ったとは限らないのでは?」ということ。友人や自分の姉妹、夫以外の相手と花見には行くかもしれない。
「あら、今日お子さんは?」と母親に聞いてしまう人が多々いるのは、「子供の世話は母親がするもの」という先入観があるから。
「ご主人が撮ったのね。」と言ってしまうのは、ママと子供と一緒にいるのはきっとパパだろうという先入観があるから。
我が身一つの春にはあらねど。
子持ちの私が単身で出歩いてるときに「お子さんは?」って言われるのは私としては結構嫌だった。
写真の件にしても、お子さんは?にしても、言ってる方は悪気はゼロなことはわかっている。
世の人に、こう言うこと言うのをやめさせたい!なんて思ってないし、たとえ思ってても無理。
私がその一つの写真から気づいたことは、この3つ。
- 無意識に自分にとっては「常識」である偏見によって、どこかの誰かは傷ついているかもしれない
- 気づいていないだけで、私の中にも数しれない偏見か存在している
- むやみやたらに「悪気ないんだけど的」余計な発言はしない方が吉
この国の母親業って、結構な社会的プレッシャーや同調圧力、母性神話も手伝って、精神的にはハードな部分も多いです。1件1件は大したことはない、って図太くスルーできても、これを何十回何百回何千回と耳にしたらどうでしょう。
いくらタフな人でも堪えます。打たれ弱い私はすぐに堪えます。
「悪気ないんたけど」発言は、対母親に限らない。数多の人に対して、あまり良いものではないかもしれない。
悪気がないところにこそ、自分が認識すらできていない思想の塊が見える。
たとえオンラインであっても、何かしらの情報と接して、それを深堀りするって大事だなぁ。自分の知らない自分に出会える。
みなさんは、知らない自分に出会えてますか?