打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

ポジティブ夫と激ネガティブ妻

あなたはポジティブ思考ですか?ネガティブ思考ですか?

 

先日とある会話から、私は超ネガティブ思考で、主人は超ポジティブ思考の人間だ、と確定的にわかった。

 

「自分ってポジティブ?ネガティブ?どっちなんだろう?」と思ったそこの貴方。とある質問に答えたら、それがハッキリすると思います。

 

 

 

私のネガティブ思考が確定的になった会話とは、とある映画の感想話。

 

その映画とは、リメンバー・ミーというディズニー映画。複数回以上映画館に見に行ったほど、大好きな映画。

 

リメンバー・ミーの世界観では、「死者の国」が存在している。死んだ人間は肉部分は失うが、骨人間として、死者の国で生きていくというシステム。

 

「死者の国ってあったらどう思う?」

 

映画の感想を夫婦で語りながら、夫婦で正反対の答えが出てきた。

 

主人:なんか楽しそうじゃん♪

 

とのこと。その心は…

 

いかんせん、既に死んでる人たちなので、様々な心配が不要。骨を分解して楽器を叩いてみたり、何メートル落下しても大丈夫!バラバラになった骨をかき集めて骨人間自分を再編成したり。 

さすがはディズニー映画。テーマパークのように楽しそうな雰囲気の死者の国に、主人は惹かれた様子。

 

翻って、「もし死者の国があったら?」の質問の私の答えは…

 

私:え、ヤダ!生きてる間に「アイツ嫌だ!」と思ってた奴にもまた会わないといけない、とか、「死んでまであの人に頭が上がらない」とか嫌だよ。一旦精算したい。

 

映画の中では、死んだ家族たちは、死者の国の中でも家族として仲良く暮らしています。一族の長のおばあさんイメルダ・リヴェラは、ものすごいリーダー。威厳もある。

 

その義理の息子やら、甥っ子やらは、死者になろうとも、長老イメルダに逆らえない。

 

リヴェラの家族は、物凄く絆が強い家族で、良い家族であることは認める。長老であるイメルダのおかげで、一家は生き延びたしもちろんそれの尊敬もある。

 

が、私には「死んでまであの人に頭が上がらない」とか、自分の方がいつまでも弱者っていうのは耐えられない気がした。

 

 

20年近く前に死んだ祖母の事を思うと、死者の国はあって欲しい。話せるものなら、祖母ともう一度話もしたいと思う。

 

けれど、私自身は今生の優劣、目上目下、関係性のねじれ、を死んでまで引きずるのは嫌だ!一度ご破産にしてくれ!

 

と心底思う。

 

 

 

主人はポジティブ思考、私は根の根までネガティブ思考ということがわかった会話だった。

 

夫婦で、発想が両極端に違うなコレ。

 

 

この話をとある友人Hに話したら、「俺は死者の国があったら楽しいと思う」とのこと。その彼は私のネガティブっぷりを、ゲラゲラと笑っていた。ネガティブも極めるとネタになるのか。

 

 

誰だって、ネガティブな思い出や上手く行かなかった人間関係、苦手な人もいるのに、なぜ友人Hは「楽しそう」と思えるのか。非常に気になったので、聞いてみた。その理由は…

 

「死者の国に行ったら、みんな良い性格になってそうじゃん」

 

 

!!!!

 

 

これぞ、ポジティブ思考だ!!!

 

 

ネガティブな私は、性格悪い人とか、相性が悪い相手は、たとえ死んだとしても自分に合わないままなのだろうと仮定した。

 

人間というのは、情報が足りない状態で何かの選択を迫られることが多い。

 

たとえば、天気予報を知らないと着る服選びにも迷うし、どんなメニューがあるのか知らなければ何が起こるのか想定しなければならない。

 

 

情報が足りない状態で選択せねばならない時、人間は仮定する。自前の知識と経験を元に、仮定する。

 

今日はお天気かな、

アメリカのご飯は量はこの位多いかな、

この料理には20分かかるかな、

○○さんは今日生理で機嫌が悪いかな、

 

 

毎日、色んな仮定と想像をしている。

 

マイナス思考の人は、「こうだったら嫌だな」状態を仮定する。

プラス思考の人は、「だったらいいな♪」状態を仮定する。

 

リメンバー・ミーという同じ映画を見て、主人と私の死者の国に対する感想がここまで異なるのは、仮定する内容が異なるからだ。

 

 

「人は見たいと思う現実しか見ていない」

 

ふと、カエサルの名言が頭を過った。

 

例えば、次女ワカメちゃんには、私のネックレスの飾りは大好物の枝豆に空目してた。これって超ポジティブ思考。

ポジティブ思考の人ってのは、自分にとって楽しい勘違いをし続けて楽しく生きているらしい。

 

見たいものしか見ない…

 

え!!じゃあ私って、誰かに頭が上がらなくて辛くて、死んだら一切合切精算したくなるような人間関係が見たいってこと!?!

 

 

嫌!!そんなはずない!!あくまでこれは映画という非現実に対する感想であって…(自らに言い訳しているこの有様)

 

死者の国があるのかどうか、はわかりません。が、ポジティブ思考の人は死んでもポジティブだし、ネガティブ思考の人は死んでもネガティブってことだけは、ハッキリした。

 

たとえ、何度生まれ変わったとしても、私はきっとずっとネガティブだろう。 

 

 

筋金入りのネガティブ。

 

貴方は、ポジティブ?ネガティブ?

[http://www.このポジティブとネガティブの違いは、.com/「半分満たされてる」と捉えるか、「半分欠けている」と捉えるか、の違いのようなものか。:title=「半分満たされてる」と捉える?「半分欠けている」と捉える]?

 

どっちが良い悪いんじゃない。これは個性。私がネガティブでいる為に段取りが上手く行ったことや危機回避できたことは多々ある。

 

私は自分の筋金入りのネガティブさに、ちょっぴり打ちひしがれているだけだ。

 

 

激ネガティブの方、もしいらしたら、色々話して共感したい!

 

激ポジティブの方、人生楽しそうなので、よければやり方やコツを教えてください…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2歳児ワカメがママから逃げる本当の理由

子供に「ママ嫌!」とか「パパがいい!」と言われて拒否されたこと、ありますか?

 

我が家の次女、ワカメちゃんは魔の二歳児。最近はママから逃げることが多い!結構ショック。

たとえば、私が歯磨きやお着替えをしようとすると、

 

「パパにやってもらうの」

「パパがいいの!」

 

スタコラさっさっさーと、と逃げる(到底逃げ切れるほど広くはない家なのに)。

 

 

観念して、ママがお着替えやら歯磨きやらをやることになっても

「パパが良かったの」

 

とブツブツ言い続けることが多し。

 

私はね、自慢できることじゃないですが、気が短い。江戸っ子は短気が多いが、私はその中でも格段短気。

 

いくら可愛い娘でも、これじゃあ怒るし凹む。

 

ママの事嫌いになっちゃったのかなー、と哀しんでいたが、違った。一歩引いて観察するとフロイト的現象が起きていることに気づいた。

 

そう、どうやらワカメちゃんはパパに恋しているかのような態度や視線。もしこれが真実であれば、パパの妻にあたる私は恋敵。

 

そりゃー、生きていくためにママが必要とは言え、恋敵なら逃げたくなることもあるでしょう(笑)。

 

今でこそパパとママ、両方同じくらいの時間を過ごしているが、妊娠して、出産して、乳児の間はずっと面倒見てたママがこんな目に合うとは。

やっぱり母親ってのは面倒な本妻みたいな役割らしい

 

きっと複雑な感情に違いない。そう気づいたら、以前ほどは怒りも凹みもしなくなった。まあ、減った、ってだけで、まだ時々イラッとはするけどね。

 

 

そんな風に過ごしていたら、保育園に「胃腸炎と診断されたお子様が居ます」の掲示板が。今回の寒波により、体調崩す人続出!

 

腸炎感染するのも怖いが、もっと嫌なのはその先の家庭内感染。

 

これまで何度もある。子供①→子供②※→最後は私に感染する病気が。※順不同

 

パパLOVEなワカメちゃんが先日、ちょっと怪しい兆候があったので、家庭内感染防止策のため、れーちゃんとワカメちゃんを別々にお風呂に入れることに。

 

お風呂で一緒に遊ぶ姿はかわいいし、二人共楽しそうなのだが、感染防止の方が優先。

 

今まで一気に2人共お風呂だったのに、2回にわけるから、手間が増える。面倒なオペレーション。

 

パパとれーちゃんが入浴中の間、私とワカメちゃんはリビングで待機。

 

この面倒なオペレーションのおかげで、思わぬ母+ワカメちゃんの2人タイムが出現した。

 

その2人タイムの間、ワカメちゃんはママにべったりとくっついて甘えてきた。抱っこしたり、おんぶしたり。

 

本当は甘えたかったんだ。

 

ママよりもパパが好き、とかフロイト的にママが恋敵なんじゃなくて(いや、それもあるけど)、ママにも甘えたかったのが本音だったんだ。

 

 

ワカメちゃんとママと2人だけの時間。こんな時間、いつぶりだったっけ。

 

 

いつもいつも、ママと居る時はお姉ちゃんであるれーちゃんも一緒だ。お姉ちゃんは大好き、パパも大好き、それでも、ママと2人だけになると違った顔になるのか。

 

 

保育園の胃腸炎警告の掲示板にビビりながら、お風呂を2回に分ける面倒なオペレーションをしながら、私は一つの真実を見た。

 

決して、ワカメちゃんはママが嫌になったわけじゃなくて、ママに本当は甘えたかったんだ、と。

 

 

それが分かった後も、「パパがいいの!」攻撃は続いている。だけど、今の私なら、「母親失格かしら…」なんて、私は凹まなくて済む。

 

お姉ちゃんやパパが居る前ではママに甘えにくいのかな。パパが好き過ぎるのか、お姉ちゃんに遠慮してるのか。

 

私はまあ、本妻らしく、余計な心配せずに構えてますか。

 

冬将軍が寒くて寒くて、病気も怖いけど、やっぱり病気という非常事態が教えてくれる事は、必ずある。  

 

あなたが、病気を通ったからこそ、気づいたことってなんですか?

きっと、そこに見抜けなかった真実や大事なことがあるはず。 

 

 

東京、かなり寒くなりました。

皆様も体調ご自愛ください。

 

良ければ我が家の感染防止策もご参考に。

 

 

 

 

 

 

「日本人」になりたい女の子

先日行ったピラティスのクラスで、地元に暮らすイスラエル人のママ、ラエリさん(仮名)と友達になった。

 

ジュエリーを作ったりするアーティストさんで、日本の和紙に感銘を受けて日本の芸術作品に触れるべく来日したとか。3歳の娘さんが一人。

 

その娘さん、ラエリ子ちゃん(仮名)は地元の幼稚園(偶然にも、私が卒園した幼稚園だ)に通っている。

 

ラエリ子ちゃんが毎朝鏡を見ながらつぶやく言葉を聞いた時、3歳という年齢で、他文化で生きることの大変さとその乗り越え方を考えていることが、ひしひしと伝わってきた。

 

ラエリさんは自分が育った欧米文化とは、全く異なる文化の中で、お嬢さんが生きている事に対し、大きな葛藤があるらしい。

 

ラエリさんとしては、自分が育った文化も受け継いで欲しい。

 

そんなママの思いは知らずに、ラエリ子ちゃんは、「日本人になりたい」そうな。

 

どんな遊びをするか、どんな絵本を読むか、どんな姿になるか。とにかく「日本人になりたい」らしい。

 

毎朝、鏡の前に座っては、つぶやくらしい。

 

「あ、私の目、ちょっと日本人っぽくなったかも♪」

 

と。

 

それを聞いて、ラエリ子ちゃんの気持ちを思うと涙が出そうになった。

 

彼女は、この与えられた環境の中で生き残るために「日本人になりたい」と思うようになったのだ。日本という土地に住んでいなければ、決して願わないであろうこと。

 

おそらく見た目からして、白人であることが一目でわかるお顔立ちなのだろう。きっと「外人扱い」されたり、何かとつけて「あの子は違うよね」って言われるのが、きっと、きっと、すごく嫌なんだと思う。

 

東京の下町は、外国人観光客こそ多いが、外国人家族がゴロゴロ居るような土地ではなく、純ジャパが多い。ママは日本語が話せないし、きっとラエリ子ちゃんも大変な想いをしているのだろう。

 

 

ラエリ子ちゃんは、きっと日本で生き残るために「日本人になりたい」のだと思う。

 

イギリスに単身留学をした初期、私も同じことを思っていた。「イギリス人になりたい」と。

 

イギリスに留学した当初、自分が知ってる世界とは違う文化、異なる常識の中で生きることは一筋縄では行かない、とすぐに思い知った。暮らしにくさを感じてはいたものの、現地のイギリス人は辛そうに生活している訳ではなかった。

 

どうやったら、この環境下で、辛くなく生きれるのか。

 

17歳の私が辿り着いた答えは、「極力、現地のイギリス人のように振る舞う」だった。

 

言語力が乏しい初期は、現地の同世代がどんな雑誌を見て、どんなTVを見てるかなんてヒアリングはできなかった。(雑誌名をわかったところで、中身をほとんど理解できなかったと思う)

 

私は、目視できる情報を頼りに自らイギリス人化していった。

 

着る服、歩き方、食べ方、文字の書き方…など。

 

日本に住む3歳のラエリ子ちゃんも、17歳当時の私と同じことをしているのではないか。

 

幼稚園のお友達を見て、読む本も遊びも真似したら、同化していけば自分も暮らしやすくなる。

 

こう思っているのではないか。

 

ヨーロッパ的教育を受けたことがある私とラエリさんは、日本的教育に対する疑問も沢山ある。彼女の言い分は痛いほどわかる。正直に言えば、娘さんに日本に染まり過ぎて欲しくないのだろう。

 

けど、私はラエリ子ちゃんの気持ちも、痛いほどわかる。私もあれほど、「イギリス人のようになりたい」と思ったことがある。それほど愛していたとしても、イギリス国籍がない私は、「よそ者」だった。それが決定的にわかり、打ちひしがれたのは20前後の時だった。

 

いずれそんな展開になるとは、3歳にラエリ子ちゃんが知る由もない。

 

 

ヨーロッパ的教育の良さを娘にも伝えていきたいラエリさん。

日本人になりたいラエリ子ちゃん。

 

現地に馴染めば馴染むほど、お母さんとは違う文化や思想の元に生きることになる。

 

多文化共生とは、簡単じゃない。一言では済まない心の葛藤が、そこにある。

 

「多文化共生」「ダイバーシティ」「寛容な社会」

 

口で言うのは簡単だ。

偉そうに語ってる人に言ってやりたい。「お前、マイノリティー側になってみろ!」と。

 

「多様な人を受け入れま〜す♪」じゃなくて、「受け入れて貰う側」になってみないと、本当のことなんてわからないと思う。

 

真の多文化共生社会に近づくためには、生まれもった文化圏と、育つ文化圏の狭間に立つ人間には葛藤がある、とか、そういう内面的な苦悩が存在する、ということを理解することが、とてもとても大事だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「タダより高いものはない」は真実!!

本にせよ、授業にせよ、お稽古にせよ、基本的に私は勉強が好きです。ここ半年ほどで、いくつかセミナーに行ってみた。

 

その主催者が好きだから行ったもの。

ネットで偶然見かけたもの。

 

色々あった。

 

無料セミナーや格安セミナーでは、「おや?」「おかしいぞ?」と思う展開になる事が多いと気づいた。

 

こういったイベントやセミナーに参加してみて、私が得た、得たくもなかった「教訓」を紹介します。

 

教訓とは、一言で言えば、「時間を大切にね☆」。

 

そう思うようになった経緯は、行ってみたらロクでもなかったセミナー達のおかげです。

 

例えば、「旅行をお得に行ける方法教えます」セミナー。モニター料金で行ける話なのかな、と思ったら、よくよく聞いていくと特定の旅行クラブへのネズミ講だった。

家族旅行にもっとお手頃に行けたらなー、と思ったが、そういう美味しい話はないらしい。

 

他にも、ビジネスのために面白そうなセミナーに行ったら、最初は面白い話だったのが、最後の最後に「〇〇に入会して勉強したら、こんなにいい事があるんですよ〜」という勧誘だった。入会して資格取るまでに100万超えだって。ひぇーーーー!!途中で帰った。

「人手不足だから、ぜひ入って資格取って、うちで働いて♪」って話だった。いやいや、人手不足ならば社員を雇えば済む。なのになぜ、無料セミナーまで開催して入会を促すのか。どう考えても後者のが利益があるから、だと思う。

 

今までの「行かなきゃ良かった」セミナーはこの2つくらいですが、その中にも共通点が沢山あった。

 

「行かなきゃ良かった」セミナー

  • 学ぶことが目的ではなく、入会させることが目的であった
  • 話がつまらない時が多々あった
  • セミナー主催者ではなく、内容に惹かれて行った
  • そこで参加者同士の交流は生まれなかった、または薄かった
  • 無料、または相当低額

 

 

「行って良かった!」セミナーや集まりの共通点:

  • 主催者のことが好きで行った(内容は二の次で、特定の主催者の話を聞きたかった)
  • 他の参加者とも仲良くなれて楽しかった
  • 安くはないが、高すぎもしない
  • 他の参加者も主催者のことが好き(セミナーじゃないけど、ライブなんて最たるもの。ファンはアーティストを愛してるのですよ)

 

 

 

タダより高いものはない。

 

こういうことかーー!!

 

純粋に何かの知識を得ようと行ったはずのセミナーで、よくわからん勧誘をされて不快になる。大した知識にもならない。

 

大学で得た知識は、私はもう相当に忘れてしまっているが、あの時はしっかりと頭に入っていたし、私の中で役立っている知識が沢山ある。高い授業料を払ってこそ、のものか。

 

「安物買いの銭失い」とは言うもの。今回私が失ったのは時間です。

 

もちろん、お金は大事です。無駄遣いしてはいけません。しかし、それ以上に、時間の無駄遣いはもっと悪い。

 

自分が持つお金の量は有限だし、かなり小さい額かもしれない。が、この世全体には溢れるばかりのお金があって、それがいつぞや自分の元に流れてくる可能性はある。大いにある

 

けれど、時間。時間は誰にとっても等しく有限であり、いつか失くした時間が、手元に戻って来ることは、二度とない。今日という日は二度と戻ってこない

 

だから、時間はもっともっと、大切にしないと。

 

 

「主催者のことが大好きで、主催者に会いたい!」という場合以外の無料セミナーには、もう行かないようにする。そう決めた。そしてこのブログ上でも宣言する。

 

「何」を学ぶか、よりも、「誰から」学ぶか、ってことかなー。

 

今思えば、大学の高い授業料も、その「誰」に払っていたのだな。ブツブツ文句を言いながらも、あの時お父さんが学費を負担してくれたことを思い出した。

 

お父さん、あの時はありがとう。

 

父の想像の範囲からは大いに外れ続ける私だが、「誰から学ぶか」がとても大事だ、という事は、しっかりと覚えたよ。

 

もう引退したけど、父も大学の先生であった。どんな気持ちで教壇に立っていたのかなー。なんだかんだ、そういう事は照れて聞けないかもしれないし、向こうも喋ってくれないかもしれない。

 

 

はて、時間を大切に。いつもできてるか、といえば、そうでもない。

 

「時間を大切にできてない」

 

と自分を責めると、それは更に時間の無駄遣い。

 

だから、皆様も、休む時は休んで。たとえ時間無駄遣いしちゃっても、自分を決して責めないでくださいね!

 

明日も皆様に素敵な日が訪れますよう。

自己犠牲で人助けをしてはいけない理由

誰しも、誰かの、何かの役に立ちたいと願う。それが人間の性だと思う。

 

人助け、というのはわかりやすく「お役に立てた」と実感できるものだ。心地よく人助けするためには、自己犠牲をしない範囲に収める必要がある。

 

自分が我慢してまで、身を削ってまで人助けをするのは、決して美談でもないし、心地よくもない。

 

通りすがりの天使に人助けされて、私はこれに気づいた。その背景と、「自己犠牲の人助けをしてはいけない理由」を綴ります。

 

まずは、背景を。

 

「自己犠牲しない範囲で、私ってば人助けできちやった☆」

自画自賛していた数日後、遙かに私の人助けのレベルを上回る天使に、私は助けられた。

 

【私のした人助け:席を譲る】

正直人に自慢するような事ではないが、自己犠牲なしで人助けをした時というのは、非常に清々しい気持ちだ。

 

たとえば、自分が疲れていたり、具合が悪い時に無理をして譲るのは辞めた。「譲らなければいけないのに…」と自分を責めるのも辞めた。そんな相手に席を譲られた方も気まずいだろう。

 

正直に告白すると、人に席を譲ったのは久しぶりだった。最近は疲れて混む電車に乗る事が多いので、とても自分が立ち続けることができなかったからだ。

 

自分がとても快調だった時、一人のお年寄りが見えて、私は「どうぞ」と一言伝えて積を離れた。譲って貰った方はありがたいだろうが、感謝しなければならない相手が視界に居続けるのも中々の圧力になる。だから、私は席を譲る時はいつも、その人の視界からは消える。

 

あんまりしつこくお礼を言われても恥ずかしいしね^^;

程々の距離感って大事。

 

なーんて、私は人に席を譲って、自分は良い気分になっていました。プレゼントをもらう側よりも、贈呈する側の方が実は楽しい、みたいな感情。

 

 

そんなことを思っていたら、その数日後、私の何枚も上をゆく清々しい方に、助けて貰ったのだ。

 

【天使の人助け】

とある平日、私は、紙袋に水筒やらお弁当やらを持ち歩いていた。が、紙袋の底が抜けて中身がどんどん落ちてくるという非常に困った現象に見舞われていた。

 

乗換通路で、「袋破けちゃった…どうしよう…」とあたふたしている中、私の肩をトントン、とする人が。振り返るとそこにはビニール袋を差し出してくれた女性が居た。

 

「あ、ありがとうございます!!」

 

天使が現れた!!と受け取った瞬間、踵を返す様に彼女は去って行った。

 

もう一度お礼を言いたい気持ちだったが、彼女はもうそこにいない。

 

私の困っている様子を見て、ビニール袋を黙って差し出してくれたのだ。おかげで、職場までも無事にたどり着くことが出来た。

 

 

 

この天使も、きっと自己犠牲のない範囲での人助けをしてくれたのだ、と思う。私はとってもとってもとっても助かったのだが、きっと彼女は痛くもかゆくもないのだ、と信じられた。

 

しっかりとしたリュックに、すべての荷物を詰めていたので、ビニール袋を一つ人にあげようと、きっと痛くも痒くもないのだろう。

 

恩着せがましいの真反対。すぐに、颯爽と視界から消えて行ってしまった。

 

【本当の人助けとはなにか。】

 

自分を犠牲にして、自分の能力や持ち物を差し出すのではなく、

 

自分が持っているものを、適切なタイミングで、

 

それを必要な人に差し出す。

 

自分の心の負担のない範囲で。

 

自己犠牲の人助けをしてはいけない理由は、ずばり、自分も相手も不幸にするからです。

 

自己犠牲の家事を辞めたほうがいい理由と近いかな。

 

自分を犠牲にして、誰かを助けるって美談に聞こえるかもしれない。けど、助けられた側って、全然救われないと思う。自分を助けてくれた誰かが、苦しむ姿を見なければならないのだ。 

 

人が苦しむのをみて幸せを感じる人種もいるかもしれないが、それは偽物の幸せだと思う。

 

自己犠牲を含む手助けとは、結局誰のことも心底助けれてはいなくて、「自分ってこんなに良い人なのだ」と言うためだけのものじゃないのか。美談どころか、偽善になってしまう。人助けの天使どころか、人助けの皮をかぶった悪魔だ。

 

助けた側だって「あんたのためにこんなにしてやったのに」と恩着せがましくなるかもしれない。

 

 

 

人を助けたいと思う。その心自体は純粋で、尊重したいもの。人助けのために必要なものは、決してそんな大層なものではない、と気づいた。

 

たかがビニール袋、されどビニール袋が、相手の一日を変えれるのだ。

 

自分の持っているもの、提供できるものが増えれば、人助けの手段は増える。人の役に立てる。が、これは必要条件であって、充分条件ではない。

 

それを、ベストなタイミングで、適切な人に差し出す。人間をどれだけ観察できるか、にかかってくる。

 

ビニール袋の天使の彼女だって、私の紙袋の底が抜けて困っていたのを実によく観察したから、サッと差し出してくれたのだ。

 

助けるためには、人を、愛を持って観察する。

自己犠牲にならないためには、自分を、愛を持って観察する。

 

自分が苦しくても、世間が言う「良い行い」をする。耐える。

 

 

私は声を大にして伝えたい。

 

 

そんなことしなくて、良いんだよ!

 

 

人を助けるならば、自分が苦しくない範囲でやるのが、結局は全員にとって良いことなんだよ!と。

 

献身的に自己犠牲するのは、美談でもなんでもない。人に同じ我慢をし続けて欲しい側の勝手な理論だ。己を消して、己を大事にできない人が、他の人をそれ以上には大事にできないと思う。

 

だから、まずは、自分を大事にしよう。

それから初めて、本当の意味で、周りの人を大事にできる、と私は思う。

 

 

自分を大事にするために、何をしようかなー。何をやめようかなー。

 

 

 

 

 

量子力学的な人たち

印象に残っている名言はありますか?

 

こちらは大学時代、量子力学の授業の時間、アンドリュー・ウィルス教授の名言です。

 

Life is getting harder, or you're just seeing the complexities.

人生が厳しくなって来ている。または、複雑性を見ているだけだ。

 

量子力学なんて自分には縁がないわ〜」という方にもぜひ見ていただきたい。量子力学的、謎の動きをする人々が、この世には存在する、ということを。

 

この授業で量子力学の何を習ったのか、どんな公式があったのか、今や全く思い出せない。されど、ニヤリと笑いながら、教授が言ったセリフは覚えている。

 

量子力学とはそもそもなんなのか、ざっくり説明します。我々が日頃目にしている物理は、視覚で確認できるもの。

 

テニスボールを壁打ちしたら跳ね返ってくる。三秒後には壁から50cmの所に居る。

 

これが普通力学。

 

量子力学でいう対象物体は、原子だの分子だの電子だの、目視できない小さな小さな存在。

 

テニスボール壁打ちの話で言えば、何度壁打ちを繰り返そうとも、ボールが壁をすり抜けて壁の向こう側に行く事はありえない。

 

が、テニスボールではなく、電子だったら、量子物体であれば、あれまあ不思議!壁をすり抜ける可能性がある。これをトンネル効果と呼ぶ。

 

古典物理的にはありえないはずの、すり抜け現象が起きる。これが量子力学の世界です。(量子現象は他にも沢山ありますが、これが一番わかりやすいかな?)

 

この訳のわからなさは、シュレディンガーの猫(物理学者シュレディンガーは、この量子特性を使った実験にて「猫は半分死んでいる」ということを言い出した)の話でもご参考に。

 

量子力学とは知れば知るほど訳のわからん世界です。

 

冒頭の Life is getting harder, or you're just seeing complexities は、正にこれを表す名言だ。

 

物事が難しくなっている様に感じる、それは実に

複雑であるこの世の実態を直視し始めただけである。

 

量子力学をわかった、と言ってる奴は『何も分かっていない』と発言しているのと同じ」

 

なんて、言い放った学者も居る。

 

知れば知るほど摩訶不思議。理解できない現象が、歴然とそこにある。

 

これって、量子力学の世界だけの話ではない!と気づいた。

 

何かを学べば学ぶほど、己が如何に何も知らないかを思い知らされる。

 

色んな人を知れば知るほど、量子力学的な壁のすり抜け、トンネル効果、に近い現象をやってのける人がいる気がする。

 

物凄く倍率が高い何かに当選する人、

「普通そのやり方じゃ突破できないでしょ」という障壁を裏技的に乗り越える人、

壁をくまなく調べてなんとか穴を見つけて向こう側に行く人

 

量子物体じゃなくても、「普通に言ったら無理だろ!」限界を突破する人たち。

 

彼らって量子力学的動きをしてるんじゃないか。

 

見渡せば、神業的愛嬌で生きている次女ワカメちゃんが居たり、何を注意しても「そんな俺もかわいいよね〜♪」と神業的にポジティブな主人がいたり、心までプリンセスになった天使発言をする長女れーちゃんが居たり。

 

大学卒業後、あんなに勉強して楽しんでいた化学からはすっかり離れてしまった。量子力学そのものからは離れたものの、量子力学的な何かに、私はいつも囲まれているのかもしれない。

 

神がかり的な、インスピレーション的な、言葉や時空を超えた何か。(こう言ってると怪しい宗教みたいだ)

 

私はいわゆる「空気読めない」人です。婉曲表現を全く理解できない人が、文字にも表情にも現れない空気なんて読めない。ゆえ、グレーゾーンが多い日本語には不向きな性格だと自認してる。

 

次に空気読めないことでバカにされたら、「量子的になら空気を読めるよ」とか謎の反論をしてみようか。

 

そんな相手こそ、量子力学のトンネル効果を使って上手くスルーしたいところだ。

 

 

蛇足ですか、猫の話を。

 

量子力学の訳のわからなさに煮詰まったとある友人は、飼い猫に「シュレディンガー」と名付けました。その猫は、量子力学を理解を助けてくれることはなく、むしろ泥がついた足で家の壁を器用に歩くというオマケまでくれてた。

 

量子力学的世界では、足跡は残らないし、物体がどこにいるのかなど不確定要素が多い。が、泥付き猫の足跡は、確定的に汚れを残していたし、大家に怒られることは確実でした。

 

飼い猫に「シュレディンガー」と名付ける友人も、なかなか猟奇的、いや、量子力学的と言えよう。

 

マイノリティが生き残るためのツール

「私って説明が上手くなくて、考えてることを言語化するのが苦手なんですよねー」

 

久々に会った友人の雨さん(仮名)が、こんな事を言ってた。仕事仲間とのコミュニケーションが難しいとか。

 

詳しく聞いてみると、雨さんと先方の方と、「ルールや方向性の捉え方」が違うのが見えてきた。

 

この捉え方の違いこそ、説明力の必要性を決める。世の中のマイノリティの人間こそ、強いモチベーションがある、と。

 

 

 

会社組織もサービスも、急にルールら方向性が変更されることがある。

その新しいルールや方向性を、あなたはどう捉えますか?

 

①すんなり受け入れる(または割り切る、ある意味諦める)

②新しい方向性自体の是非を徹底検証し、場合によってはルールを変更しようと努める

 

私の友人の雨さんは①、先方は②のタイプだったようです。

 

雨さんは、すんなりルールや方向転換を受け入れれるタイプなので、②タイプの人が一体どんな説明を求めているのかわからず、「話が通じない!」と感じてたとか。

 

ここまで聞いて、私は思ったのです。①タイプの雨さんは、組織に属する適応能力があるんだなー、凄いなーと。

 

私は、圧倒的に②タイプ。故に、大組織には向いていなかった。「どうせ変えれない事に疑問に思って、上司や同僚と衝突して、なんて要領悪い」と思われたこともあるかもなぁー(遠い目)。

 

②タイプの人をどうしたら説得できるのか、①タイプの雨さんは色々と考えた結果、「自分の説明が下手だからだ」と思ったそうな。

 

自分の脳内を言語化して表現することがあまり得意ではない、と言いつつ、「言語化できなくて、特段困ったことがなかった」とも言ってた。

 

私は言語化できずに困った経験が、苦しんだ経験が山ほどある。なぜ雨さんは、「言語化できなくても特段困らなかった」のか。この差はなんなのか。

 

その理由は、私がマイノリティの人間であったから、だと思う。

 

マジョリティの人間であれば、自分の思いを言語化できずとも、困らない。マジョリティとは、自分と同じ考えの人が沢山居るということ。言葉を介在しなくとも、思いが伝わってるのだ。正に以心伝心。言語化の必要がない。まさに雨さんが言ってたとおり。

 

しかし、マイノリティはそうは行かない。自らと同じ発想の人は少ない、または居ない。言語、という客観的なものを通さなければ、我が想いを伝えることすらできない。

英語力が低かった留学初期は毎日毎日、言語化できない悩みに直面していたが、母語である日本語でも、この悩みはいつもあった。上手く言語化できないために、いじめにも会ったのだと思う。

 

私は末っ子なので、育った家庭内では最年少。子供時代では、年齢が低いほど語彙力も表現力も乏しい。しかも、母曰く、家庭内では私だけが右脳タイプだったらしく、その時点ですでにマイノリティ。

マイノリティ✕最年少という、自分の思いを汲んでくれる人が中々いなかった人が、異国の地に留学したら更に大変だった訳です。どこまで行ってもマイノリティ!(私はそういう巡り合わせなのだ、と今は受け入れてる)

 

「自分の考えを分かってもらえない」と感じるからこそ、説明力や表現力を磨くために頑張るのがマイノリティなのかもしれない。

 

物凄く説明が上手な人は、社会の中ではものすごくマイノリティで、想いをわかってくれる人のために物凄い努力を重ねたのかなー、なんて。(私は言語化への努力をやり過ぎたのか、ストレートすぎる人になって、娘の婉曲表現を理解するのに苦労してたり!)

 

そんなこと考えていたら、池上彰やメンタリストDaigoの顔が頭を過ぎった。説明上手で毒舌な彼らも、それなりの苦労があったに違いない…と。

 

言葉とは、表現力とは、マイノリティの人間が生き残るためのツールだったのかもしれない。「普通の人」ではないから、名だたる作家になったのかもしれない。

 

こんな事を考えていたら、説明上手で嫌な感じの人に出会っても、心の中で優しくなれそうな気がした。

 

深堀りしていくと、心の中で優しく接することができる相手が増えて行く気がして嬉しい。これからも色んなものを深堀りしていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プラットフォーマーの道徳観

昨今、様々な便利サービスがある。

 

ネット予約システム、ネットスーパー、なんちゃらオンデマンド、私もこの科学の進歩と便利さにあやかっております。

 

どんなに便利だとしても、使ってはいけないサービスがある。先日街中で出会ったとある光景を見て、「これだけは絶対に使うべからず」と私が心に決めたものがありました。

 

 

その名はウー〇ー イー〇。

 

食べ物を調理した店舗や会社のスタッフではなく、まるで別人が運ぶデリバリーサービスです。

 

ウー〇ーのロゴを背負った自転車配達員を見かけるのは日常茶飯事。便利そうなサービスだし、いつかは私も使ってみたいな、と思っていたが、もう辞めたくなった。

 

先日見かけた配達員は、煙草を吸いながら自転車で走りながら、スマホをいじっていた。

 

スマホ✕自転車(スタンド無しの手持ち)、

歩き煙草ならぬ自転車煙草、

 

どちらも良いとは言えないもの。それの組み合わせ!!いずれも、罪のない人を巻き込んだ事故や怪我を生む可能性が高い。

 

自分が便利なサービスを使うことで、こんな不道徳かつ人々を危険に晒す人を街中に放出してしまう。こりゃ遺憾!

 

 

もちろん、配達員全員がそんなマナー違反の人ばかりではないでしょう。されど、ウー〇ーイー〇を使うことで、私の知らない誰かに危険が発生するかも。

 

自分一人の便利さと、誰かの命だったら、そりゃ命の方がずっと重い。命より重いものなんてない。

 

歩き煙草や自転車煙草による火傷被害に会いやすいのは小さな子どもたち。我が子がそんな目に合うかと思うと、私はそいつを許せない。

 

便利さを求めて、ここまで科学は進歩してきた。しかし、便利さ以上に大事なもの。命を守るための秩序や倫理観を犠牲にしてはならない、と強く思った。

 

※もちろん、倫理観は大事ですが、命より優先すべきものではない、と私は考えています。忌み嫌う商品やサービスでも、自分の命を助けるものであれば使います

 

 

ずさんな管理で、非倫理的な人物を自転車で走らせても、プラットフォーマーは儲かる、みたいな仕組みも好きじゃない。

 

ネットを使って予約できる民泊も、確かに便利。私も使ったことがあるし、かなり快適でした。メルカリみたいなフリーマーケットアプリもとても便利。

 

今流行りのプラットフォームは、便利である。だから利用者も多い。不特定多数の人が、宿を貸したり、人や食べ物を運んだりする。その不特定多数が誰なのか、どんな人なのか、一企業が把握しきれるはずもない。

 

この世の全ての人は、良い人である。プラットフォーマービジネスは、性善説を前提に成り立っている。

 

されど、この世には悪い人もいる。

 

民泊周りの詐欺師、民泊に来た人に性犯罪した人、子供が欲しくて仕方ない人達に何の科学的根拠もない妊娠米を売りつける人、今回私が見たように煙草自転車の配達員、無害を偽った有害動画をアップロードする人。

 

こういう悪い人たちの出現を防ぐために、全てのプラットフォーマーサービスを停止するのは非現実的ではある。

プラットフォーマーがいなくなっても、悪いを考える人たちは消えない。プラットフォーマーそのものが消えて欲しいとは思わない。私もその恩恵にあやかっているし、ある意味で一番その恩恵を受けていた立場でもあった。

 

プラットフォーマーに消えて欲しいのではない。変わって欲しい。気づいて欲しい。プラットフォーマーにも、私を含むこれらを使う人々にも。

 

私は、プラットフォーマーに、もっと強い倫理観を持ってサービスに携わる人間を管理してほしい。

 

プラットフォーマー社員の多くは、性善説で生きているエリートであり、人を騙して儲ける必要のない程の報酬を得ている。だからこそ、悪い人たちの心理や行動が理解できないのかもしれない。

 

しかし、「自分たちは性善説だったので、悪い人たちの真意に気づきませんでした」では済まされない。その「悪い人たち」を使って自らの利益を手にしているのだから。

 

今まで自分が手にしていた給料は、一体どれくらいが悪い人経由だったのだろう。90%以上は、良い人経由だと思う。私は誰かを騙したことはないが、人知れずどこかで誰かの悪行の手助けしてしまっていなかったのか。

 

安価で雇った人を使って利益を得る。その裏で何が起きるのか、というのは資本主義の暗黒部分。グローバル化とはなんだったのか。便利になった反面より効率的に弱き者たちから搾取できるようになっただけなのではないか…なんて考えてしまう。

 

グローバル化か飽和状態になったら、次は一体どうなるのか。きっとこれから数十年の間にそれを目撃することになる。

 

そこにはどんな世界があるのかしら。

 

 

 

 

 

 

いつまで「お姉さん」?いつから「おばさん」?

皆様、あけましておめでとうございます。

 

この趣味で続けてるブログも 2 年半ほどになる。本当に好きな事を、適当な頻度で徒然書いてるのものを読んでくださる方がいるのはありがたいです。

 

昨年の 12 月 30 日には、「特別でも何でもない日こそが、宝物で大事」と感じました。

 

その 2 日後、翌年の 1 月 1 日の午前中、元旦には筋肉痛に見舞われました。

 

昨日、娘たちを公園に連れて行ったらそこで遊んでた小学生の女の子たちと仲良くなりました。

 

まだ小さいワカメちゃんでも楽しく遊具で遊べる様に手を引いてくれたり、れーちゃんとも一緒に遊んだり。

 

その可愛らしい小学生の女の子たちに言われた。

 

「お姉さんも遊ぼうよ」

 

自分は「お姉さん」なのか「おばさん」なのか。25歳位の時からそれが微妙になっている。

 

なぜならば、子供時代は、友達のお母さんのことは「おばさん」と読んでいたし、子供にしてみれば私は「おばさん」だと思っていた。

 

ゆとり世代である私は30代前半、列記とした「おばさん」だと、認識していた。

 

そんな私が呼ばれたのだ。

 

「お姉さん」

 

と。

 

現役小学生の彼女たち曰く「39歳まではお姉さん」なんだそうな。(彼女のお母様は38歳だそうだ。自分のママを「おばさん」にしないための境界線なのか、優しさを感じる)

 

「お姉さん」扱いされた事は光栄だったが、それによって筋肉痛とともに元旦を迎えるとは思わなんだ。

 

「お姉さん一緒に遊ぼうよ!!」

 

 

若い「お姉さん」である以上、それなりの体力を求められる。

 

30 過ぎて、小学生相手に本気の鬼ごっこ。しかも鬼3人に私一人逃げる。勝ち目なし!!(主人も逃げる役だったはずなのに、どこぞに隠れて難を逃れていた様子、賢い。)

 

 

スケートボード乗ってみて!」

「縄跳びやってみて!」

 

れーちゃんとワカメちゃんに優しくしてくれた彼女たちに色々チャレンジを進められる。

 

小学生用の長さの短い縄跳びでは、二重飛びも上手く飛べず(一回位飛べたかな?)、バランス取るのが難しい不思議なスケートボードに乗ることすらできず、我が身の衰えを知った。

 

所謂、「バカな大人」であった、アッハー!!

 

公園からの帰り道、ベビーカーを押す腕に早速筋肉痛が起き始めていた。

 

 

「お姉さん」扱いされて、小学生と友達になれて、身の衰えを知る、不思議な大晦日。その後には筋肉痛な元旦。

 

自分の中の「お姉さん」と「おばさん」の両方を感じたこの2日間。

 

私はいつまで「お姉さん」なのか、いつから「おばさん」になるのか。

 

私は「お姉さん」を卒業したら、「マダム」になりたいなぁ。アンチエイジングではなく、ウェルエイジングを目指して。

 

体力的には、早く「お姉さん」を卒業したい気持ちも強いかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千枚の思い、10年での変化

先日、結婚記念日のデート(ランチ)に行って来た。久々にフレンチ、マイルのポイントで♪

 

私はデザートでミルフィーユを選んだ。

 

甘くて美味しいミルフィーユを食べていたはずなのに、なぜか漬物の話になった。(というか、私がそう持って行ってしまった)

 

何層にも重なるミルフィーユのパイ生地と、この10年を振り返る。

 

パイ生地が何層にも重なるミルフィーユは、パリパリした食感がとても美味しい。そして、形が崩れやすく美しく食べるのが非常に困難なデザート。初めてのデートであれば、決して選ばないが、ここは結婚〇年目、好きな物を選んだ。

 

フランス料理のメニューを見ながら、私が大学時代、フランス語を勉強していたことを思い出した。

 

昔はそこそこ理解できたのに、今やほぼ全くフランス語を理解できない事が、若干悔やまれる。(言語は使っていないと忘れる、を体現している自分がいる)

 

夫婦で食事しながら、「ミルフィーユという言葉の意味」のうんちくを私が言い出した。

 

ミルフィーユ、はフランス語では「千枚の葉」という意味。パイ生地が何層にも重なる姿が葉の重なりに似ているとか。

蛇足だが、「シュークリーム」も確か「キャベツクリーム」って意味じゃなかったっけ。 

 

フランス人は、食べ物の形を何かに見立てて名称をつけることが多いのかしらん。

 

 

ミルフィーユ、千枚の葉。

 

千枚の〇〇、みたいな表現を食べ物に使うのって、日本語にもあるよね。

 

千枚漬けとか。

 

 

甘くて美味しいミルフィーユを食べながら、酸っぱくて臭う千枚漬けの話をする。

 

 

今年の結婚記念日お祝いランチは、そんな締めくくりだった(笑)

 

 

出会って、付き合って、結婚して、子供が生まれて、その間、間にも色んな事が起きた。すべてがこの十年以下の間の出来事だと思うと、なんとも目まぐるしい人生だ。

 

2019年が、あと一日で終わる。  

2010年代が、あと一日で終わる。

 

6年間のイギリス留学から帰国したのが2010年。帰国してからの10年が、終わろうとしている。

 

私の思っても見なかった未来が、待ち受けていたとは、10年前の私が知る由もない。

 

過去の私に言えることは、

 

「あなたは、あなたのままで大丈夫。今までどおり、後悔しないように生き続ければ、それで良い」

 

予想外の人生になっても、どんな展開になったとしても、後悔しないような選択をし、それに責任を持って生きていく。

 

10年前の私は、そう考えていた。

 

今の私も、ほとんど同じ。

 

予想外の人生になっても、どんな展開になったとしても、後悔しないような選択をし、それに責任と愛を持って生きていく。

 

今の私は、「責任と愛」が必要だと思ってる。そう、この10年の間に「愛」が加わった。

 

この10年の間に起きたすべてのこと、出会った全ての人が居てこそ、こう思えるようになった。全てに感謝したい。

 

こうしてブログを読んでくださる貴方にも、感謝しています。

 

さて、大晦日の明日はどんな風に過ごしたいかしら。

 

たまの豪華なランチは嬉しい。とても嬉しい。 

 

なんでもない日常的な日が、あってこそ、それを嬉しく思える。

 

全く「特別」ではない風に、明日も過ごそうかしら。特別よりも、なんでもない日常こそが、やっぱり本当に大切だから。

 

あなたは、2019年の最後の日を、どんな風に過ごしたいですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病気が教えてくれること(クソガキ!と思ってからが本番)

病気から、何かを学んだことってありますか?

 

3週間ほど前、我が家の娘たちは順番に風邪を感染しあい、しまいには次女ワカメちゃんがインフルエンザに。

 

その時を振り返る。

 

もう、ぐったり。

娘が、じゃなくて、私が。

 

「自分の子供がインフルエンザ」というのは、避けては通れぬ人生のイベントだと思う様にした。

 

子どもが複数人居る家庭では、どうやっても家庭内感染は防げないらしいというのは、これまでの経験からも重々承知していた。

 

が、「保菌者である期間は、解熱しても登園禁止」な病気は初めて。

追記:4年ほど前に長女が手足口病になったことがあったのを、後から思い出した。あれも登園禁止だったの。4年も経つと忘れるのか。

 

れーちゃんは普通の風邪だったので、解熱したら登園OK。ワカメちゃんはインフルなので解熱後もしばらく自宅待機。

 

これ、どうなったか、というと。

 

今までにないほど、「おい、こら、クソガキ!!」って思った日々だった。

 

れーちゃんは先に熱が下がったとたん、ワカメちゃん発熱!

 

これだけでも堪えるが、続きがあって。

 

それぞれの要望があって、それがどれも叶わない感じだった。

 

  • ワカメちゃん:熱下がったんだし、元気なんだから、保育園行きたいのに行けないからゴネる
  • れーちゃん:妹は行かなくて良いのがズルいとゴネる
  • 私:本来なら二人とも元気に行って欲しいのが第一希望だが、そうも行かない。少しでも自分の負担を減らすために、れーちゃんだけでも保育園に行って欲しい

 

登園禁止期間は5日間ほど、丸々1週間インフル保菌者の子供と缶詰。

 

3日目位から、私の精神がめげてくる。

 

解熱したとは言え、外に出かける訳にも行かない。

ワカメちゃんは外に行きたがる。

れーちゃんは行きたくないとごねる。

 

病み上がりの子供ってこんなにワガママになるのか!

 

と思い知った。

 

アレ食べたい、コレ要らない、〇〇したい、☓☓したくない。

 

精神に余裕がなくなってた私は、心の中で叫ぶのです。

 

 

クソガキ…!!!

※心の中で、ですよ。

 

高熱出して寝込んでる間は、可哀想だ、とか変わってあげたいと思ったものの、病み上がりのワガママっぷりを見るとそれも吹っ飛ぶ。

 

病み上がりの子供をこんな風に思うなんて非情なのか。

 

いいえ、子供と接していれば「クソガキ!」と思う場面は出てくる。時には「かわいい」と同時に。

 

「かわいい」と思うか、と子供にイライラしたりするか、は全く別物。

 

「クソガキ!」と思ってからが、親本番。

「この野郎!」と思ってからが、夫婦本番。

 

時として、自分の子供に心底イラっとすることがある。クソガキ!とも思う。

 

 

大丈夫、それでも親失格ではない。

 

それは一生懸命に親をやってる証拠なんじゃないかな。

 

クソガキ!

 

それでもあなた達を愛してる。どんなに「クソガキ」でも、私が「クソババア」になったとしても、それだけは、変わらないよ。

 

病気には、できるだけなりたくないものの、病気は色んな事を学ぶための人生の教材。

 

「自分の子供がインフルエンザ」というのは、避けては通れぬ人生のイベント。そう割り切っても、私の精神の限界はあるので、次回こんな時が来たら、抱え込まずにそこは主人や母、ベビーシッターなど、にもう少し頼るのが吉、ともわかった。

 

ほーら、今回もちゃんと学びがあった。

 

 

あなたは今まで、病気から、どんなことを学びましたか?

 

私は知りたい、どんな学びが、生まれてきているのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新「挨拶しない人」の捉え方

風邪を引いて喉が枯れてしまう。

再びやってしまいました。

 

いつもかなりおしゃべりな私には、声を失うとなんらかの学びがある。例えば、「私っていつも余計な事を喋りすぎてる」とか。

 

今回学んだことは、「挨拶しない人」に対する新しい解釈の仕方。

 

先日、同期会にて、入社したての頃の話になって。私の「おはようございまーす」の声が大きかった話になって。

 

私は、すれ違う同僚が顔見知りでなくても、「お疲れ様です」と挨拶してました。無視されてもめげずに「おはようございます」「お疲れ様です」と言い続けてた。会社が小規模な間は、無視される率も低かったし。

 

されど、会社の規模が大きくなるに連れ、顔見知り率が下がり、無視される率が上回り、負けじと挨拶するのがバカらしくなってしまい辞めてしまった事があります。負けじと続ければ良かった!!

 

年寄りくさいことは言いたくないですが、「挨拶のできない人ってちょっと…」って思ってたわけです。(※これを思ってたのは20代中盤)

 

が、先日声が出せなくなって気づいた。

 

挨拶しようにも、できない状態の人っているんじゃないか?って。

 

マンションのエレベーターで、どなたかとお会いしたら、私はいつも挨拶するようにしています。が、喉が痛くて先日は会釈しかできなかった。

 

これからも、私が挨拶しようとも無視される場面には幾度なく遭遇するでしょう。

 

私は決めた。

 

その時、毎度毎度イライラするでも落胆するでもなく、「あの人は声が枯れてしまっているのかもしれない」と思うことに。

 

無視してくる人の全員が、声が枯れてる確率は限りなく0に近い。が、私がこう捉えることで、私の不快指数が下がることはほぼ100%だ。

 

挨拶したくても、声を出すに出せない状況にいるのかもしれない。そう思うと、「あの人も大変なんだな」と想いを巡らせ、苛立たずに済むかなって。

 

挨拶を無視する人間が、全員そうではない。けど、本当に自分が大事にしたい人が、もし、それに当てはまっていたら?声が枯れて不便な想いをしている相手を、そんなふうに上からジャッジしてしまったら?

 

そりゃまずい。

 

いつどこに、自分の大切になるかもしれない人が現れるかわからない。

 

だから、挨拶を無視されても、いちいち人を判断しないようにしよう…。

 

う〜ん…できるかな。なんか難しそう…

 

いや、挨拶しない人たちを云々じゃなくて、気持ちよく挨拶してくださる方々を大事にしよう。

 

そっちだ!

 

ここまで書いてみて、こんな結論にたどり着いた。書くことはセラピーにもなる、って本当だなぁ。

 

 

自問自答しながら書く。自分が知らない自分が、不思議な答えを返してくる。

 

人間って面白い。

 

いろんな人の脳内も覗いてみたい。

 

 

 

しかし、私ってば年に1-2回、声がでなくなる風邪になる。頻繁すぎやしないか。何か対策法とか、おすすめのセラピーとかあれば教えてください。