打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

英語の弱点:味気なさ

世界の公用語とされる英語。果たして英語は万能なのか。

英語の弱点は、「味気なさ」だと思う。

 

正確さ・再現性が求められる科学の領域では、英語は適切だと思う。科学では、多くの場合一つの答えに辿り着く。一つの目標に向かっている場合は、挑戦人数も多く(下手な鉄砲数撃ちゃ当たる…かも)、情報共有できてる方が無駄がない。

 

が、芸術の世界では、そうでもない。求める答えは決して一つではありません。百人居たら百人の作品がある。同じ物しか創造されないのであれば、それは芸術ではない。

 

私が留学したのは 17歳 の夏です。それまでは、ただの公立高校生。その微量な英語力でも、「英語って味気ない」と感じていた。

 

言語の味気が出る源は、以下だと思う。それぞれについて私なりに書いてみた。  

 

  1. 意味の曖昧さ
  2. アンニュイな音

 

1. 意味の曖昧さ

高校の現国の授業で出会った俵万智さんの詩を読み、生まれて初めて、英語の味気なさを実感した。

風の坂道を行く

(英語訳 Going down the windy slope)

 

なんだか、英訳版は、とても味気なく感じませんか?

 

風の坂道を行く

 

風の通り道、風を呼ぶ坂道、日本語版は柔らかい風を感じる。なんとなく、下り坂なイメージ。

 

Windy slope って言われると、結構強風の吹き荒れる落ち葉が飛び交いそうなイメージ。

 

あくまで私の勝手なイメージだが、その受け取り方さえも個性が現れるのが芸術の世界だと私は思う。

 

主語がない、決まった語順がない、などの理由から、日本語は曖昧になりやすい。曖昧さ、とは受け手が想像しうる範囲が広いということ。

 

その広さゆえに、個性が出る。想像しうる範囲が狭いと、正確性は出るが個性は出にくい。

 

軍隊通信の解釈に、いちいち個性を発揮されていては、誤情報が広まって好ましくはない。

が、芸術の世界では個性こそ正義!ではないか。

 

個性の出し方は、二分類できる。勝手にフランス式、日本式と名付ける。

  • ①直接表現 - フランス式
  • ②婉曲表現 - 日本式

 

 

①直接表現-フランス式

フランス人は、生まれてから死ぬまで「個性が正義」「個性を表現しろ」と教育されるそうです。

 

フランスでは小学生時代から、詩を朗読するのすら、感情をこめて自分なりに表現することが求められるそうな。 「無個性でいろ!」という日本式は辛いが、フランス式も中々厳しい。

 

ガンガン個性派がよいのか、個性を抑える方がよいのか、難しいもの。

 

②婉曲表現 - 日本式

日本語は内に秘める個性。個性を直接表現しない所に味がある。百人一首に出てくる恋の歌には、「あなたが好き」と直接表現されることはない。「好き」という言葉すら存在しないのでは?、と思うほど。

 

恋文の定番フレーズ

「我が袖は露に濡れつつ」。

婉曲表現すぎて、一部の西洋人には好意が伝わらないレベル。「袖が濡れてるなら着替えれば?」と言われかねない。

 

袖が濡れる→泣いてる→私はあなたを思っています。それも涙が出るほど。

 

 

この連想ゲームは、想像力がない人たちには無理ゲー。(日本では、この想像力がない人たちを KY と呼んだり。)

 

「相手は何を言いたかったのかしら?」「相手はどんな風に受け取るかしら?」これが曖昧さが生む風雅や味だと思う。

 

まあ、私は正真正銘の日本人なんだけど、曖昧なものの解釈・忖度は昔から苦手。私は英語を習得する前から、日本的文化への適性は低かったことは隠しません。古典は好きなのに。

 

2. アンニュイな音

世界の名作は、各国で翻訳されています。同じことを意味するのに、音の響きが言語毎にかなり異なる。

 

たとえば、ダンテの「神曲

  • イタリア語: La comedia divina (ラ コメディア ディヴィーナ)
  • フランス語: la comedie divine(ラ コメディ ディヴィーン)
  • 英語: Divine comedy(ディヴァイン コメディ)

 

なんとなく、英語が一番味気ないのが伝わるでしょうか?

 

フランス語、イタリア語に比べて音数が極端に減っている英語。少ない音節数で済ませられるのは、情報伝達には便利。が、その分、受け手が音の中身を想像する時間も要素も少ない。

 

曖昧な言語では、内容を伝えるのに必要な音数が多い。たとえば、数年前に流行った「アナと雪の女王」のテーマソングもそうだ。

 

英語:let it go (3回口を開けばOK)

日本語:ありのままの姿 見せるのよ(文字数、音数が圧倒的に増える)

 

※番外編

曖昧な言語でも、内容伝達に必要な音数が少なくて済む例外もある。使用頻度が高いフレーズは、音数が少ない。

 

例えば「愛してる」

フランス語:je t'ame(ジュテーム)

イタリア語:ti amo (ティアーモ)

ドイツ語:Ich liebe dich(イッヒ リーベ ディッヒ)

 

ラテン系男性が「愛している」としょっちゅう言っているために、こんなに少ない音節数でも「愛している」と表現できるのか。

 

イタリア人友人が、テレビ越しのサッカー観戦中にゴールした選手に向かって「ティアーモ!!」と絶叫していたのを思い出した。

 

打って変わってドイツ語。ドイツ語で「愛してる」と伝えるのに、音数も開口回数も多い。その位、意を決して伝えるもの、というゲルマン人の気概の現れか。 

 

「愛してる」を「月がキレイですね」と訳した夏目漱石の独特なセンスも日本人ならではかも。

 

 

まとめ

決して英語は万能ではありません。文化に優劣がないと同じ様に、言語に優劣もありません。

適性は各言語によって異なり、その言語で学べる能力も深さも異なる。

 

適材適所、人それぞれの個性も全くそれと同じじゃないか。

 

英語だからって、崇拝する必要はない。英語ネイティブだから凄い!とか思う必要はない。どんな言語でも、くだらん下ネタは話されてるし、見たくもない下劣な落書きが公衆トイレに書いてあったりするのだ。

 

人の「凄さ」は、どの国に生まれたか、どの言語を話せるのか、では測れない。

 

英語話せない!と自分を卑下することもないし、だからと言って、焦って英才教育しなくてもいい。 

 

結局大事なのは、「曇りなき眼」を持つことだ、…と自分自身に言い聞かせる。