親自身が楽しむことが、結局大事
どこかにお出かけしたい!子供を連れてどこに行こう??何しよう?
コレ!と言ったものが見つからずに悩むこともある。
我が家の長女れーちゃん(4歳)とのデートを繰り返してみて気がついたことを語ります。
子供に趣味に無理に合わせることはない。自分が好きなもの、楽しいものを一緒に楽しむ方が大事だと気づいたのです。
次女ワカメちゃん(2歳)が生まれてから、ママと 2 人だけのお出かけはすっかり減ってしまったれーちゃん。
まるで宇宙人のように理解不能な泣き叫ぶ赤子を抱きながら「早く人間になって欲しい」と思い続けはや 4 年。れーちゃんが段々と小さな人間らしくなり、断然、一緒に過ごすのが楽しくなった。
近所の薬局に、ママと2人だけで出掛けたときは大層楽しそうで、信号待ちをする2人を絵に描いてプレゼントしてくれた位嬉しかったらしい。
そこで、ワカメちゃん無しのれーちゃんと二人きりの時間を定期的に作ることにした。
ここ最近のデート先と費用↓
- ディズニーランド(¥¥¥)
- 水族館(¥)
- 4歳以上向けのバレエ/コンサート(¥¥)
いくつか行ってみて分かったのが、「親自身が好きで楽しい場所に行くことが大事」ということ。
・ディズニーランド
夢の国であるディズニーランドは、れーちゃんもそこそこ楽しんでた。絶叫系は避けて、イッツアスモールワールドやミニーちゃんハウスなど幼児向けを中心に。
まあ、私としては絶叫系に乗れないから物足りなかったわけです。それに私はディズニーの熱狂ファンというわけでもない。楽しめた度は70点。
チケットを貰えたので行ったが、自らお金を出して行きたい程ではなかったのが100点にならなかった理由かも。
・水族館
水族館は、この中では一番手頃&近所。が、珊瑚のいぼいぼイガイガが怖かったらしく、館内滞在はものの10分。屋外施設でペンギン、アシカを見るだけに留まる。(これもそこそこは楽しめたが、私の期待とは違ったw)
私の楽しめた度は50点。
珊瑚が怖い気持ちはわかる。幼少期、私も水滴が沢山集まってるのが怖くて、水しぶきの散らばるシャワーを使えなかった時期がある。(小さいものの集合体を怖がるという恐怖症は存在するらしい)
・バレエ/コンサート
このバレエコンサートは、4歳以上の子供向け。バレエの有名な曲ではオーケストラをバックにバレリーナが踊り、合間にはオーケストラ演奏のみを楽しんだりと、良い所取りの会。れーちゃんも途中で飽きてはいたが、「四羽の白鳥(白鳥の湖)」が踊る姿には釘付けだった。
帰宅後もスマートスピーカーから流れる四羽の白鳥を聞きながらキャッキャと踊っていた。
私の楽しめた度は100点。
れーちゃんと二人きりデートを何回か繰り返した結果、わかったことがある。
そもそも、出産前から、私はコンサートやミュージカル、バレエなどを見に行くのが大好きで、ロンドンに住んでいた貧乏学生時代は生活費を節約しまくってこれらのチケット費を捻出していた。
それくらい、私が好きなもの。それを娘たちに伝える。
元々、私(親)が好きなもの。それを一緒に体験する。
子供との時間って、それで良いんじゃないか?と思った。
毎回無理に子供に合わせることはない。自分が楽しいものを選べば、「合わせたのに、想像より子供が楽しんでくれない!」とかガッカリすることもなくなる。
- 自らが満額を払ってでも行きたいもの
- 自分が好きなもの
これを選べば良い。
○○は教育に良い、だとか、△△が流行ってるらしい、とか自分ではない誰かの基準に添って選ぶ必要はないのだ。
時には子供が好きなものに付き合うことも、もちろん大事。けど、親も楽しめるものでなければ長続きはしないし、子供も親も楽しくなくなっちゃう。
いくら大好きなキャラクターが目の前にいても、母ちゃんがブスッとしてたら、子供だって楽しくなくなる。
無理に子供に合わせようとかせずに、「自分が自然に選ぶもの」の中で、子供と一緒にできることを探したら良い。
「子供と何しよう…」という悩み。これで少しは減って、心も軽くなるかしらん。
どのお出かけの後も「またママと行きたい」とれーちゃんが言ってくれたことが、嬉しいかな。本心なのか、気を遣って言ったのかわからない。
どっちでもいいから、また、ママとだけのお出かけもしようね。
人それぞれの「グローバル」の定義
大学生に、時折こんな質問されます。
「留学中の就活ってどうでした?」
「留学経験って就活や就職後にどう活かせばよいですか?」
留学経験が活きない、むしろマイナスになる場合もあるのです。自分のあり方と勤務先との相性による。
あまり明言はされない、私自身が感じた「留学経験の活きる・活きない」について語ります。
私の留学経験がむしろマイナスになった例を一つ。
人事権のある日本のおじさん達が考える「グローバル」と私が考える「グローバル」はまったく一致していなかったのです。
10 年前の私の就活(留学中)は難航しました。当時はリーマンショックの後でそもそも就職難。その上、イギリスの大学に通いながら、日本での職探しは難しかったです。最終的に、唯一遠隔地からのビデオ面接をしてくれた外資系の会社に入社しました。
「グローバルな人材が欲しい」と謳う企業の言葉を鵜呑みにしてはいけなかったのだ、と私は就活を終えた頃に知りました。日本企業へも応募したけど、ほぼほぼ途中で脱落。
日本のおじさん達が考える「グローバル」と私が考える「グローバル」はまったく一致していなかったのです。
たとえば、数字にすると ↓
- 日本のおじさんたちの「グローバル」:日本色 9 割+グローバル色 1 割
- 当時の私自身:日本色 4 割 + イギリス色 6 割
私は、17-23歳までイギリスで、現地校に通い、6 年間を過ごしました。
留学年数が長いと、その分英語はできると仮定し、「グローバル」人材を求める採用担当者は、なんとなく私の履歴書がよく見えたのでしょう。実際に面接で会ってみると「なんだか違う」と思われたのです。
「貴方は、英語をしゃべる人の話し方をしますね」
うーん・・・・私は確かに英語を話すが、英語を話すようになったのはここ数年の話であり、英語を話せるようになる以前からこのスタイルで話してるけど?
結論を最初に伝えたり、曖昧にせずにハッキリと言う姿勢に、面接官もびっくりしたのか。面接官に「あなたは異分子ですね」的なことを言われることは正直不愉快だった。(ここは不採用でした。どう考えても相性が悪かったから、採用されなくてよかった)
就活当時の私は、英語は確かにできました。が、それ以前に私は「日本人らしくなかった」のです。
20 前後の 6 年間という時期に海外で生活する。習得したのは語学だけではなく、価値観や生き方そのもの。相当にイギリスに感化されてました。
企業の採用担当者してみれば、「肌に合わない」の一言だったでしょう。
もし仮に入社していたとしたら、英語はできても、日本風の考えに反りが合わなくなり、おそらくさっさと転職していたでしょう。
「自分はこういう人間なんです」と正直にさらけ出すことは長期的には良い結果をもたらす。
日本のおじさん達、日本企業が好んで雇いたい(または相性が良い)のは、「基本的には日本育ちの日本人で、1年だけ海外留学したことがあったりして英語にアレルギーがなく対応できて、日本人的な空気読み能力のある人材」。 要するに、「英語アレルギーがない日本人」が欲しい。
日本的な考え(協調性とか和を尊ぶ)のほうが小さくなっており、自分の考えをハッキリ主張する私は非日本感が強すぎた。
「グローバルな仕事したい」
これもよく聞く言葉なのですが、あなたにとっての「グローバル」って何なのか?を考えて欲しい。日本以外の取引先や仕事仲間が居ればグローバルなのか、っていうのは短絡的。
非日本的=グローバルではない。
たとえば、世界各国に向けてプリンターのインクを作る会社であれば、各国にユーザーがいるかもしれないけど、そもそも携帯もPCも持たない、プリンターが必要ではない暮らしをしている人・国を対象としたビジネスではないのです。同じくらいテクノロジーを持っている人、という社会のピラミッドの横つながりの「グローバル」。
反対に、国内の取引先しかいなくても、所有率が高いもの(たとえばタオル)を作る会社であれば、対象人口は多い。社会の階層問わずお客様がいるという縦つながりの「グローバル」。
いろんな「グローバル」の定義があるのです。Globeってのは地球儀、世界の意味。自分の住む世界がどれだけ広く狭く、浅く深いのかは、人それぞれです。
「グローバル」って言っても言わなくても、個人の自由です。ただ、気をつけたいな、と思うのは、目の前の人が考える「グローバル」と、自分が思う「グローバル」は違うということ。
就活生だけではなく、企業の担当者さまも、自分の望む「グローバル」とは何か、よくよく考え採用活動して欲しいと思います。
「社会が変われば良い」と訴える心情
最近は、インターネットの普及により、誰でもいつでも社会運動を始められて、広がりやすくなっている。
良いな、と感じる社会運動もあれば、違和感を覚えるものもある。気持ちはわからないでもないが、たとえば、以下の運動にはどうも違和感を拭えないのです。
- 足が痛いから、女性にハイヒールの強要を辞めて欲しい
- 男性の育休を義務化して欲しい
- キャラ弁を禁止にして欲しい
私の違和感の理由は、これらの訴えの共通項は「誰か、自分以外の偉い人がこれらのルールを決めてください。」という心理が潜んでいる気がするから。
誰が決めた訳でもない、明記もされない、いわゆる不文律的のルールは沢山あります。不文律だから、罰だって特にはない。
にも関わらず、自分たちを勝手に罰しているような罪悪感を持つこともある。母親という生き物には、それが妙に多いかもしれない。(母乳神話、3歳児神話、○○神話、私はもう聞き飽きています)
足が痛くてハイヒールが履けない女性もいるし、なかなか育休を取れない男性もいるし、キャラ弁を作るのにネタがなくなって困ってる親御さんもいるでしょう。
それぞれの気持ち、わかります。が、義務化・ルール化する必要があるのか?
ルール化・義務化しなければ、ハイヒールから解放されないのか。男性の育休は取れないのか。得意でもないキャラ弁を作り続けなければならないのか。
そんな事はない。ハイヒールを履かない仕事もこの世にあるし、義務じゃなくても育休を取る男性はいるし、キャラ弁を作らない家庭だってある。
結局は、自分の選択の問題。
ハイヒールを履かない仕事を選べば良いし、育休を取ればよいし、キャラ弁を作らなきゃよいわけです。
育休に関しては、会社によっては左遷されたり不条理な転勤を命じられたりする結構大きな不利益もあって、自分の意志だけではどうにもならないこともありますが、私の嘆きは「義務化しないと多数派は育休を取れないのか…」という勇気と自主性のなさです。
(個人的には、主人が育休を取ったことは、とてもありがたかった。主人の会社でも育休を取る男性は稀で、義務化なんてされてない。これはあくまで私達夫婦協議の末の選択だった。)
人からなんと言われようと、私は絶対にキャラ弁は作らないでしょう。「手の込んだお弁当じゃなきゃ愛情がない」なんて言う人は、愛の定義が狭くて乏しくて可哀想に思える位、キャラ弁はどうでもいいです。私の母はキャラ弁なんて作ったことはないし、手抜きの日もあったけど、しっかりとそこに愛情はあったのだ。好き嫌いが多かった子供時代、私にとっては、キャラ弁がどうか、色とりどりかどうか、よりも「自分が美味しく食べれるもの」が入ってることが大事だった。
じゃあなぜ「キャラ弁を禁止にしてほしい」みたいな声が出てくるのか。それは子供からではなく、周囲の大人からの同調圧力に耐えきれなくなっているからではないか。
その理由を私は、以下と推測する。
- 自分の選択なのに、その理由を他者に転嫁できるから(ルール化する、義務化を要請する)
- 自分と同じ考えを持つ人を増やすことにより、「みんながやってるし」と言い訳できるようになるから(自分の考えを多数派化する)
結局、自分の選択に責任を持ちたくないのでは?
自分の考えが社会の多数派に属していたら楽でしょう。何も考えなくても、批判もされないし、「空気読める」「協調性がある」と思ってもらえる。
果たしてそれ(他者の評価)がそんなに大事なことなのか?
男性の育休義務化運動にしろ、ハイヒール禁止にしろ、「なんとか自分の意見を多数派に持っていく」ことを念頭に置いてる様に見える。
多数派になることが、それほど大事なのか?生まれ育った家で、学校で、少数派で有り続けた私は、多数派に回ろうと自分を曲げたこともなければ周りを自分シンパにしようと布教したこともない。(いずれにせよ、成功してはいない。ま、それが学校が好きではなかった理由かも)
「この社会のルールはおかしい!」
そういうルールは沢山あります。何をどうおかしいと思って反発するのか、長い物に巻かれるのか、個人の意思決定に委ねられている。
母親が暗黙の了解のようにワンオペ育児になることは、確かに好ましいこととは言えないが、それをどう解決するのか?は人それぞれではないのか?育休を一週間だけ取るよりも、3年間定時に帰って来る方が好ましいかもしれない。
とにかく自分が多数派になること、自分の考えを多数化すること、に必死になっている人には危険信号を送りたい。
その活動や発想は、非常に危ういということを。時代を経て、世の中が変われば、ルールや「何が多数派なのか」は変化する。いくら頑張って、己の考えを多数派化したところで、いつ何時それが覆されるのかは分からない。
「今の社会はおかしい!」と気づいたり、声を上げることは大事なこと。が、なぜその声をあげたのか?はよくよく考える必要がある。
社会の中で生きている以上、ある程度社会のルールに沿って生きる必要があります。ルールは人間が作る物で、それに誤りがあったり、ルール自体が時代に合わなくなることもあります。
義務化して、多数派がハイヒールを辞めれば、多数派が育休を取れば、市民権が得られるのでしょうか?
多数派でなくても誰しも市民権はあるし、少数派だからといって揶揄するのもおかしい。少数派の人間はいじめのターゲットにされやすいが、子供時代だけではなく、社会人になって何歳になってもこの構図が続いているのが、成長しない社会だと感じる。
人の意見は気になります。気になるけども、自分がどんな行動を取るのか、は自分の選択であり、責任も自分にある。
人に揶揄されるから、無難だから、自分の意思とは反しても多数派の意見を選ぶのか。人になんと言われようと、自分の意思や信念を貫くのか。
人生は決断の連続。小さな決断をして、その責任を取る。それを積み重ねてこそ、大きな決断もできるのではないか。
秩序はあれど、精神の不自由度の高い日本という国がもう少し変わるには、「多様性」を高めるには、こういう意識改革が必要だと思う。
日々の小さな一歩。、世間という得体の知れないものではなく、小さな一歩の積み重ねが、自分を作って行くのだ、と娘たちにもしっかり教えていきたい。
カフェインの効用
先日の長女れーちゃん(4歳)の初めてのミルクティーの続編です。
本格的な紅茶を楽しんだ日中はトイレ地獄が、そして夜はインソムニアが襲ってきました。家庭内時差が出現。
本当は結構恐ろしいカフェインの効用のお話です。
その日はどうも私も寝付きが悪くて、不眠と格闘し、私が眠れたのは夜2時頃。やっと眠れたその1時間後、つまり真夜中 3 時頃に、れーちゃんの足音が聞こえるではないですか。
やっと眠れたのに1時間足らずで起こされ、結構朦朧としている私は、れーちゃんをなんとか説得して、布団に戻した…が、何回も出てくる。終いには「パパがテレビ(ウィンブルドンの決勝戦)を見てるのが気になる」とか言い訳し出す。
パパのテレビ音量は微量。いつも…消防車のけたたましいサイレンが聞こえても、れーちゃんは起きない。今日だけは様子がおかしい。
今思えば全てはカフェインの効用だったわけだが、睡眠時間 1 時間の朦朧とした私は分かっていなかった。
「起きてきても怒られるし、相手してもらえない」と悟ったれーちゃんは、最終的にはおとなしく寝床に戻った。
が、やっと訪れた眠りは 2 時間後には終了しました。
朝 5 時に、れーちゃんが「朝だよ」と起こしに来た。おいおいおいおい、休みの日に5時起きかよ!?平日の朝は 8 時過ぎても中々起きないくせに、休みの日に限って早起き…というか僧侶タイム。
れーちゃんとしては、眠れないけど、誰も相手してくれないし、怒られるから、頑張って頑張って、明るくなるまで待っていたらしい。それが朝5時。
夏の夜明けの早さが憎くなる。ウィンブルドンの試合に合わせて、れーちゃん一人だけがイギリス時間で動いていたのか。
ザ・イギリスな飲み物、ミルクティーゆえか、日本に居ながら一人イギリス時間で生活しようとする人出現。
睡眠不足のせいで、次の日のれーちゃんの目が赤くなってた。
インソムニア・ナイトを終え、次の日の夜にれーちゃんが眠った時には、それはそれは平和になりました。明石標準時に、家族全員が帰ってきたよ。
「やっと眠れたね」
子供はかわいい。寝顔は特にかわいい。
その日のれーちゃんの寝顔は格別に可愛かった。
今回の学び:子供にはノンカフェインの飲みものを与えるべし。なんなら自分も気をつけるべし。
久方ぶりの細切れ睡眠の夜。赤ちゃん時代には毎日これだったのか、と思うと、我ながらよく耐え抜いたし、全ての親御さんを褒め称えたくなった。
れーちゃんが本格ミルクティーを再び飲むのは、きっと随分先でしょう。いつかやってくるその日を妄想しながら、私は今日もお白湯(ノンカフェイン)をすする。
初めてのミルクティー
初めて遭遇した物は、それが良いものであれば須らく良い印象に、悪いものであれば悪い印象になりやすい。
初めては何事も肝要。
たまたま、今日はこだわって紅茶を淹れた。ティーバッグではないちょっと高級な紅茶葉、温めたティーポット、温めた上品なティーカップ、先に入れた牛乳の上に注ぐ熱々の紅茶。
私よりも主人よりも、長女れーちゃんが、その美味しさに魅了された様子。
れーちゃんの初めての紅茶が、ママこだわりの美味しい紅茶だったのが、なんだか嬉しい。
普通のティーカップでは、れーちゃんには大きい。ゆえ、エスプレッソカップに彼女用のミルクティーを。白、赤紫、金色の柄が入るその少しオリエンタルなカップは、れーちゃんの今日のお洋服の色と重なり、なんだか絵になった。
オリエンタルな食器にミルクティー。私はイギリス時代を思い出した。あの時は、やたらと紅茶を飲んでたっけ。
イギリスに住んでいた当時は、紅茶を飲む頻度が多かった。人の家に遊びに行けば、出されるのは熱い紅茶。
濃いめの紅茶に牛乳をたっぷり入れるのが好きだった。イギリスのスーパーでは青いラベルで「whole milk」と売られる脂肪分高めの牛乳が私のお気に入りだった。
そして、イギリス人のエリート層は少し東洋的な食器が大好きなのだ。
イギリスに住んでいた当初、住み始めは特に、やたらと紅茶を飲んだ。言葉を理解するには、彼らのように喋るようになるには、イギリス人の生活そのものを真似しようと決意した私には、必要不可欠な習慣だった。
一時帰国して歯医者に行けば、色素沈着で歯が黄ばんでることがよくわかったり。歯の黄ばみは、私がどれだけイギリス風にかぶれて行ったかを可視化するものでもあったかもしれない。
初めての紅茶を飲んだれーちゃん。本格的な淹れ方で、美しい食器で。最高のコンディションで淹れた紅茶を飲んだことで、れーちゃんの中では「紅茶=美味しい」という認識ができあがった。
- 最初に口にするものは、本物であること
- 食器などの外見にこだわる
これって大事なことなんだなー、としみじみ実感。
そこまで私が愛したイギリスの国民的な飲み物を、私の娘が気に入ってくれたとは、なわだかとても嬉しい。
ミルクティーに魅了されたれーちゃんは、一体何杯をおかわりしたのか。小さいエスプレッソカップに波々とミルクティーを注ぐ。満面の笑みでそれを飲み、「気に入った」と少し偉そうに言う。
お茶の利尿作用は凄まじく、トイレ地獄が待っているとは知らずに、ミルクティーをすする。
追記
トイレ地獄だけでなく、カフェインによる不眠地獄も待っていた。
本当は怖い中世の騎士道
中世ヨーロッパ。
なんだか格好いい響きだなー、なんて今まで思っていたが、実態を知れば知るほど怖くなる。
「中世ヨーロッパに生まれなくて良かった…」
これが、中世ヨーロッパの主役格の中世の騎士が率いた十字軍の実態を知った私の思い。
塩野七生さん著の「十字軍物語」の読書感想文(まとも版)です。
※感想くだらないバージョンはこちら
騎士道。相手が弱ってるときに攻め込んだりしない紳士的な精神を持つことを示す。が、それが始まったとされる中世ヨーロッパでは、真の意味での紳士は少数派であった、と私には見えた。
一部の真のエリートを除き、「騎士道」が通用するのはキリスト教徒間だけであった。
異教徒、中世ヨーロッパ人にしてみればイスラム教徒かユダヤ教徒か、は人間扱いしない人も多かった。それも、社会の上層部に。
中世ヨーロッパは、カトリック教会の力が強く、聖職者とは社会の上層部、どころか「我らこそ最上部の神の代理人」だった。
異教徒となれば斬る。それを正義とする。
異教徒との戦いで死んだ者は、殉教者となり天国への道が約束されるのだから、死を恐れずに異教徒憎しと戦争する。
中世のヨーロッパとは、十字軍とはそういう文化だったらしい
ご存知のとおり、十字軍とは聖都イエサレムをキリスト教の勢力内に「奪還」することを目的としたローマ・カトリック教会が扇動した軍です。
第一次十字軍を扇動した聖職者のベルナールは「異教徒は悪だ!やつらは殺すしかない」と力説していた。
異教徒となれば斬る。それを正義とする。
異教徒との戦いで死んだ者は、殉教者となり天国への道が約束されるのだから、死を恐れずに異教徒憎しと戦争する。
少なからず、この発想の持ち主が多かったのが中世ヨーロッパ、または十字軍であった。
「異教徒は殺せ」と扇動したベルナールを「聖人」としてしまう当時の世界観は、20世紀の日本に生まれた私には、到底理解できない。殺人の是正!?
日本とはそもそも多神教の国で、「他の神を信じる奴を排除する」という発想がない。こと、第二次世界大戦後は、無闇な戦死者を出してしまったことからなのか、国として全体的に宗教色が弱まる。(日本は多様性には乏しく均一感や同調圧力が強いが、宗教に関してはそうならなかったのが不思議。)
イエス・キリストは「隣人を愛せ」と言ったものの、中世ヨーロッパ社会ではこの「愛すべき隣人」はキリスト教信者に限定していたのか。
宗教は発祥してから1000年前後が、大掛かりな戦争になりやすいのは、キリスト教もイスラム教も同じらしい。
宗教の力が強く、人命よりも「神の意志」が優先される時代。「○○しなければ、さもなくば地獄行き」と脅す恐怖政治。ま、私に言わせると「神を利用する支配者の意志」が優先される時代かな。
キリスト教は、発祥してから2000年近く経過してるので宗教勢力も少し落ち着きつつある。発祥して1000年前後であるイスラム教は、社会的影響力が他の宗教よりも強いのかしら。
キリスト教が基盤となる西洋諸国では、イスラム教の聖戦(ジハード)を馬鹿ににすることもあれど、1000年前に自分たちも同じこと(十字軍遠征)をしてるじゃない。私には同じに見えてならない。
宗教批判をするつもりはないし、信仰は個人の自由だ。ただ、私の感性に合うか合わないか、の個人的意見を述べます。
自分の信仰を押し付けるのは、本当に辞めてもらいたい。
布教を試みる人は一定数居て、彼らの「善意」と来たら、余計なお世話の一言。彼らは「我らの神を信じることで、貴方も救われるんですよ」と信じて疑わない。
一神教信者にしてみれば、他の神の存在を認めることこそ、己の神への冒涜なんだろう。
誰かの逆鱗に触れそうなものだが、十字に人間が磔にされてる姿なんて、目に毒な気がする。しかも、自分が崇拝する人がそんな惨めな姿に…。なぜそれを好き好んで飾るのか、あんまり理解できない。私に言わせると「趣味が悪い」。聖母マリア像の方が「趣味が良く」思える。まあ、同じく、日本の仏像や般若面だって、「趣味が悪い」と言われかねないので、これは五十歩百歩かも。
「中世の騎士道」って、なんだか格好良いものだと思っていたのが、覆された本でした。こんなブログを書いている私は、中世ヨーロッパに生きていたら袋叩きにされていたでしょう。
見栄えが良さそうなものだって、蓋を開けてみれば恐ろしいものかもしれない。逆にしょぼそうに見えるものも、知ってみたら素晴らしいものかもしれない。
どんなに凄い人でも、生身の人間であることを忘れないように生きたい。
そして、今、私が生きているのは暗黒の中世ではなく、21世紀の日本であることが、とてもとても恵まれていて有難いことなのだ、と実感した。
ここまで思わせてくれる本って凄い。
2 段階の勘違い - イシュケンダル
先日イスラエルに関する本を読んでいたら、パレスチナ事情について、もっと知りたくなった。
ジャレッド・ダイアモンド氏の「銃・病原菌・鉄」に続き、父の本棚から面白そうな本を拝借した。私の尊敬する作家、塩野七生さんの「十字軍物語」。
一回では書ききれない感想が溢れ出ています。その中の一つ。今回は、結構くだらない話です(´・ω・`)
※後日、まともな感想も書きます。
十字軍物語を読み進めていく中、パレスチナ地方の地名が沢山出てくる。
ティグリス・ユーフラテス川、アンティオキア、ダマスカス、カイロ、アレクサンドリア、カエサリア。
なんちゃって古代ローマ史オタクの私には、どれも聞き覚えのある地名。
イシュケンダル という地名は、すぐにはピンと来なかった。どうやらイシュケンダルは、「アレクサンダー」大王の現地語読みらしい。私ってば、現地語読みの何か、まで既視感(既聴感?)があるなんて、なんて記憶力が良いのでしょう♪
とか、一人脳内会議で浮かれていたら、
そんな中、私の頭にとある曲が流れたのです。
イシュケンダルへ、今旅立つ〜♪
さらば〜♪
宇宙戦艦やーまーと〜
「イシュケンダル」に聞き覚えがあった気がしていたのは、私がパレスチナ地理に明るかったからではなく、友人がカラオケで歌う宇宙戦艦大和を聞いたことがあるからだった。
この発見を主人に話したよ。
🙂「イシュケンダルって地名があって、知らないのに聞き覚えがある!と思ったら、宇宙戦艦大和の歌詞に出てきてたからだ!ってわかったんだー」
👨「それ、『イスカンダル』じゃない?」
🙄「…」
自分のバカさに呆れる。二段階の勘違い。
「十字軍物語」のまともな感想は、次回書きます。決してこんなふざけた感想だけでは収まらない、濃い内容の本です。
英語の弱点:味気なさ
世界の公用語とされる英語。果たして英語は万能なのか。
英語の弱点は、「味気なさ」だと思う。
正確さ・再現性が求められる科学の領域では、英語は適切だと思う。科学では、多くの場合一つの答えに辿り着く。一つの目標に向かっている場合は、挑戦人数も多く(下手な鉄砲数撃ちゃ当たる…かも)、情報共有できてる方が無駄がない。
が、芸術の世界では、そうでもない。求める答えは決して一つではありません。百人居たら百人の作品がある。同じ物しか創造されないのであれば、それは芸術ではない。
私が留学したのは 17歳 の夏です。それまでは、ただの公立高校生。その微量な英語力でも、「英語って味気ない」と感じていた。
言語の味気が出る源は、以下だと思う。それぞれについて私なりに書いてみた。
- 意味の曖昧さ
- アンニュイな音
1. 意味の曖昧さ
高校の現国の授業で出会った俵万智さんの詩を読み、生まれて初めて、英語の味気なさを実感した。
風の坂道を行く
(英語訳 Going down the windy slope)
なんだか、英訳版は、とても味気なく感じませんか?
風の坂道を行く
風の通り道、風を呼ぶ坂道、日本語版は柔らかい風を感じる。なんとなく、下り坂なイメージ。
Windy slope って言われると、結構強風の吹き荒れる落ち葉が飛び交いそうなイメージ。
あくまで私の勝手なイメージだが、その受け取り方さえも個性が現れるのが芸術の世界だと私は思う。
主語がない、決まった語順がない、などの理由から、日本語は曖昧になりやすい。曖昧さ、とは受け手が想像しうる範囲が広いということ。
その広さゆえに、個性が出る。想像しうる範囲が狭いと、正確性は出るが個性は出にくい。
軍隊通信の解釈に、いちいち個性を発揮されていては、誤情報が広まって好ましくはない。
が、芸術の世界では個性こそ正義!ではないか。
個性の出し方は、二分類できる。勝手にフランス式、日本式と名付ける。
- ①直接表現 - フランス式
- ②婉曲表現 - 日本式
①直接表現-フランス式
フランス人は、生まれてから死ぬまで「個性が正義」「個性を表現しろ」と教育されるそうです。
フランスでは小学生時代から、詩を朗読するのすら、感情をこめて自分なりに表現することが求められるそうな。 「無個性でいろ!」という日本式は辛いが、フランス式も中々厳しい。
ガンガン個性派がよいのか、個性を抑える方がよいのか、難しいもの。
②婉曲表現 - 日本式
日本語は内に秘める個性。個性を直接表現しない所に味がある。百人一首に出てくる恋の歌には、「あなたが好き」と直接表現されることはない。「好き」という言葉すら存在しないのでは?、と思うほど。
恋文の定番フレーズ
「我が袖は露に濡れつつ」。
婉曲表現すぎて、一部の西洋人には好意が伝わらないレベル。「袖が濡れてるなら着替えれば?」と言われかねない。
袖が濡れる→泣いてる→私はあなたを思っています。それも涙が出るほど。
この連想ゲームは、想像力がない人たちには無理ゲー。(日本では、この想像力がない人たちを KY と呼んだり。)
「相手は何を言いたかったのかしら?」「相手はどんな風に受け取るかしら?」これが曖昧さが生む風雅や味だと思う。
まあ、私は正真正銘の日本人なんだけど、曖昧なものの解釈・忖度は昔から苦手。私は英語を習得する前から、日本的文化への適性は低かったことは隠しません。古典は好きなのに。
2. アンニュイな音
世界の名作は、各国で翻訳されています。同じことを意味するのに、音の響きが言語毎にかなり異なる。
たとえば、ダンテの「神曲」
- イタリア語: La comedia divina (ラ コメディア ディヴィーナ)
- フランス語: la comedie divine(ラ コメディ ディヴィーン)
- 英語: Divine comedy(ディヴァイン コメディ)
なんとなく、英語が一番味気ないのが伝わるでしょうか?
フランス語、イタリア語に比べて音数が極端に減っている英語。少ない音節数で済ませられるのは、情報伝達には便利。が、その分、受け手が音の中身を想像する時間も要素も少ない。
曖昧な言語では、内容を伝えるのに必要な音数が多い。たとえば、数年前に流行った「アナと雪の女王」のテーマソングもそうだ。
英語:let it go (3回口を開けばOK)
日本語:ありのままの姿 見せるのよ(文字数、音数が圧倒的に増える)
※番外編
曖昧な言語でも、内容伝達に必要な音数が少なくて済む例外もある。使用頻度が高いフレーズは、音数が少ない。
例えば「愛してる」
フランス語:je t'ame(ジュテーム)
イタリア語:ti amo (ティアーモ)
ドイツ語:Ich liebe dich(イッヒ リーベ ディッヒ)
ラテン系男性が「愛している」としょっちゅう言っているために、こんなに少ない音節数でも「愛している」と表現できるのか。
イタリア人友人が、テレビ越しのサッカー観戦中にゴールした選手に向かって「ティアーモ!!」と絶叫していたのを思い出した。
打って変わってドイツ語。ドイツ語で「愛してる」と伝えるのに、音数も開口回数も多い。その位、意を決して伝えるもの、というゲルマン人の気概の現れか。
「愛してる」を「月がキレイですね」と訳した夏目漱石の独特なセンスも日本人ならではかも。
まとめ
決して英語は万能ではありません。文化に優劣がないと同じ様に、言語に優劣もありません。
適性は各言語によって異なり、その言語で学べる能力も深さも異なる。
適材適所、人それぞれの個性も全くそれと同じじゃないか。
英語だからって、崇拝する必要はない。英語ネイティブだから凄い!とか思う必要はない。どんな言語でも、くだらん下ネタは話されてるし、見たくもない下劣な落書きが公衆トイレに書いてあったりするのだ。
人の「凄さ」は、どの国に生まれたか、どの言語を話せるのか、では測れない。
英語話せない!と自分を卑下することもないし、だからと言って、焦って英才教育しなくてもいい。
結局大事なのは、「曇りなき眼」を持つことだ、…と自分自身に言い聞かせる。
科学には英語が適している?
私は、幼少期からの無理してバイリンガル教育は不要だと思っています。不要どころか、気をつけなければ害も大きい。
学費もバカにならないし、インターに通わせる気は更々ないが、今日はちょっと面白い学校の話を聞いた。都内のとあるインターは、「科学を教えるために適した言語は英語であるから、学校教育も英語で行う」という変わったコンセプトの学校があると聞きました。
「科学を学ぶには英語が適している」は、イギリスの大学の理学部出身である私も同感です。
なぜ英語が適しているのか?を私なりの考えを紹介します。
まず、私の言語背景から。
私が理解できる(またはした事のある)言語の中で、科学を学ぶ適性を比較してみます。ドイツ語も適してるんじゃかいかなー、と思えど、私はドイツ語わからない。
■日本語
はっきり、日本語は科学や理を学ぶ適した言語とは言えません。良くも悪くも日本語は曖昧。
科学とは「なぜ」を追求することであり、再現性と正確性が求められます。
曖昧さは、再現性と正確性を助けるどころか足枷です。 私が考える日本語が曖昧な理由は以下。
- 否定系 not の位置が文末
- 主語が無くても成立する文章
- 無数の助詞
- 無数の語順
それぞれについて、解説します。
理由その1:否定系 not の位置が文末
文末になるまで、否定型なのかは識別できない。「私はジョン、じゃないかもしれない」なんて言えちゃう。最後まで事の顛末がわからず、早とちりさんには不便、
理由その2:主語が無くても成立する文章
これは、日本語を英訳する時に大いに苦労する部分であり、元の文章を書いた人に確認しなければ誤解を生む翻訳になる。 たとえば、
- ① それ好き。
- ②私はそれが好き。
- ③ 彼はそれが好き。
①だけでは英訳できない。英訳できない、○○語訳できない、ということは、日本語を話す相手であっても理解できない人間が一定数居るということ。ハッキリと明確に書いた文章ですら、一部だけ切り取られて揚げ足取りされたりするのだ。曖昧な文ならばその危険性は高まる。
理由その3:無数の助詞
「てにをは」と言われる助詞が無数あり、使い方も一元化されてるとは言えない。
- これ【が】私の物です。
- これ【は】私の物です。
- これ私の。
英語にしたらどれも This is mine. 種類も多く、使い方も特に厳格な規則はない。これは無秩序・曖昧になりやすい。
理由その4:無数の語順
修飾語、目的語、前置詞などの語順に厳しい定義はない。
① スーパーで牛乳を買う。
②牛乳をスーパーで買う。
英語では I buy milk at a supermarket. I buy at supermarket, milk とはならない。
文章の発信の仕方、受け取り方が多様では、同じ実験を繰り返すことも、結果を再現することも困難になる。
■フランス語
日本語にある様な曖昧さは、フランス語では格段に減ります。以下は解決される。
- 否定系 not の位置が文末
- 主語が無くても成立する文章
- 無数の助詞
- 無数の語順
されど、仏語が科学を扱うに最適な言語とは言い難い。
私のフランス語スキルなんて、恥ずかしすぎて喋れるなんて言えませんが、ある程度は習ったし、南仏家庭にホームステイしたこともあるので、少しはわかる。
フランス語の曖昧さは発音にある、と思います。主な理由は、リエゾンと同音異義語。
理由その1 リエゾン
連なる単語をきっちり分けて発音するのではなく、繋げて発音する事があります。
たとえば、Comment allez-vous(英語の how are you?)。
単語毎に分けるコマン、 アレ、ブー ですが、実際の発音は「コマン タレ ブー」です。
comment 単体では t の発音はしなかったのに、後ろに allez が付いて来たので、 t と a をくっつけて、「タ」と発音する。
こうやって文字で見ている分には、各単語に分解して理解できるけど、音声情報しかない時はほぼ理解不能。
理由その2 同音異義語
仏語は英語よりも語彙数が少ないそうです。たとえば、
- like と love の単語が同じ
- 英語の both(両方)に当たる単語はなく、 le deux (英訳すると the two)と表す
- じゃが芋(potato)に当たる単語はなく、pomme de terre (英訳すると apple of the earth, 大地に成るりんご)
単語数が少ない事は、学ばねばならぬ語彙数が少なくて結構!と思いきや、そうでもない。少ない単語を組み合わせた表現を覚えないといけないので、楽でもない。
組み合わせる単語が多ければ多いほど、前述のリエゾン発生率が高まり聞き取りは更に難儀。(そもそも難儀すぎて、ここに来るまでに私は既に諦めている)
うっかり de terre の部分を聞き逃したら、じゃが芋の話をしていたのに、りんごとすり替わったりしているのだ。
「好き」とは like なのか love なのか、恋愛関係にあっては物凄く揉めそうな境界線だが、日常生活においては曖昧のままにして置いた方が良いこともある。(本題から逸れるのでこの話は避けます。)
されど、科学を学ぶのにはその曖昧さは致命的だ。
フランス語やイタリア語はラテン言語。ラテンの精神性は、どことなく乗りで生きてる感じが。乗りで生きるのは楽しかろうが、科学の学問との相性はピッタリとは言えないかも。
■英語
では、英語が本当に一番、科学を学ぶに適してるのか?
私が知る言語の中でおいては、一番適性が有ると言えます。情報を正確に、誤解なく伝えるにはあまり不便しない言語。
語順問題やリエゾン問題はない。英語の難点は、発音の規則性が低いこと。他のヨーロッパ言語では、各言語での発音規則に従えば、ほぼ外れる事なく読めます。たとえば、
- 仏語では h は発音しない
- 仏語では、単語の一番最後の子音は発音しない(除くリエゾン)
- イタリア語には j はない
- ドイツ語の v は英語の w にあたる発音をする(volkswagen はドイツ語ではフォルクスヴァーゲンと発音する)
が、英語での規則性の低さったら、比ではない。例えば
- daughter の gh は発音しないが、ghost では h のみ発音しない
- trace、case、cycle のように末尾(e)を発音しない単語もあれば、text、cup、pen などのように全ての文字を発音する単語もある
- banana の a のようにa を「ア」と発音する単語もあれば April のように a を「エイ」と発音する単語もある。
英語での発音の「例外」はいくらでもある。
■ドイツ語
私はドイツ語を知らないのですが、ドイツ人曰くドイツ語は英語よりも更にシステマチックであり、例外も少ない(またはない)とか。
より規則が多く、例外が少ない物理が、ドイツで発展したのもうなずける。ゲルマン人の厳格さや、ルールに忠実な所がハッキリと見える。
アインシュタイン、ケプラー、ハイゼンベルク、シュレディンガー、ドイツ語圏出身の物理学者が多いのもそういう訳か。
物理よりも例外的事象が多いのが、化学(chemistry)の世界。
自然界には多くの原則や規則があるが、例外も沢山ある。それを上手いこと映し出しているのが英語の例外たっぷりの規則性なのかもしれない。
決して私は英語を持ち上げたいわけではないです。それぞれの言語には、民族性が体現され、適している学問が異なる、と言いたい。
ゲルマン言語とは、語解を生みにくい正確な情報伝達がしやすい。軍隊内の通信にはぴったりでしょう。が、その分味気ない。英語が達者とは言えない留学前から、そう感じていました。
じゃあ他の言語に適してる学問ってなんなの?味って?というのは、次回に持ち越します。
架空のお友達「くっちゃん」
子供って、なんで、ほんの些細な事に体を張って泣き叫ぶほどこだわれるのか?
そんな疑問を抱き、子供たちのエネルギーの大きさに驚く毎日です。
親にとっては「そんな事」だったのが、なぜか長女れーちゃんには重大事だったらしい。そんなお話。
先月、主人は出張で北海道の倶知安(くっちゃん)に行きました。倶知安と言えば、中学受験の塾で、「読めない地名」として習ったこと以外全く知りません。くっちゃんってどこなの。
まあ、東京から倶知安に行くのも半日近くかかって恐らくもう二度と主人も行かないそうな。不便過ぎて行きたくないとか。
出張から戻った翌日の夕方、娘たちはパパとお風呂タイム。楽しそうだなー、と私は一息リビングで休憩してたら、なんだかお風呂からギャンスカ泣き声が聞こえるではないですか。
その時の会話(阿鼻叫喚付き)を再現します。
👨=パパ、👧=長女れーちゃん
👨 パパ昨日、くっちゃんに行ったんだー。
👧 !!れーちゃんもくっちゃんに会いたい!
👨 パパは嫌だ。くっちゃんにはもう行かないの。
👧 れーちゃんもくっちゃんと遊びたいぃぃぃ
👨くっちゃんは人じゃないの!だから会えないの!パパは遠いからもう行きたくないの!(話が通じなくて、堂々巡りで若干キレ気味)
👧 パパずるい〜!!れーちゃんも会いたいぃぃぃ
👨 パパは行かないの!れーちゃん一人で行けばいいじゃん(泣き声がお風呂に反響して、そろそろ本気で我慢ならなくなった)
👧 うわぁああぁあぁ
謎の押し問答が、我が家の浴室内で繰り広げられていた。この姉の泣き叫び声が響き渡る浴室で、次女ワカメちゃんは黙々と一人でお風呂おもちゃで遊んでる。二人目はメンタルも鼓膜も丈夫なのか。(※ワカメちゃんは謎のお風呂嫌いもすっかり治りました)
くっちゃんなんて見た事も聞いたこともない架空のお友達。くっちゃんと呼べる様な長女のお友達も実存はしていない。
そんな人に会いたい、そんな人と遊びたい、と、ここまで体張って泣き叫ぶ。
入浴中は当然裸なので、泣きながら割れてる腹筋を目の当たりにし、れーちゃんのエネルギーの高さを感じる。
そのエネルギーを、ぜひ違う所に振ってほしいもの。
浴室内での阿鼻叫喚は、本当にやめてほしい。こっちの鼓膜が破損しそうだ。
私が一番不思議なのは、れーちゃんの耳の作り。れーちゃんは、結構音に敏感で、大音量の音楽や強風の音が苦手なのに、自分の叫び声だけはうんぬん言わない。
内なる声は、全く違う聞こえ方をしているのか。まだ、私の腹の中にいた頃、私が悪阻が辛いとかこぼしていた弱音を、一体どう聞いていたのか、知りたいけど、知りたくない。
そんな雨の夜。
エリート:多様性から一番遠い存在
先日の「真のエリートと偽エリートの違い」の続き、「エリート:多様性から一番遠い存在」と、エリートを切り口から書きます。今回は宗教観から。
最近イスラエルに関する本を読みました。電車で体臭強い人と大きな体格の人に挟まれ、「今日は電車よ隣人運がないなー」と思う平和ボケっぽい私と、何千年と隣人事情が緊張状態なパレスチナ地方の対照的なこと。
イスラエルといえば、ふと、イギリス留学時代の友人、仮名クレア(フランス系ユダヤ人)を思い出した。クレアのユダヤ教徒らしい習慣を、「バカみたい」と笑うのか、尊重するのか。そこに人間の性根が現れるのかもしれない。
偽エリートならぬ、真のエリートならどう反応するのか?気になるエピソードを綴りました。
私のイギリス時代は、実に様々な人種や国の人に出会いました。「大学に行ける以上の裕福さ」は皆同じだが、宗教観や文化は、日本より多様だった。
ブブカ付きのイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、各宗教の各宗派がぞろぞろと同じ講義室や実験室で共に学ぶ。私はそんな大学で4年間を過ごした。宗教の違いなんて特に意識せずに。
※完全に余談ですが、異教徒よりも、私が苦手だったのはキャピキャピキラキラ女子。日本に居てもイギリスに居ても、苦手属性は変わらなかった。
私は寺の娘でありながら、特に何の戒律もなく生きて来た。そんなの修行僧だけだろ!と。ゆえ、戒律を守る一般人に触れたことはあまりなかった。だから、少しびっくりしたのです。
晴れた午後にピクニックをしながら、旅立つお友達に、お別れ寄せ書きメッセージを集めていたとき。
「今日は宗教上の理由から、文字を書けない」
ユダヤ教徒であるクレアは、戒律を理由に寄せ書きを断りました。
安息日がどうの、という話は19 歳の私には初耳だった。世界史の授業は、「ユダヤ人は迫害を受けた」ということしか教えてくれず、細かい戒律などの日常生活に関することは、何も、学ばなかった。
目の前の友人が自分とは違う習慣を持っている、ということは、何年も習った歴史の授業以上に世界を考えさせてくれた。
「戒律って大変だな。それじゃ土曜日は勉強できないってこと?」
これがユダヤ教に関して無知な 19 歳の私が抱いた感想だった。
学生は土日も勉強をする生き物。文字を書けない日のお勉強は、読み物に集中するらしい。
土曜日に文字が書けなかろうが、勉強できなかろうが、クレアは成績優秀だった。それ以外の曜日にしっかり勉強していたのだろう。
このエピソードを、東大卒の人に話したら、「(そんな戒律)バカみたい」と一蹴されたことがある。
クレアは私の友人である。バカにされて、なんだかやるせなかった。
バカみたい、と一蹴して良いことなのか?何千年も受け継がれている戒律や習慣を、他文化、他宗教の人が嘲笑っていいのか?
エリートこそ、人を嘲笑ったり、バカにしたりすることが多いのではないか?エリートこそ、多様性から一番遠い存在なのでは?
私はそう考えるようになった。
エリートこそ、一番多様性がない社会の層だと思う。
流行ってる「多様性」という言葉。2 年程前に書いたとおり、私は「多様性とか言ってる人は本当は、多様性なんて欲しくない」「ダイバーシティなんて嘘!」と考えてる。
組織によっては、多様性がなく、均一的であることが大事な場合もある。なぜここまで多くの人が「多様性」を求めるのか。本当に求めてる?
「多様性がないと業績が悪くなる…と、株主や投資家に思われるから。。」と邪推してます。自ら求めたものではない。だから、嘘っぱち、建前に見える。
組織の上層部が「組織の多様性が」と言っても、なんだか信用ならない。ワーキングマザーという少数派の立場から、それを痛感したこともある。
会社、とくに大企業上層部ってエリートが過半数。エリートって一番多様性がない社会の層だと思う。
良くも悪くも、この世はピラミッド構造です。社長は1人、管理職は20人、平社員は500など、上に行けば行くほど人口は減ります。
アンナ・カレーニナの法則は、「幸せな夫婦はどこも似た点があり、不幸な夫婦は家庭の数だけ不幸の形がある」と同じく、社会の上に行けば行くほど共通点が多くなる。
社会の上の層(金持ち)には共通点が多い。
大企業経営陣なら旧帝大や早慶出身者が多く学歴も経歴にも共通点が多く、平社員になればもう少しバラける。そんなイメージでしょうか。霞が関の官僚に至っては、旧帝大はおろか、東大じゃないと大した出世はできないと来ている。
共通点が多い人たちに囲まれていれば、自分は心地よい。自動的に自分が多数派になり、無理をせずとも「あいつは空気を読んでる」と認識してもらえる。
村社会のこの国では、そうして生きる方が楽…かもしれない。「少数派」「弱き者」の声を聞くとか、本当は結構面倒くさいもの。可愛い可愛い我が子であっても、面倒くさいことはあるのだ。
自分が多数派でいられるコミュニティにさえ属していれば、少数派について真剣に考えなくて済むのか?逃げ切れるのか?
いいえ、逃げ切れない。
どんな社会層に居ようとも、どんなに多数派っぽい人でも、何時でも自分が少数派になることが起こりうる。
例えば、もし、自分や家族が病気になって、車椅子生活になるとしたら?
多様性を!!と求めたり、「うちはこんなに多様性に富んでるのよ〜」とアピールしてる人たちにお願いしたい。
自分の視野がどれだけ狭いのかという現状認識をして欲しい。そして、「本当に多様性を求めているのか?」を問い直し、そう望まないのならば、正直に言って欲しい。
「うちの会社は多様性なんて要りません!」と明言するのは、勇気がいるかもしれない。
せめて、本音ではないなら、沈黙を守って欲しい。ま、これは私の個人的好みが強いです。見栄えの良い建前よりも、クソみたいな本音の方が、私はしっくり来る。建前怖い。
他者の習慣を上から目線でバカにする人口は、エリート層に一番多いかもしれない。
世界史の教科書で、〇〇年〇〇事変とか教えるのもいいけど、生身の人間を想像させる様な内容も教えて欲しかった。
「〇〇教には△△の戒律があり、理由は✕✕です。」
戒律にはそれぞれ、なんらかの理由がある。背景まで学ぶことこそ、真の理解への近道だと思う。
これまでの日本の知識詰め込み型教育では、こういったことは中々培われないのかもしれない。
隣人の事情
隣人運って、あると思いますか?
先日の私は、電車での隣人運がなかった。体臭の強い方や体格の大きい方に挟まれて…。
これまでの数々の私の隣人事情を書き出して、気がついたことがあります。
都内を走る電車の中で私は、東京、イスラエル、イギリスへと脳内で旅しました。
電車の隣人運がなかった、ってどういうこと?
やった!座れた!と思ったら右隣は体臭が強い方でした。
私はそっと、静かに空席の左側に寄り、なんとか凌いでました。空席だった左側には、ガッシリと体格の大きい方がやって来て、左側に寄るという選択肢は排除されました。
臭いか圧迫感か、どちらを取るか?という私の脳内攻防戦が始まったのです。30 分ほど同じ路線に乗りっぱなしなので、正直立つのは嫌だった。
臭い VS 圧迫感 VS 立つ
私は結局立ち上がるのは嫌で、臭いと圧迫感に耐えました。
左隣の人は何回か入れ替わったものの、いずれも大柄の方。私の脳内攻防戦は続いたのです。
私のこれまでの「謎な隣人たち」を書いてみた。
- イギリスの大学の寮 隣室の人に特に問題はなかったが、エレベーター間近だったので、人が集まって夜中も騒がしかった。油の足りないエレベーターが吐き出すギシギシした不快音は、生理中はイライラの種だった。もはや懐かしい。寮施設改善の意見箱には、「Oil the lift」(エレベーターに油をさしてくれ)と書いたことは忘れない。
- マンションの隣人(過去) かなり怪しげな隣人が住んでいた時がありました。引越し時に「父娘(親子)です」と挨拶していたものの、どうみても実の親子に見えない。夜な夜な変な音が聞こえてくるし、正直こっちはソワソワ(むしろゾワゾワ)して、挨拶以外は極力関わらないようにしました。その後、きちんとした雰囲気のご夫婦が引っ越してきて、ホッとしてます。夜な夜なの妙音もなくなり、変わりにすごく美味しそうなお料理の臭いや赤ちゃんの泣き声が聞こえるようになりました。新生児を久々に抱っこさせてもらい、幸せを分けてもらったり。
- 昔の家のご近所さん 隣…ではないのですが、中々変わったおばあ様が近所に居たのです。私の祖母が若かった頃から何かと問題を起こす方だったらしく、ここで書くのも憚られる様な不審行動に出る方でした。怪文書とか。イタズラ電話とかやっていたらしいです。
こうやって書き連ねて気づいたのは、電車の隣の席がどんな人か、なんて大した事はない、ということ。
電車なんて長くても一時間程度。新幹線でも3 時間ほど。住まいとは、一体何時間過ごしているのかわからない場所。住まいでの隣人運は大切かもしれない。
「当たり」を引くよりも、「ハズレを引かない」ことが大事かも。
イギリスの大学寮は、留学生がいきなり一人暮らしするのは大変だから入りました。複数ある寮の中から、適当に振り分けられた寮で、部屋も適当。同じ料金なのに、こんなににも騒音が違うのか…と愕然。学部生エリアは院生エリアよりうるさい。若気の至りがそのまま出るのか。
自分が買ってしまった家、子供と住んでる家は、簡単には引越しはできません。そもそも面倒くさい。隣人がよほどの変人で害がなければ、こっちも居座りたい。
実害を及ぼして、耐えきれないレベルでなければ、面倒くさがりの私は引っ越さずに済む。
電車に座って、脳内攻防戦を繰り広げていた私は、一体なんて平和なんだろう。と。
実はその平和な脳内攻防戦中に読んでいたのは、イスラエルに関する本。
あそこは隣人事情が、これまたややこしい。脳内ではなく、リアル攻防戦が繰り広げられるかの地では、こんな平和なこと言ってられない。
イスラエルと聞くと、大学時代のフランス系の友人を思い出す。敬虔なユダヤ教徒であった彼女は、聖地イスラエルへと移住した。果たして元気にしているのだろうか。
「イスラエル」に関する読書感想文は、私のユダヤ人の友人と重ねて、後日書きたいと思います。
しかし…人口の二割が味盲(味覚がない)と言われるイギリスでの寮の食事は本気で不味かった…。基本的に手抜き料理のイギリスで、量産される寮食。
不味い食べ物が平気だから、世界征服できたのかもしれない。
※イギリスの食事がすべて不味いわけではありません。料理人の個人差が大きいので、あしからず。