打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

量子力学的な人たち

印象に残っている名言はありますか?

 

こちらは大学時代、量子力学の授業の時間、アンドリュー・ウィルス教授の名言です。

 

Life is getting harder, or you're just seeing the complexities.

人生が厳しくなって来ている。または、複雑性を見ているだけだ。

 

量子力学なんて自分には縁がないわ〜」という方にもぜひ見ていただきたい。量子力学的、謎の動きをする人々が、この世には存在する、ということを。

 

この授業で量子力学の何を習ったのか、どんな公式があったのか、今や全く思い出せない。されど、ニヤリと笑いながら、教授が言ったセリフは覚えている。

 

量子力学とはそもそもなんなのか、ざっくり説明します。我々が日頃目にしている物理は、視覚で確認できるもの。

 

テニスボールを壁打ちしたら跳ね返ってくる。三秒後には壁から50cmの所に居る。

 

これが普通力学。

 

量子力学でいう対象物体は、原子だの分子だの電子だの、目視できない小さな小さな存在。

 

テニスボール壁打ちの話で言えば、何度壁打ちを繰り返そうとも、ボールが壁をすり抜けて壁の向こう側に行く事はありえない。

 

が、テニスボールではなく、電子だったら、量子物体であれば、あれまあ不思議!壁をすり抜ける可能性がある。これをトンネル効果と呼ぶ。

 

古典物理的にはありえないはずの、すり抜け現象が起きる。これが量子力学の世界です。(量子現象は他にも沢山ありますが、これが一番わかりやすいかな?)

 

この訳のわからなさは、シュレディンガーの猫(物理学者シュレディンガーは、この量子特性を使った実験にて「猫は半分死んでいる」ということを言い出した)の話でもご参考に。

 

量子力学とは知れば知るほど訳のわからん世界です。

 

冒頭の Life is getting harder, or you're just seeing complexities は、正にこれを表す名言だ。

 

物事が難しくなっている様に感じる、それは実に

複雑であるこの世の実態を直視し始めただけである。

 

量子力学をわかった、と言ってる奴は『何も分かっていない』と発言しているのと同じ」

 

なんて、言い放った学者も居る。

 

知れば知るほど摩訶不思議。理解できない現象が、歴然とそこにある。

 

これって、量子力学の世界だけの話ではない!と気づいた。

 

何かを学べば学ぶほど、己が如何に何も知らないかを思い知らされる。

 

色んな人を知れば知るほど、量子力学的な壁のすり抜け、トンネル効果、に近い現象をやってのける人がいる気がする。

 

物凄く倍率が高い何かに当選する人、

「普通そのやり方じゃ突破できないでしょ」という障壁を裏技的に乗り越える人、

壁をくまなく調べてなんとか穴を見つけて向こう側に行く人

 

量子物体じゃなくても、「普通に言ったら無理だろ!」限界を突破する人たち。

 

彼らって量子力学的動きをしてるんじゃないか。

 

見渡せば、神業的愛嬌で生きている次女ワカメちゃんが居たり、何を注意しても「そんな俺もかわいいよね〜♪」と神業的にポジティブな主人がいたり、心までプリンセスになった天使発言をする長女れーちゃんが居たり。

 

大学卒業後、あんなに勉強して楽しんでいた化学からはすっかり離れてしまった。量子力学そのものからは離れたものの、量子力学的な何かに、私はいつも囲まれているのかもしれない。

 

神がかり的な、インスピレーション的な、言葉や時空を超えた何か。(こう言ってると怪しい宗教みたいだ)

 

私はいわゆる「空気読めない」人です。婉曲表現を全く理解できない人が、文字にも表情にも現れない空気なんて読めない。ゆえ、グレーゾーンが多い日本語には不向きな性格だと自認してる。

 

次に空気読めないことでバカにされたら、「量子的になら空気を読めるよ」とか謎の反論をしてみようか。

 

そんな相手こそ、量子力学のトンネル効果を使って上手くスルーしたいところだ。

 

 

蛇足ですか、猫の話を。

 

量子力学の訳のわからなさに煮詰まったとある友人は、飼い猫に「シュレディンガー」と名付けました。その猫は、量子力学を理解を助けてくれることはなく、むしろ泥がついた足で家の壁を器用に歩くというオマケまでくれてた。

 

量子力学的世界では、足跡は残らないし、物体がどこにいるのかなど不確定要素が多い。が、泥付き猫の足跡は、確定的に汚れを残していたし、大家に怒られることは確実でした。

 

飼い猫に「シュレディンガー」と名付ける友人も、なかなか猟奇的、いや、量子力学的と言えよう。

 

マイノリティが生き残るためのツール

「私って説明が上手くなくて、考えてることを言語化するのが苦手なんですよねー」

 

久々に会った友人の雨さん(仮名)が、こんな事を言ってた。仕事仲間とのコミュニケーションが難しいとか。

 

詳しく聞いてみると、雨さんと先方の方と、「ルールや方向性の捉え方」が違うのが見えてきた。

 

この捉え方の違いこそ、説明力の必要性を決める。世の中のマイノリティの人間こそ、強いモチベーションがある、と。

 

 

 

会社組織もサービスも、急にルールら方向性が変更されることがある。

その新しいルールや方向性を、あなたはどう捉えますか?

 

①すんなり受け入れる(または割り切る、ある意味諦める)

②新しい方向性自体の是非を徹底検証し、場合によってはルールを変更しようと努める

 

私の友人の雨さんは①、先方は②のタイプだったようです。

 

雨さんは、すんなりルールや方向転換を受け入れれるタイプなので、②タイプの人が一体どんな説明を求めているのかわからず、「話が通じない!」と感じてたとか。

 

ここまで聞いて、私は思ったのです。①タイプの雨さんは、組織に属する適応能力があるんだなー、凄いなーと。

 

私は、圧倒的に②タイプ。故に、大組織には向いていなかった。「どうせ変えれない事に疑問に思って、上司や同僚と衝突して、なんて要領悪い」と思われたこともあるかもなぁー(遠い目)。

 

②タイプの人をどうしたら説得できるのか、①タイプの雨さんは色々と考えた結果、「自分の説明が下手だからだ」と思ったそうな。

 

自分の脳内を言語化して表現することがあまり得意ではない、と言いつつ、「言語化できなくて、特段困ったことがなかった」とも言ってた。

 

私は言語化できずに困った経験が、苦しんだ経験が山ほどある。なぜ雨さんは、「言語化できなくても特段困らなかった」のか。この差はなんなのか。

 

その理由は、私がマイノリティの人間であったから、だと思う。

 

マジョリティの人間であれば、自分の思いを言語化できずとも、困らない。マジョリティとは、自分と同じ考えの人が沢山居るということ。言葉を介在しなくとも、思いが伝わってるのだ。正に以心伝心。言語化の必要がない。まさに雨さんが言ってたとおり。

 

しかし、マイノリティはそうは行かない。自らと同じ発想の人は少ない、または居ない。言語、という客観的なものを通さなければ、我が想いを伝えることすらできない。

英語力が低かった留学初期は毎日毎日、言語化できない悩みに直面していたが、母語である日本語でも、この悩みはいつもあった。上手く言語化できないために、いじめにも会ったのだと思う。

 

私は末っ子なので、育った家庭内では最年少。子供時代では、年齢が低いほど語彙力も表現力も乏しい。しかも、母曰く、家庭内では私だけが右脳タイプだったらしく、その時点ですでにマイノリティ。

マイノリティ✕最年少という、自分の思いを汲んでくれる人が中々いなかった人が、異国の地に留学したら更に大変だった訳です。どこまで行ってもマイノリティ!(私はそういう巡り合わせなのだ、と今は受け入れてる)

 

「自分の考えを分かってもらえない」と感じるからこそ、説明力や表現力を磨くために頑張るのがマイノリティなのかもしれない。

 

物凄く説明が上手な人は、社会の中ではものすごくマイノリティで、想いをわかってくれる人のために物凄い努力を重ねたのかなー、なんて。(私は言語化への努力をやり過ぎたのか、ストレートすぎる人になって、娘の婉曲表現を理解するのに苦労してたり!)

 

そんなこと考えていたら、池上彰やメンタリストDaigoの顔が頭を過ぎった。説明上手で毒舌な彼らも、それなりの苦労があったに違いない…と。

 

言葉とは、表現力とは、マイノリティの人間が生き残るためのツールだったのかもしれない。「普通の人」ではないから、名だたる作家になったのかもしれない。

 

こんな事を考えていたら、説明上手で嫌な感じの人に出会っても、心の中で優しくなれそうな気がした。

 

深堀りしていくと、心の中で優しく接することができる相手が増えて行く気がして嬉しい。これからも色んなものを深堀りしていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プラットフォーマーの道徳観

昨今、様々な便利サービスがある。

 

ネット予約システム、ネットスーパー、なんちゃらオンデマンド、私もこの科学の進歩と便利さにあやかっております。

 

どんなに便利だとしても、使ってはいけないサービスがある。先日街中で出会ったとある光景を見て、「これだけは絶対に使うべからず」と私が心に決めたものがありました。

 

 

その名はウー〇ー イー〇。

 

食べ物を調理した店舗や会社のスタッフではなく、まるで別人が運ぶデリバリーサービスです。

 

ウー〇ーのロゴを背負った自転車配達員を見かけるのは日常茶飯事。便利そうなサービスだし、いつかは私も使ってみたいな、と思っていたが、もう辞めたくなった。

 

先日見かけた配達員は、煙草を吸いながら自転車で走りながら、スマホをいじっていた。

 

スマホ✕自転車(スタンド無しの手持ち)、

歩き煙草ならぬ自転車煙草、

 

どちらも良いとは言えないもの。それの組み合わせ!!いずれも、罪のない人を巻き込んだ事故や怪我を生む可能性が高い。

 

自分が便利なサービスを使うことで、こんな不道徳かつ人々を危険に晒す人を街中に放出してしまう。こりゃ遺憾!

 

 

もちろん、配達員全員がそんなマナー違反の人ばかりではないでしょう。されど、ウー〇ーイー〇を使うことで、私の知らない誰かに危険が発生するかも。

 

自分一人の便利さと、誰かの命だったら、そりゃ命の方がずっと重い。命より重いものなんてない。

 

歩き煙草や自転車煙草による火傷被害に会いやすいのは小さな子どもたち。我が子がそんな目に合うかと思うと、私はそいつを許せない。

 

便利さを求めて、ここまで科学は進歩してきた。しかし、便利さ以上に大事なもの。命を守るための秩序や倫理観を犠牲にしてはならない、と強く思った。

 

※もちろん、倫理観は大事ですが、命より優先すべきものではない、と私は考えています。忌み嫌う商品やサービスでも、自分の命を助けるものであれば使います

 

 

ずさんな管理で、非倫理的な人物を自転車で走らせても、プラットフォーマーは儲かる、みたいな仕組みも好きじゃない。

 

ネットを使って予約できる民泊も、確かに便利。私も使ったことがあるし、かなり快適でした。メルカリみたいなフリーマーケットアプリもとても便利。

 

今流行りのプラットフォームは、便利である。だから利用者も多い。不特定多数の人が、宿を貸したり、人や食べ物を運んだりする。その不特定多数が誰なのか、どんな人なのか、一企業が把握しきれるはずもない。

 

この世の全ての人は、良い人である。プラットフォーマービジネスは、性善説を前提に成り立っている。

 

されど、この世には悪い人もいる。

 

民泊周りの詐欺師、民泊に来た人に性犯罪した人、子供が欲しくて仕方ない人達に何の科学的根拠もない妊娠米を売りつける人、今回私が見たように煙草自転車の配達員、無害を偽った有害動画をアップロードする人。

 

こういう悪い人たちの出現を防ぐために、全てのプラットフォーマーサービスを停止するのは非現実的ではある。

プラットフォーマーがいなくなっても、悪いを考える人たちは消えない。プラットフォーマーそのものが消えて欲しいとは思わない。私もその恩恵にあやかっているし、ある意味で一番その恩恵を受けていた立場でもあった。

 

プラットフォーマーに消えて欲しいのではない。変わって欲しい。気づいて欲しい。プラットフォーマーにも、私を含むこれらを使う人々にも。

 

私は、プラットフォーマーに、もっと強い倫理観を持ってサービスに携わる人間を管理してほしい。

 

プラットフォーマー社員の多くは、性善説で生きているエリートであり、人を騙して儲ける必要のない程の報酬を得ている。だからこそ、悪い人たちの心理や行動が理解できないのかもしれない。

 

しかし、「自分たちは性善説だったので、悪い人たちの真意に気づきませんでした」では済まされない。その「悪い人たち」を使って自らの利益を手にしているのだから。

 

今まで自分が手にしていた給料は、一体どれくらいが悪い人経由だったのだろう。90%以上は、良い人経由だと思う。私は誰かを騙したことはないが、人知れずどこかで誰かの悪行の手助けしてしまっていなかったのか。

 

安価で雇った人を使って利益を得る。その裏で何が起きるのか、というのは資本主義の暗黒部分。グローバル化とはなんだったのか。便利になった反面より効率的に弱き者たちから搾取できるようになっただけなのではないか…なんて考えてしまう。

 

グローバル化か飽和状態になったら、次は一体どうなるのか。きっとこれから数十年の間にそれを目撃することになる。

 

そこにはどんな世界があるのかしら。

 

 

 

 

 

 

いつまで「お姉さん」?いつから「おばさん」?

皆様、あけましておめでとうございます。

 

この趣味で続けてるブログも 2 年半ほどになる。本当に好きな事を、適当な頻度で徒然書いてるのものを読んでくださる方がいるのはありがたいです。

 

昨年の 12 月 30 日には、「特別でも何でもない日こそが、宝物で大事」と感じました。

 

その 2 日後、翌年の 1 月 1 日の午前中、元旦には筋肉痛に見舞われました。

 

昨日、娘たちを公園に連れて行ったらそこで遊んでた小学生の女の子たちと仲良くなりました。

 

まだ小さいワカメちゃんでも楽しく遊具で遊べる様に手を引いてくれたり、れーちゃんとも一緒に遊んだり。

 

その可愛らしい小学生の女の子たちに言われた。

 

「お姉さんも遊ぼうよ」

 

自分は「お姉さん」なのか「おばさん」なのか。25歳位の時からそれが微妙になっている。

 

なぜならば、子供時代は、友達のお母さんのことは「おばさん」と読んでいたし、子供にしてみれば私は「おばさん」だと思っていた。

 

ゆとり世代である私は30代前半、列記とした「おばさん」だと、認識していた。

 

そんな私が呼ばれたのだ。

 

「お姉さん」

 

と。

 

現役小学生の彼女たち曰く「39歳まではお姉さん」なんだそうな。(彼女のお母様は38歳だそうだ。自分のママを「おばさん」にしないための境界線なのか、優しさを感じる)

 

「お姉さん」扱いされた事は光栄だったが、それによって筋肉痛とともに元旦を迎えるとは思わなんだ。

 

「お姉さん一緒に遊ぼうよ!!」

 

 

若い「お姉さん」である以上、それなりの体力を求められる。

 

30 過ぎて、小学生相手に本気の鬼ごっこ。しかも鬼3人に私一人逃げる。勝ち目なし!!(主人も逃げる役だったはずなのに、どこぞに隠れて難を逃れていた様子、賢い。)

 

 

スケートボード乗ってみて!」

「縄跳びやってみて!」

 

れーちゃんとワカメちゃんに優しくしてくれた彼女たちに色々チャレンジを進められる。

 

小学生用の長さの短い縄跳びでは、二重飛びも上手く飛べず(一回位飛べたかな?)、バランス取るのが難しい不思議なスケートボードに乗ることすらできず、我が身の衰えを知った。

 

所謂、「バカな大人」であった、アッハー!!

 

公園からの帰り道、ベビーカーを押す腕に早速筋肉痛が起き始めていた。

 

 

「お姉さん」扱いされて、小学生と友達になれて、身の衰えを知る、不思議な大晦日。その後には筋肉痛な元旦。

 

自分の中の「お姉さん」と「おばさん」の両方を感じたこの2日間。

 

私はいつまで「お姉さん」なのか、いつから「おばさん」になるのか。

 

私は「お姉さん」を卒業したら、「マダム」になりたいなぁ。アンチエイジングではなく、ウェルエイジングを目指して。

 

体力的には、早く「お姉さん」を卒業したい気持ちも強いかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千枚の思い、10年での変化

先日、結婚記念日のデート(ランチ)に行って来た。久々にフレンチ、マイルのポイントで♪

 

私はデザートでミルフィーユを選んだ。

 

甘くて美味しいミルフィーユを食べていたはずなのに、なぜか漬物の話になった。(というか、私がそう持って行ってしまった)

 

何層にも重なるミルフィーユのパイ生地と、この10年を振り返る。

 

パイ生地が何層にも重なるミルフィーユは、パリパリした食感がとても美味しい。そして、形が崩れやすく美しく食べるのが非常に困難なデザート。初めてのデートであれば、決して選ばないが、ここは結婚〇年目、好きな物を選んだ。

 

フランス料理のメニューを見ながら、私が大学時代、フランス語を勉強していたことを思い出した。

 

昔はそこそこ理解できたのに、今やほぼ全くフランス語を理解できない事が、若干悔やまれる。(言語は使っていないと忘れる、を体現している自分がいる)

 

夫婦で食事しながら、「ミルフィーユという言葉の意味」のうんちくを私が言い出した。

 

ミルフィーユ、はフランス語では「千枚の葉」という意味。パイ生地が何層にも重なる姿が葉の重なりに似ているとか。

蛇足だが、「シュークリーム」も確か「キャベツクリーム」って意味じゃなかったっけ。 

 

フランス人は、食べ物の形を何かに見立てて名称をつけることが多いのかしらん。

 

 

ミルフィーユ、千枚の葉。

 

千枚の〇〇、みたいな表現を食べ物に使うのって、日本語にもあるよね。

 

千枚漬けとか。

 

 

甘くて美味しいミルフィーユを食べながら、酸っぱくて臭う千枚漬けの話をする。

 

 

今年の結婚記念日お祝いランチは、そんな締めくくりだった(笑)

 

 

出会って、付き合って、結婚して、子供が生まれて、その間、間にも色んな事が起きた。すべてがこの十年以下の間の出来事だと思うと、なんとも目まぐるしい人生だ。

 

2019年が、あと一日で終わる。  

2010年代が、あと一日で終わる。

 

6年間のイギリス留学から帰国したのが2010年。帰国してからの10年が、終わろうとしている。

 

私の思っても見なかった未来が、待ち受けていたとは、10年前の私が知る由もない。

 

過去の私に言えることは、

 

「あなたは、あなたのままで大丈夫。今までどおり、後悔しないように生き続ければ、それで良い」

 

予想外の人生になっても、どんな展開になったとしても、後悔しないような選択をし、それに責任を持って生きていく。

 

10年前の私は、そう考えていた。

 

今の私も、ほとんど同じ。

 

予想外の人生になっても、どんな展開になったとしても、後悔しないような選択をし、それに責任と愛を持って生きていく。

 

今の私は、「責任と愛」が必要だと思ってる。そう、この10年の間に「愛」が加わった。

 

この10年の間に起きたすべてのこと、出会った全ての人が居てこそ、こう思えるようになった。全てに感謝したい。

 

こうしてブログを読んでくださる貴方にも、感謝しています。

 

さて、大晦日の明日はどんな風に過ごしたいかしら。

 

たまの豪華なランチは嬉しい。とても嬉しい。 

 

なんでもない日常的な日が、あってこそ、それを嬉しく思える。

 

全く「特別」ではない風に、明日も過ごそうかしら。特別よりも、なんでもない日常こそが、やっぱり本当に大切だから。

 

あなたは、2019年の最後の日を、どんな風に過ごしたいですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病気が教えてくれること(クソガキ!と思ってからが本番)

病気から、何かを学んだことってありますか?

 

3週間ほど前、我が家の娘たちは順番に風邪を感染しあい、しまいには次女ワカメちゃんがインフルエンザに。

 

その時を振り返る。

 

もう、ぐったり。

娘が、じゃなくて、私が。

 

「自分の子供がインフルエンザ」というのは、避けては通れぬ人生のイベントだと思う様にした。

 

子どもが複数人居る家庭では、どうやっても家庭内感染は防げないらしいというのは、これまでの経験からも重々承知していた。

 

が、「保菌者である期間は、解熱しても登園禁止」な病気は初めて。

追記:4年ほど前に長女が手足口病になったことがあったのを、後から思い出した。あれも登園禁止だったの。4年も経つと忘れるのか。

 

れーちゃんは普通の風邪だったので、解熱したら登園OK。ワカメちゃんはインフルなので解熱後もしばらく自宅待機。

 

これ、どうなったか、というと。

 

今までにないほど、「おい、こら、クソガキ!!」って思った日々だった。

 

れーちゃんは先に熱が下がったとたん、ワカメちゃん発熱!

 

これだけでも堪えるが、続きがあって。

 

それぞれの要望があって、それがどれも叶わない感じだった。

 

  • ワカメちゃん:熱下がったんだし、元気なんだから、保育園行きたいのに行けないからゴネる
  • れーちゃん:妹は行かなくて良いのがズルいとゴネる
  • 私:本来なら二人とも元気に行って欲しいのが第一希望だが、そうも行かない。少しでも自分の負担を減らすために、れーちゃんだけでも保育園に行って欲しい

 

登園禁止期間は5日間ほど、丸々1週間インフル保菌者の子供と缶詰。

 

3日目位から、私の精神がめげてくる。

 

解熱したとは言え、外に出かける訳にも行かない。

ワカメちゃんは外に行きたがる。

れーちゃんは行きたくないとごねる。

 

病み上がりの子供ってこんなにワガママになるのか!

 

と思い知った。

 

アレ食べたい、コレ要らない、〇〇したい、☓☓したくない。

 

精神に余裕がなくなってた私は、心の中で叫ぶのです。

 

 

クソガキ…!!!

※心の中で、ですよ。

 

高熱出して寝込んでる間は、可哀想だ、とか変わってあげたいと思ったものの、病み上がりのワガママっぷりを見るとそれも吹っ飛ぶ。

 

病み上がりの子供をこんな風に思うなんて非情なのか。

 

いいえ、子供と接していれば「クソガキ!」と思う場面は出てくる。時には「かわいい」と同時に。

 

「かわいい」と思うか、と子供にイライラしたりするか、は全く別物。

 

「クソガキ!」と思ってからが、親本番。

「この野郎!」と思ってからが、夫婦本番。

 

時として、自分の子供に心底イラっとすることがある。クソガキ!とも思う。

 

 

大丈夫、それでも親失格ではない。

 

それは一生懸命に親をやってる証拠なんじゃないかな。

 

クソガキ!

 

それでもあなた達を愛してる。どんなに「クソガキ」でも、私が「クソババア」になったとしても、それだけは、変わらないよ。

 

病気には、できるだけなりたくないものの、病気は色んな事を学ぶための人生の教材。

 

「自分の子供がインフルエンザ」というのは、避けては通れぬ人生のイベント。そう割り切っても、私の精神の限界はあるので、次回こんな時が来たら、抱え込まずにそこは主人や母、ベビーシッターなど、にもう少し頼るのが吉、ともわかった。

 

ほーら、今回もちゃんと学びがあった。

 

 

あなたは今まで、病気から、どんなことを学びましたか?

 

私は知りたい、どんな学びが、生まれてきているのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新「挨拶しない人」の捉え方

風邪を引いて喉が枯れてしまう。

再びやってしまいました。

 

いつもかなりおしゃべりな私には、声を失うとなんらかの学びがある。例えば、「私っていつも余計な事を喋りすぎてる」とか。

 

今回学んだことは、「挨拶しない人」に対する新しい解釈の仕方。

 

先日、同期会にて、入社したての頃の話になって。私の「おはようございまーす」の声が大きかった話になって。

 

私は、すれ違う同僚が顔見知りでなくても、「お疲れ様です」と挨拶してました。無視されてもめげずに「おはようございます」「お疲れ様です」と言い続けてた。会社が小規模な間は、無視される率も低かったし。

 

されど、会社の規模が大きくなるに連れ、顔見知り率が下がり、無視される率が上回り、負けじと挨拶するのがバカらしくなってしまい辞めてしまった事があります。負けじと続ければ良かった!!

 

年寄りくさいことは言いたくないですが、「挨拶のできない人ってちょっと…」って思ってたわけです。(※これを思ってたのは20代中盤)

 

が、先日声が出せなくなって気づいた。

 

挨拶しようにも、できない状態の人っているんじゃないか?って。

 

マンションのエレベーターで、どなたかとお会いしたら、私はいつも挨拶するようにしています。が、喉が痛くて先日は会釈しかできなかった。

 

これからも、私が挨拶しようとも無視される場面には幾度なく遭遇するでしょう。

 

私は決めた。

 

その時、毎度毎度イライラするでも落胆するでもなく、「あの人は声が枯れてしまっているのかもしれない」と思うことに。

 

無視してくる人の全員が、声が枯れてる確率は限りなく0に近い。が、私がこう捉えることで、私の不快指数が下がることはほぼ100%だ。

 

挨拶したくても、声を出すに出せない状況にいるのかもしれない。そう思うと、「あの人も大変なんだな」と想いを巡らせ、苛立たずに済むかなって。

 

挨拶を無視する人間が、全員そうではない。けど、本当に自分が大事にしたい人が、もし、それに当てはまっていたら?声が枯れて不便な想いをしている相手を、そんなふうに上からジャッジしてしまったら?

 

そりゃまずい。

 

いつどこに、自分の大切になるかもしれない人が現れるかわからない。

 

だから、挨拶を無視されても、いちいち人を判断しないようにしよう…。

 

う〜ん…できるかな。なんか難しそう…

 

いや、挨拶しない人たちを云々じゃなくて、気持ちよく挨拶してくださる方々を大事にしよう。

 

そっちだ!

 

ここまで書いてみて、こんな結論にたどり着いた。書くことはセラピーにもなる、って本当だなぁ。

 

 

自問自答しながら書く。自分が知らない自分が、不思議な答えを返してくる。

 

人間って面白い。

 

いろんな人の脳内も覗いてみたい。

 

 

 

しかし、私ってば年に1-2回、声がでなくなる風邪になる。頻繁すぎやしないか。何か対策法とか、おすすめのセラピーとかあれば教えてください。

 

 

金のつづらと銀のつづら、貴方はどっち?

日本昔ばなしは好きでしたか?

 

幼児を2人抱える今、日本昔話や絵本を読むことが多い。そして、主人の日本昔話に対する知識が薄すぎる事が笑える。

 

留学期間が長いとはいえ、17歳までしっかりと日本で育った私は、日本昔話葉沢山知っている。主人はそれ以上に日本に住んで育ったはずなのに、なぜか日本昔話やおとぎ話は、なぜか知らないものが多い。

 

  • いなばの白うさぎ
  • 猿蟹合戦
  • したきり雀
  • おむすびころりん
  • こぶ取り爺さん

 

名前を知らない、またはストーリーを知らない、お話が沢山あるそう。(桃太郎や浦島太郎は知ってるらしい)

 

あまりにも日本昔話を知らないので、先日聞いてみた。

 

「したきり雀って知ってる?!」

 

「知ってる知ってる!『金のつづらと銀のつづらでしよ!』」(ドヤ顔で)

 

 

いや、それを言うなら「大きなつづらと小さなつづら」で、「金の斧と銀の斧」だよ。。。ごちゃまぜになってる。

 

 

主人は日本昔ばなしを、あまり知らないかもしれない。(というか、忘れてる?)が、彼は空気の読み方とか、婉曲表現とかを知っている。私が苦手とする日本的なコミュニケーションも、彼はしっかりとできる。

 

日本昔話の知見よりも、そっちのほうが、生きるには役立つのではないか。

 

30過ぎて、やっと、4歳の娘から、婉曲表現の受け取り方(つまり、スルーする)を学んだ私。空気が読めない分、知識の蓄積と記憶の維持だけは得意。これもきっと、神様の采配に違いない。

 

 

金のつづらと銀のつづら。

金の斧と木の斧。

本や物語などの暗記力と、空気を読む力。

 

貴方なら、どっちを選ぶ?

 

結局、私にとっての分相応は、空気読み力ではなく、暗記力と分析力※※らしい。

※※空気の分析は除きます

 

真のファンとは(一緒にライブ行ってくれる人募集)

好きな芸能人っていますか?

 

幸せなことに、私には何人かおります。

 

最近、「真のファンとは何か」を考えるようになった。

 

 

歌が上手いから、カッコいいから、かわいいから、好き。

 

そういうのではなく、「〇〇じゃないけど、なんか好き」っていうのが真のファンなんじゃないか、と。

 

あの人は歌が上手いからライブ行ってみたい!

 

と思うのは普通なことかなー、なんて。例えば、B'zや安室奈美恵さん。あの世界観と歌唱力には惹かれます。

 

が、私が最近惹かれている歌手は、正直このレベルの歌唱力ではない。彼よりも上手い歌手は沢山いる。音程も完璧とは言えない。

 

けど、彼の歌を、なんだか聞きたくなってしまう。

 

彼か作り出す世界観とか、表現力に惹かれるのか。※本人はイケメン路線で売りたくないようですが、個人的に顔が好みではあります

 

アイドルを辞めて、大きな事務所を辞めて、ソロで動き出した彼を、応援したい。

 

 

それはこの人

 

1/28 1/29に幕張メッセでライブするらしく、すごく行きたい!!

 

誰か一緒に行ってくれる人募集します。もしご興味あればコメントやメッセージください。

 

体力に自信がない私は、ライブの間の立ちっぱなしに耐えられるのか…。

 

 

ストレートな母が、娘婉曲表現を理解できるのか

貴方はストレートな人ですか?それとも婉曲表現の人ですか?

 

私は、超が着くほどストレートな人です。その感覚で、長女れーちゃん(4歳)の発言を聞いて行動していたら、ちぐはぐになることに気がついた。

 

たとえば、「みかん食べる?」と聞かれたが、食べたくなかった時。貴方はどう断りますか?

 

 

私はストレートに「いらない」と断る。みかんは大好きですが、もし嫌いな物を進められたら「それ嫌い」とも言う。

 

でも、れーちゃんは違うらしい。

 

れーちゃんは頻繁に「明日食べる」と言う。

 

私はこれを信じ、次の日に話題になった物を出すと「要らない」とか「明日食べる」(再び)とか言われる。

 

すると私は

 

「えぇ!!?あなた昨日『明日食べる』って言ってたじゃん!!だから出したのに!!」

 

これでかなり怒ってしまうこともあった。

 

だって、れーちゃんの発言を覚えていて、要望を叶えようと動いたわけですよ!!それが「いらなーい」とか文句言われる〜!!(正直子育てってこんなことばっかりなので、毎度毎度イライラしたり怒るのはバカらしいが、毎回それを上手く飲み込めるわけでもなく)

 

このやり取りを繰り返すこと10回位でしょうか。私もとうとう学習したのです。

 

れーちゃんの『明日食べる』は『要らない』という意味だと言うことを。

 

ゆえ、「明日食べる」と言われた食べ物を、次の日にわざわざ用意することを辞めた。それが解決策だった。

 

れーちゃんにしてみれば、「〇〇食べたいなんて頼んでもいないし、好きでもない物なのにママが勝手に用意して、『イラナイ』って言ったら怒られた」構図なのです。れーちゃん側にしてみれば理不尽。(母親である私側にもある程度の理不尽さは否めない気も…しなくない。。。。)

 

私が用意したものを食べない。そんなことは慣れっこではある。私が怒った理由はここじゃない。

私が怒ってしまった一番の理由は、「昨日の貴方の発言と行動が一致していないじゃない!」。ま、捉え方によっては「嘘ついてる!」とも解釈してた。 

 

れーちゃんは嘘をつく気なんて、露ほどもなかったでしょう。彼女の断り方というのは、婉曲表現なのだ、とやっと理解できたのが今。

 

 

私は、およそ多くの人には信じがたいほどストレートで単純な人。

 

「どんな変化球が来ても、正面まで回って受け取って、『これはストレートだ!!』と言い張るタイプだよね」

 

 

と、その昔同期に言われたことがある。これを聞いた他の同僚も「本当にそうだね」とゲラゲラ笑ってたなぁ…(※日本語に向いていない性格です)

 

 

娘という私にとても近い存在。れーちゃんの性格は、私と結構似てるところもある。が、婉曲表現か、直接表現か、は大いに違う所。

 

そういえば、2年前のブログでも書いていた。れーちゃんは2歳児時代だって女の子!なコミュニケーションを取っていたことを

 

似てるけど、違う人間。そんな小さな大人のれーちゃん。

 

 

 

直接的に頼まれていないことを勝手に忖度して、先回りしてやってあげる。

 

それって、もしかしたら優しいお母さんなのかもしれない。

 

が、我が家の場合は、子供に対してはそれをしない方が、ストレス溜まらない気がする。

 

果たして、忖度で気を回す母が果たして良い母とは言い切れない。忖度してもらうことに慣れた子供は、人に頼み事をする時に上手に言語化することを学ぶ機会を失っているかもしれない。(と、自分を正当化してみる)

 

どっちに転んでも、良い面と悪い面がある。

 

 

そもそも私は忖度とか、空気を読むのが苦手なので、辞めます。

 

 

やはり、否めない脱☆良妻賢母的な発想が、私の中にある。

 

30過ぎてやっと、婉曲表現の何たるか、婉曲表現にはどう対応するのかを学んだこの私。さぁて、人生まだまだ学べることは多そうだ。

 

 

 

イギリスの保険制度と選挙

イギリスに6年住んでいた私には、ごく自然にイギリス人の友達が沢山居る。

 

イギリス総選挙が迫る今、SNSでも選挙の話が多くなってきた。私の友人たちが口を同じく言うのは

 

NHSを守るために、保守党には入れるな!

 

です。

 

NHSって何なのか、保守党は何をしようとしてるのか、イギリス国民はなぜ反対なのか。住んでいたからこそ知っている部分をこちらでもご紹介します。

 

【NHSとは】

National Health Serviceの略、日本語の「国民健康保険」に相当します。が、サービス内容は日本の国民健康保険とは違います。

 

1割なり3割なり、自己負担額があるのが日本の健康保険。病院窓口で2000円なり1000円なり払うのが一般的。

 

イギリスでは自費診療項目以外は全て無料。16歳以下の子供に至っては処方料も無料。何歳でも医者に払うお金は0。

 

こんなシステムなので、「金を積めば先に診察してもらえる」という様なズルは無い。そもそも金を積めないから。(あったとしても、私は知らないです)

救急センターなどでは、乳幼児や緊急性の高い患者を優先的に診察する程度で、ひたすら順番待ち。

 

私は長期滞在の留学生で、長期ビザも持っていたので、このNHSの恩恵にあやかれました。医者にお金を払ったことはありません。

 

日本では保険が効かなくて高いピルも、イギリスでは無料だった。避妊に関する費用は全額国費負担にもなるのが驚きだった。(私はピル推奨派で、今も飲んでいる。

 

 

【NHSの良い所】

合法的なイギリス在住者であれば、誰しも無料で医療を受けれること。これに尽きます。

 

アメリカの保険制度はこれと真逆で、イギリス人はアメリカ的保険制度なんてまっぴらごめんだ!とか野蛮だ!と思ってます。

 

アメリカではお金がなければ医療を受けれない。

 

イギリス人にとっては、アメリカとは「幼い子供に脳腫瘍があっても、金がなきゃ死ね」と言ってる国です。

 

21世紀にもなって、弱き者に救済の手を差し伸べないのは野蛮に映るのです。

 

【NHSの悪い所】

融通は効きません。全額国費運営なので、できるだけ手間や無駄は省かれている。

 

例えば、内視鏡検査を受けることになれば、日時・場所全てが完全指定され、変更は不可。

 

「この時間にこの場所に来れないのであれば、貴方は検査を受ける必要があるほどの病気ではないと見なします」

 

というのが、NHSの見解。オペレーションの無駄を省くため、

 

 

【保守党は何をしようとしてるのか】

NHS、イギリスの保険制度を民営化しようとしているらしい。もし民営化されたら、アメリカ企業に買われたり乗っ取られたりする可能性も出てくる。それを快く思うイギリス人はほとんど居ないでしょう。

 

【イギリス国民が反対している理由】

民営化したら、営利目的になる。今までは誰もが平等に受けることができた医療を、貧乏人は受けることができなくなる。そんなのおかしい!!!と。

 

「脳腫瘍があっても金がなきゃ死ね」という文化の国の企業に食いつぶされる、とイギリス国民は恐れているのです。

 

私のイギリスでのら友人の大半は、お金に困っていない。その彼らが民営化を反対するのは、自分たちの為だけではなく、それ以外の人々や道義的なものを考えた上で反対しています。

 

私はイギリスに住んでいた間も、今も、イギリスでの選挙権はありません。影響力はほぼない。けど、私はイギリスを愛している。

 

ユーラシア大陸の向こう側の私の第二の故郷。もちろん完璧とは言えない保険制度ですが、NHSが民営化されて営利目的企業に食いつぶされるのは見たくありません。

 

そうさせない為に私ができることなんて、ほとんどないけど、とりあえず祈ってみる。私の友人たちが、私の第二の故郷の人々が、これからも健康面において安心できることを。

 

どうか、どうか、そんなことになりませんように。

 

 

 

 

 

 

 

 

ナイロビの蜂

 

 

同じ映画、同じ本、同じ物語を見ても、以前とは異なる感想を持つ。そんな物語はありませんか?

 

沢山の映画よりも、何度も同じ映画・本を見るのが好きな私には、そんな物語が沢山ある。

 

その一つが「ナイロビの蜂(原題 Constant Gardener)」というイギリス映画。

 

これが、前回の記事で触れた「駐在妻という枠を超えて「自分らしく」行動した外交官妻が呼んだ悲劇」の映画です。

 

この映画を見る度に、私の感想・感動ポイントは変わっている。

 

どんな時代に、どんな感想を抱いたのか。

私はどう変わったのか。

どう視野が広がったのか。

 

それを紹介します。

 

 

まず、「ナイロビの蜂」のあらすじを。

※ネタバレあり

※この話は現実に近いが、フィクションです

 

------------------あらすじ ここから------------------

主人公のジャスティンは、イギリスの外交官。「外交官のくせに嘘が苦手」と言われるほど、正直で優しい。事なかれ主義の外交官。

 

妻のテッサは、正義を強く持ち、怖れることなく自らの意見を発する若き活動家のテッサは、ジャスティンと恋に落ち、結婚し、赴任先のケニアについて行く。

ケニアについて行くために、テッサからプロポーズしたも同然。

 

ケニアにても、身重になっても、テッサは意欲的に活動する。ジャスティンが止めるのを聞くこともなく、テッサはケニアのスラム現地人等とも交流を深めていく。テッサは賢くて正義感が強い、好奇心に溢れた人だった。

 

外交官の妻というのは、大概他のお仕事はしていない。「外交官の妻」という仕事であることが多い。テッサはそれに収まらなかった。

 

地元民との繋がりを持ったことで、製薬会社が行う「不都合な真実」が見えて来た。

 

  • ケニアの貧しい人達を、無料の人体モルモット(治験者)にしていること
  • 製薬会社が出した新薬は、実は死に至る副作用があること
  • 副作用によって死に至る人がいることを知りながら、製薬会社がこの死を隠蔽し、このまま世に新薬を出そうとしていること
  • イギリス本国が、この隠蔽を認め、むしろ国家ぐるみで隠そうとしていること

 

勇敢な女性であるテッサは、徹底的に調査してこの不都合な真実を公表し、製薬会社に新薬の開発のし直しを求めるつもりだった。

 

副作用による死を避けるために。人の命のために。正義のために。

 

その最中、悲劇は起きた。

テッサは暗殺された。

 

ジャスティンは、愛する妻の変わり果てた無惨な姿を見て、思う。

 

「なぜ妻は、僕に何も話してくれなかったのか…」

 

テッサは、自分が何を調査しているのか、追いかけているのか、ジャスティンに全く知らせていなかった。それは、ジャスティンを守るためだった。

 

ジャスティンは外交官というイギリス政府側の人間。国家レベルで隠蔽しようとしている事実を公表することは、国益を害する。国家側の人間が直接国益を損ねることはできない。

 

死人に口なし。テッサが誰と何をしていたのか、ジャスティンは教えてもらうことはできない。

 

テッサの秘密と、なぜテッサが死んだのかを知るべく、ジャスティンは意欲的に調べていく。途中で命の危険を感じても、果敢に立ち向かって行く。

 

事なかれ主義だったジャスティンが、勇敢な愛妻の死をきっかけに変化していく。

 

------------------あらすじ ここまで------------------

 

 

結構壮絶なストーリーです。この深い深い、哀しい映画を、私は何度も見ています。

 

そのたびに異なる感想を持つ。それによって、自分の変化を感じる。同じ物を見た感想なのか!?と思う程、毎回違う感想を持つ自分に驚く。

 

自分の立場、人生経験、読書量が変わったことが、この感想変遷でよくわかる。

 

感想① 正義を持って悪に立ち向かうテッサに共感し、憧れた大学生時代

感想② 大きな夫婦愛に心打たれた結婚5年目位

感想③ 「悪」に手を染めてでも、国益を守ろうとする外交官と国家

 

感想① 正義感溢れるテッサに憧れた大学生時代

確か2009 年頃、初めてこの映画を見た。  

 

独身で大学生だった私は、屈せずに、悪に立ち向かうテッサ・クエイルに強い憧れと共感を持った。

 

大好きな女優、レイチェル・ワイズが演じていたこともあり、自然と憧れた。

 

(そもそも、この映画を見た理由は「レイチェル・ワイズが出演しているから」だった。それ位、彼女自身が好き)

 

この時期、私はジャスティンには全く共感できなかったし、目に入ってもいなかった。あくまで「テッサの夫」としか見ていなかった。ジャスティンが主人公なのにね。

 

 

感想② 夫婦愛に心打たれる

2017年頃(出産後、夫婦で見る)

この時は、テッサとジャスティンの夫婦愛によって凄く感動した。

 

テッサは正義を持って、副作用によって死ぬかもしれない人達の命を救うために、立ち向かった。一番愛するジャスティンに、自分の活動を伝えたかったに違いない。誰よりも、ジャスティンに伝えたかったし、理解して欲しかっただろう。

 

でも、ジャスティンを守るために、隠していた。

 

ジャスティンは、妻の死の裏にある真実を知るために、身の危険を冒してまで調査する。その中で、事なかれ主義のジャスティンは消え、たとえ国家の敵になろうとも、真実を明らかにして人命のために力を尽くす。まるでテッサのようになって行く。

 

自分の気持ちだけを考えれば、自分の身だけを案じるならば、決してできない行動だ。テッサもジャスティンも、己よりも大切な人のために、行動していく。

 

結婚して数年経ち、母となった私は、この夫婦愛に心打たれた。私が知っているよりも、大きな大きな愛が、そこにはあった。

自分も夫婦愛を感じたことがあるからこそ、ジャスティンとテッサの間の夫婦愛にも感動できた。

 

やっぱり自分の中に無いものには、気が付かないもの。気がつくからこそ、感動する。

 

 

感想③ 「悪」に手を染めてでも、国益を守ろうとする外交官と国家

 

2019年の今、感じたことは「国益とは」です。私は公務員ではないし、政治家でもないので、国益を考えて仕事をしたことはありません。

 

国益とは何か」を常に考えて仕事をしていた元外交官が書いた本を読んだからでした。 

 


国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
※読書感想文はいずれ書きたい

 

映画には様々な立場の人が登場する。初見ではテッサ側からしか映画を見れなかったが、今なら国家や外交官側の気持ちもわかる気がする。

 

悪党に見える人達にも、それぞれの正義を持って行動している。

 

テッサの正義は最も人道的で道徳的で尊いものだ。致命的な副作用を隠そうとする製薬会社にも、ぐるになってそれをもみ消そうとするイギリス国家にも、それぞれの正義があった。

 

【製薬会社の「正義」】

映画の中では、製薬会社が悪党として書かれていました。再度、何億円をかけて、新薬研究のやり直しをしたくなかった。

 

新薬の副作用による死は、ごくわずかな数だった。この新薬によって、大儲けできる予定だった。

 

製薬会社の正義は「利益」です。利益のためなら、たった少数の人間の死は隠蔽し、新薬を発売するほうが、会社と社員を守ることになる。

 

営利企業である限り、利益は「正義」なのだ。

 

【イギリス国家の「正義」】

この新薬が世に出るためには、工場がいる。それを売るための営業職も必要になる。この新薬発売により、イギリス本国では何千もの新しい職が生まれる。失業者達を救うことができるのだ。

 

ケニア人を無料で人体モルモットとして治験実験させていたことは、どうみても人道的ではない。が、それが明るみに出れば、訴訟問題になり製薬会社にはお金がなくなり、結果的にイギリスの失業者達に職を与えられないかもしれない。

 

ケニアの貧しい人達の命と、失業した本国イギリス人の生活、どちらを守るべきか。

 

それを天秤にかけなければならない時、外交官は、国家は、自国の国民の生活を守ろうとする。

 

他人の生活や命を踏み台にして、生きる。その生き方は決して褒められたものではない。

 

もし、国益を優先しなければならない立場に居たとしたら、

ケニア人のイギリス人の生活どちらを優先するか選ばなければならなければ、

私だって自然と同じ選択をしたかもしれない。

副作用を隠す、という。不都合な真実を隠す。

 

 

テッサの正義は、国益と反する部分にまで踏み込んでしまった。真実を知った彼女は、口封じのために殺された。

 

 

 

なぜ、テッサは殺されたのか。彼女は何を知っていたのか。

 

これまで何も知らなかったジャスティンは、必死にその理由を探す。真実を見つける中、彼も危険な目に合い続ける。

 

ジャスティンも、彼の正義を持って動き出す。「テッサのため」それが彼の正義だった。

 

 

「外交官の妻」という枠を飛び越えて活動し続けたテッサは、自らが暗殺されるという悲劇を呼んでしまった。

 

これを考えると、ですよ。以前は私がバカにしていしまっていた「極度に日本人化した駐妻たち」側の気持ちもわからないではないのです。

 

もし、駐妻たちが、社益や国益を忘れ、枠を超えて「自分らしく生きる」をやってしまっていたら、何か恐ろしいことになるのかもしれない。だから、彼女たちは己を押し殺してきたのかもしれない。そこに駐妻の「正義」があるのかもしれない。好きでそうなった訳ではないのかもしれない。

 

そう思うようになったので、私はカーストにかじりつき、謎にひれ伏す駐妻たちを以前ほどバカにしなくなった。バカにできなくなった。彼女たちにもそれなりの事情がある。が、今でも、あの世界観は理解できないし、自分もその構成要員になりたくはない。

 

 

「正義」という言葉。昔は好きでしたが、今は非常に危険な言葉だと思う。

 

正義ってなんなのか、誰のためのものなのか、正義の存在自体が正しいのか。次は「正義とは何か」についてでも書いてみようかしら。

 

 

 

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ナイロビの蜂」は素晴らしい映画です。ぜひ皆様に見て欲しい。これには原作の小説があり、作家は言っています。

 

「これはフィクションです。でも現実はこの小説以上にひどい状況であろう」

 

と。

 

 

我々が知らない所で、悲惨なことが起きている。そして、その恩恵を、知らず知らずのうちに受けているのかもしれない。

 

誰かの生活を、命を犠牲にして、何かを得ているのかもしれない。私達が認識していないだけで。

 

きっと、私達のそう遠くないところで、「不都合な真実」は存在する。

 

不都合な真実の存在について考えたら、なんだか色んな事が些細な問題に思えてきた。その些細な問題たちのために、私はどれだけ翻弄されてきたのか。

 

私は今、自分の小ささという不都合な現実を目の当たりにしている。