打たれ弱いママの徒然日記ー子育てや留学体験記など

打たれ弱いママの日々を綴ります。

本当は、分かち合うのが、苦手

あなたは分かち合うことできますか?

自然に?我慢して?それともできない?

 

私は、分かち合うことが苦手です。

 

先日の二児のワンオペ散歩の後、ドーナツを買って帰宅。

 

ドーナツが教えてくれた「分かち合い」についてのお話です。

 

ノーストレスで二児のワンオペ外出が過ごせたのは、ドーナツのおかげだった。

 

帰宅して、家族4人でおやつタイム。

 

長女れーちゃんと、次女ワカメちゃんは、イチゴチョコがたっぷり乗ったドーナツ。(二人ともイチゴそのものは嫌いなのに)

私はモチモチのポンデ黒糖。

主人はドーナツの円の180度分にチョコがかかったドーナツ。

 

私が、夫婦用にコーヒーやお茶を淹れてるその間、あっという間に、次女ワカメちゃん(2歳)は自分のドーナツを完食。

 

完食したワカメちゃんは、パパのドーナツをじーと見つめ、つぶやく。

 

「それなに〜?」

 

そりゃあ随分可愛い声で。

 

狙ってる狙ってる(笑)

 

もっと食べたいのかな、と、私のドーナツをお裾分けした。ポンデリングの一ちぎり。1/8ずつ、れーちゃんとワカメちゃんに上げた。

 

それでもなお、ワカメちゃんの熱い目線は消えない。パパのチョコドーナツ欲しい!!と。

 

主人はドーナツのチョコがかかった部分を、娘たちにおすそわけ。チョコがけの部分を分けるとは、太っ腹だなぁ…と、私は見ていた。私だったらお裾分けできないかもしれない。

 

私「チョコのドーナツ!いいね!」

 

嬉しそうにチョコドーナツを食べる娘たちを見てて、言った。

 

私「チョコのドーナツ、嬉しいね。いいなぁ!」

 

れーちゃんはチョコがけの部分を分けてくれた。私は子供たちから分けて貰おうなんて、微塵も考えてはいなかったのに。

 

「まあ!れーちゃん!あんたってばなんて良い子なの。」

 

そう言ってたら、つられてワカメちゃんもママに分けてくれた。

 

全員がわけあいっこしたドーナツタイム。ドーナツの奇跡。

 

私はこの出来事もこっそり、でも、しっかりと分析していた。

 

私はね、本当は、分かち合うことが苦手なんです。

 

生まれ持った性格のせいか、育った環境のためか、理由はわからん。が、基本的には自分の食べ物を分けるのは苦手。

 

5歳の娘が自ら、分かち合ってくれるのに、恥ずかしい。が、それが私なんだよねぇ。

 

今回、私は、自分のドーナツを娘たちに分けた。それも、ストレスなく、ごく自然に。

 

これが、肉だったら、きっと分けれなかった。

これが、ドーナツだから、自然に分かち合うことができた。

 

理由は、私が肉好きだが、甘党ではないから。

 

どの程度の肉好きかというと、大概、結婚式当日の花嫁は忙しくて食事を食べれないのに、私は肉だけは完食した。(しかも、これをきっちり友人に目撃されてた(笑))

 

私は、甘党ではない。だから、ドーナツを丸々一個食べなくても全然平気。むしろ一個じゃ多いかもしれない。

 

頼まれずとも自然に分かち合える5歳のれーちゃん、ママが喜ぶ!と知って分けてくれた2歳のれーちゃん。

 

分かち合うことが苦手な私から、こんな二人が生まれてくれるとは。

 

みんなで分けっこして、楽しかったおやつタイム。

 

今回は分かち合えたけど、いつもは中々分かち合えない、好物のお肉なら自分が凄くダメな人間に思える。

 

分けたくないのではない、私が沢山食べたいのだ。悪意はない。けど、決して褒められる行為ではない。

 

どうして、自然に分かち合える人と、それが苦手な人がいるんだろう。

 

どうして、私は前者じゃないんだろう。私は分かち合うことは、苦手だ。

 

子育ての嬉しいのは、子供たちの善良な心が表現されている時。

 

子育てが辛いのは、自分にはその善意が持てない時や、自分の辛い思い出が刺激される時。

 

「自分は子供時代、○○をできなかったのに、私の子たちはやってるよなぁ…」(嫉妬?)

「我が子程、こんなに性格良い子じゃなかった」(自責)

 

 

好物って、実は災いも伴うのかもしれない。好き過ぎて、人に分け与えることができなかったりもする。

 

ドーナツは美味しい。

が、一番好きな食べ物ではない。

 

その位の方が、シェアすることを嫌悪したりしないのかもしれない。有限のものに関しては。

 

自分の大好物であっても、自然と分かち合えるような人間に、なりたいなぁ。

 

子供たちが眠った後に、テーブルに一人座る。昼間は、ドーナツを仲良く食べていたテーブル。そこで、自分の至らなさに涙してしまう。

 

これと言って、特別ではなかったドーナツというお菓子が、私にとって特別なものになった。

 

ドーナツ屋さん、れーちゃん、ワカメちゃん、そして主人よ。みんな、ありがとう。

 

もっと、自然に分かち合える様な豊かな心のママに、少しずつ、なれる努力をするね。もちろん、自己犠牲はしない範囲で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふざけたペンネームか、実名か??

本を書いてみたい。

それは先日書いたとおり

 

それにあたり、悩んでおります。

 

 

実名で出すべき??

ペンネーム使うべき??

 

主人に相談したら、真面目にふざける答えが返ってきた。

 

主人に相談したら、キレッキレのエッジが効いてるペンネームにすべし、と言われたよ。

 

例1:「○○の会会長」。会員は私一人なのに、サークルっぽく振る舞う。

 

たとえば、理系、末っ子、イギリスかぶれ、という私の属性をとって…

 

  • 文系撲滅の会(文系になん罪もないけど、理系の私の逆恨み)
  • 第一子を潰す会(第一子になんの罪もないけど、末っ子の私との相いれなさを書く、とか?)
  • アメリカ英語を認めない会(イギリス英語至上主義)

 

など。主人の提案は面白いが、ちょっとエッジが効き過ぎ感が否めない。むっちゃ恥ずかしいペンネームじゃん。ものすごく極端!

 

例2:商標っぽく「○○の気持ち」。

たとえば、「理科の気持ち」。

 

理系の私、でもかなり感情的なところもあるので、「理科の気持ち」とな。

 

理科だけど、理科の理論じゃなくて、気持ちとな。気持ちだけど、理科??

 

おいおい、「ねこの気持ち」じゃあるまいし。

 

「理科の気持ち」ってペンネームだとしたら、どんな本を書くことになるんだろう。

 

 

オススメのペンネームがあったら、募集します。

 

私の一番身近な人(主人)がここまでぶっ飛んだ提案してくるので、どんな変化球も受け取りはします。

 

 

 

 

 

 

ドーナツが救ってくれた、ワンオペ散歩戦略

自粛中とはいえ、全く外出しないわけでもなく。娘二人を連れてお散歩に行った。

 

私は二児の母なのに、ワンオペで二人を連れ歩くのは苦手!めっっっっちゃ嫌!

帰宅時間とか、場所とか、コントロールできない感じが。二人それぞれが勝手な方向に行く監視が不可能になる感じが。

 

ゆえ、たかが散歩でも、戦略が必要なのだ。今日の散歩の戦略は3つあった。

もう、準備してないと不安な私。ネガティブ星人。(留学の準備は適当だったのに、性格でも変わったのか。)

 

戦略①:移動はママチャリ

自転車のチャイルドシートに縛り付け…もとい、座っているので、二人が別方向に行ってしまう心配がない。安全面でもこれが良い。

 

 

戦略②:キャラクターの魅力&適度な狭さ

公園の遊具で遊べない今、外の遊び場は少ない。その少ない遊び場が、窓越し(おもちゃのディスプレイが楽しめる所。

公園よりも狭い面積なので、監視可能の視野内に収まってくれる。

 

キャラクターやおもちゃに食いつく娘たち。おもちゃ屋のプロは凄いなぁ。物凄く、かわいく、魅力的に並べている。可愛くて買いたくなっちゃう♥(いや、買わんけど。)

 

娘たちが、プリキュアやすみっコぐらしなど現代のキャラに目を輝かせる中、私がセーラームーンのグッズに心惹かれていた事は内緒。セーラームーン。私にとっては永遠のスター。

ムーンスターパワー!(私が好きだったのはマーキュリー。)

 

戦略③:ドーナツ

自分のコントロールが効かない子供と一緒でも、自分の望むタイミングで帰れる魔法の言葉があった。

 

「さ、ドーナツ🍩屋さん行こう♪」

 

このワンオペ散歩もそろそろ辛くなりそう…。そのタイミングで、ドーナツ🍩ロケット、発射。

 

 

砂鉄が磁石に引き寄せられるように、れーちゃんもワカメちゃんも、走って自転車に戻った。笑いながら。

 

砂鉄が引き寄せられる様ってそんなに美しくないんだよねぇ。ここで砂鉄が頭に浮かぶ私のセンスって…(´・ω・`)。あ、砂鉄の波紋の形はキレイなんですよ。

 

 

ドーナツの魔法により、ワンオペ散歩は無事に終わり、帰宅に至った。恐怖の二児のワンオペ散歩も、一度もイライラせずに済んだ。私にとっては、奇跡に近い。

 

そして、ドーナツの魔法は、帰宅してからも続く。

 

続く

本を書いてみたい

このブログは、次女ワカメちゃんが生まれてから始めたもの。(これが初記事!)

ブログもワカメちゃんもこの夏で3歳。

 

三周年を記念して、本を出してみたいな〜。

 

とはいえ、どうやって作るものなのか。

 

「本を書いてみたい」願望はずっとあったものの、それを公言したことはない。なんか、恥ずかしいし、ずーっと尻込みしていた。

 

その尻込みがある中、なぜそれをブログで公言しようと思ったのか?を書きます。

 

結構恥ずかしいのーーー!

 

「本って、どうやって作るのか?」

 

内容の書き方について、2月に「電子書籍の作り方」一日講座に行った。

 

講座では「自分のコミュニティを作ろう」的な話をされたが、これ私、とっても苦手で!!!

 

こう、セルフプロデュース?とかコミュニティ作りに対して強烈な苦手意識があって、進まない。書くだけなら何の抵抗もないのに。。

 

でも、きっとこれを進めなければならないんだな、と先日感じた。

 

自分と向き合わなければ。

 

と。

 

きっと、本を書いてみることが、それにつながる、と。

 

そう思うきっかけをくれたのは、湿疹だった。

 

原因不明の湿疹が、しかも顔全体。

 

アトピー体質で、肌荒れには慣れるが、顔の肌荒れには慣れていなかった。

 

ボッコボコの真っ赤な顔に。鏡を見る度に落ち込むし、顔全体を掻きむしりたい痒さと苛立ちを感じた。少しでも暑くなると顔の赤みが増す。

 

どう考えても、原因はストレス。

 

どんなストレスって「自分らしい活動をしていない」ストレスだと思う。

 

家事も子育ても大事だよ。でも、私は、仕事がしたい。

 

コロナの影響で、仕事は全キャンセル。新しい仕事探しって感じでもない。

 

考えると「保育園がない今は仕事はできないよ」と、ストレスになる。だから、自粛中に仕事のことも、自分らしい活動のことも、蓋をしていた。本当は、そういうことを考えるのが大好きなのに。

 

自粛中は、子育てと家事しかしてなくて、そんな自分を見つめるのが嫌で、自分と向き合うことを避けていた。

 

「そうするとストレスになるから」と、如何にもな言い訳もつけて。

 

自分の感情に蓋をしていたら、体から危険信号が出てきた。それが顔が赤くボッコボコになる湿疹だった。

 

コロナの現状はどうしようもない。家にいるしかない。子供を、家族を、守らなければならない。

 

そんな中でも私が続けていることが、ブログだった。

 

この状況下でもできる、私にとっての「自分らしい活動」って、本を書くことかもしれない。

 

そう思って、友人のご紹介で、出版のプロに相談してみた。予約をした時から、顔の湿疹が改善されてきたのでびっくり。

 

ちょうど、昨夜、出版にプロとのセッションだった。

 

昨夜には、お肌もほぼ、元通りに。

 

 

死ぬような病ではないが、これまでも、病気で苦しい想いも沢山した。けど、病気がもたらしてくれた学びがある。その学びがなくては、今の私も、家族もいないような学びが。

 

 

結局は、病気ってのは、私に何かを決意させてくれるものなのかもしれない。何か、現状を変えるための決意を。

 

 

 

PS「このブログ記事面白かった」というものがあれば、教えてくださると嬉しいです♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宗教は支配の道具。一神教は特に。

コロナにより、お祭りが軒並み中止・延期になっている。

 

東京の江戸っ子育ちである私は、お寺(仏教)の娘といえど、祭り(神道)と共に育ってきた。

 

そんな街でも、日曜日は、教会の礼拝の鐘が鳴り響いた。

 

神道、仏教、キリスト教、そんな複数の宗教が入り交じる中、一神教多神教の違いでも論じてみようと思う。

 

日本語で祭り、英語でfestival。人が集まって何かをお祝いするというのは同じだが、決定的に違うのは神の居場所。

 

人間が神のおはす場所まで、足を運ぶのか。

神が人間の所まで、来てくださるのか。

 

祈りという行為を、いつどこで行うのか。それが指定されるのが一神教であり、指定されないのが多神教だと思う。

 

キリスト教の教会も、イスラムのモスクも、一箇所に一つであることが多い。小さな村では「教会」といえば一箇所に限定される。そして、決まった時間に礼拝があり、そこに人が集まる。

キリスト教なら日曜の午前礼拝、イスラム教ならば1日5回のお祈り、などといった所だろうか。

 

神社というのは、村に一つだけしかない、とは限らない。一つの村の中に、稲荷神と龍神、寺院が共存することは多々あるし。だが、日単位、週単位、月単位と短い周期で繰り返す、決まった時間でのお祈りはないと思う。

 

寺の坊主が毎朝御経を読むことはあれど、宗教関係以外の人がそれをするのは稀だ。(私の父は仏教寺院の住職だが、仕事以外に御経を読んでるのを聞いたことはない。遥か昔、私が生まれる前には御経の練習してたのかしら…)

 

※仏教は、多神教なのか、一神教なのか。議論はあれど、私は仏教は多神教だと思う。理由は、仏は複数種類存在するから。(菩薩が出世したら阿弥陀になる、など。キリスト教世界では、「大イエス」とか「中イエス」なんて存在しない。そんな呼び方したら不謹慎と言われそう)

 

いずれの宗教においても、お祈りや日頃の感謝は良きこととされており、それには全く同感。

 

その場所や時間を指定するのか否か。

 

そこに大きな違いがありそうだ。

 

時間も場所も指定しないからこそ、「神輿」という存在が思いつくのだ。神輿は、英語では portable shrine 、持ち運び可能神社。人間に担がれた神様が、氏子の町を見回り、人々は祈りを捧げたり、酒を浴びたりしているわけだ。

 

キリスト教文化で育った欧米人には、非常に理解しにくいコンセプトだ。

 

彼らにとっては、人間が神様のもとにわざわざ足を運び降臨を願うものであって、神様を担いで歩き回るなんてとんでもないこと。

 

唯一神の発想である多神教では、「神が今、ここに存在するならば隣町には今いないのではないか」とか思うのだろうか。(同時時刻に、2つの場所には存在してはいけないミッキーマウスのようだ。そういう意味では彼も神格化されているか。)

 

 

まあ、彼らにすれば、神を担いで歩き回ること自体がとんでもないのだ。

 

 

宗教とは古来から、人々を支配するための道具として使われて来た。

その昔のキリスト教会議でも、三位一体説が選択され、一神教色がますます強くなった。他説は認めない!的な。

 

  • 場所(教会?モスク?)
  • 時間(礼拝タイム?)
  • 行動(お祈りの時の呟くセリフ、歌、お辞儀の仕方など)

 

場所も時間も行動も指定したら、支配しやすいのかなぁ…

 

 

日曜の朝に聞こえた、教会の鐘一つでここまで思いを巡らせる私ってば、なんと気難しいことか。

 

こんな脳みそだから、自粛の苦しさの中、本が破けて泣くほどストレスを溜めてしまったのだろうか。

 

いずれにせよ、宗教は今も昔を支配の道具に使われている。姿形を変えて、きっと、人類と共に存在し続ける。

 

※私は宗教のプロでもなんでもなく、私が書いた各宗教の習慣なんて、てんで、間違ってるかもしれません。あくまで個人的意見ですので、あしからず。不快な思いをされた敬虔な信者さんがおりましたら、この不届き者に一言教えてくださると嬉しいです。

 

破けた本と、散歩と、夕陽と

どんなに子供を愛していようとも、我慢強かろうとも、24時間子供と一緒にいるのは辛い。離れる時間だって大切なのだ。

 

そして、私はぜんぜん我慢強くない。

 

どんなにインドアな人でも、どんなにストレス耐性が強くても、コロナ下ではストレスが溜まるし、精神崩壊することもある。

 

インドアでもない、ストレス耐性も低い私。

精神崩壊した瞬間が、あった。 

 

小さい子供の親の共通の悩みは ↓

  • まとまった自分の時間が取れない
  • 何事もすぐに中断される
  • (二人以上子供がいる場合)すぐに子供同士が喧嘩する(かなりウルサイし、要仲裁なことが多い)

 

一日24時間の中、ずっと子守といえど、合計すると割と自由時間はある。けど、それはものすごーーく細切れな時間の集まり。2分ずつ、5分ずつ、長くて10分。

 

洗濯物を干すのも、自分の食事を食べるのも、掃除も、何から何まで、常に中断されるのが小さい子供との生活。

 

この外出自粛生活の中、私は読んでみたい本も沢山ある。本当は、本を読みたい。けど、2分だけの時間、5分だけの時間の読書ってすんごい難しい。

 

電車通勤してた頃は、乗り換えまで5分の電車でも読書していることもあった。

 

「決して誰かに邪魔されない5分間」

と、

「いつだって、邪魔される可能性が大いにある5分間」 

 

は雲泥の差。

 

要するに、「自分の時間や人生をコントロールしてる感」が皆無で、一番ストレスになる。

 

読書ってそもそも、没入するのにちょっと時間がかかるから、2分だけ読むなんて難しい。小説みたいに前後の流れが大事なものは特に。

 

テレビを見ている間、集中して遊んでいる間は、親が手出ししなくて良いことが多い。

 

「あ、私が少しだけでもフリーになれそう。10分くらいは!!」

 

と期待して、積読していた本を見始めたら、2分目で邪魔が入った。仕方なく、本を置いて子供の相手。

 

その後、気がついた。

 

その私の本の表紙とページ一枚が破けていることを。

 

どうやら次女が破ってしまったらしい。

 

破けた本を見つけた瞬間、私は泣き出して止まらなかった。

 

読み始めて二分後に邪魔されるとイライラすることがわかっている。イライラで当たってしまうのは良くないから、読むことを我慢していた。子供たちのために。

 

それなのに、私の本を破いた。

 

父に借りた古い本。50年前出版の本だから、紙も表紙も傷んでる。それを大事にしながら、少しずつ読み進めてたのに…

 

それまでの我慢やストレスが、破けた本をきっかけに、とどめなく涙として出てきた。

 

わざとじゃない。絶対にわざと、破いたんじゃない。そうわかっていても、破けた本を見たら涙が止まらず、しばらく泣き続けた。

 

あまりにもママが泣いてるので、娘たちもびっくりしたらしい。自分がした事の重さを知った次女は、泣きながら謝ってきた。

 

「ママ、ママの絵本、ごめんね…」

 

と。

 

ママも大人げないよね…本が破けたくらいでこんなに泣いて…。いや、泣いた理由はそれだけじゃないんだけど、子供にはそう見えちゃうよね…。

 

精神の限界が来たと悟り、気持ちの切り替えのために、家族四人でお散歩にでかけた。大きめの公園に。夕方だったので、人も少なく、気温も下がり、夕陽もとても綺麗だった。

 

散歩は非常に良かった。

 

家の中ではおもちゃ取り合いの姉妹喧嘩が多発するが、お散歩中は喧嘩しないし、森の中の空気は気持ち良いし、みかん色の夕陽がなんだか心を癒やしてくれた。

 

さんざん泣いていた家に帰ったら、全く違う気分だった。

 

薄く紫がかった西の空を見ながら、思った。

 

「空ってこんなに綺麗なんだ」

 

と。

 

なんだか、一つ悟った様な気持ちだった。

 

密になる場所に出かけるのは良くない。けど、外出自粛だからといって、100時間も自宅にいることもできない。

 

誰だって、狭い場所にずっとずっと押し込められたら、おかしくなる。

 

 

散歩って素晴らしい。

 

これほどまでに、散歩の素晴らしさを思い知ったことはない。

 

本が破けたことは悲しいけど、破けたのは表紙と巻末の広告だけ。セロハンテープで、主人がきれいに直してくれた。

 

破けた本があったからこそ、散歩の素晴らしさも、空の美しさにも気づけた。

 

 

鬱々してきたら、皆様も散歩してみましょう。人混みは避けて。

 

 

散歩ができないときは、夕陽を見ましょう。窓からでもいいから。

 

 

 

 

 

遊具は禁止、パチンコは開いてる事への怒り。

未就学児と24時間、外出自粛の日々。皆様どう過ごしていますか?

 

我が子は二人共、0歳から保育に通っている。ゆえ、こんなに長期間、24時間未就学児二人の子守をするのは初めて。

 

幸い、長女れーちゃん(5歳)も次女ワカメちゃん(2歳)も結構インドア派で助かってはいるものの、運動も必要なので、数日に一回は公園に行っていた。

 

大好きな滑り台、大好きなブランコ。

 

「立入禁止テープ」の貼られている、娘たちお気に入りに遊具が使えなくなった。

 

感染防止を考えたら、遊具禁止になるのはわからないではない。涙を飲んで、違う遊びをした。ストライダーに乗ったり、鬼ごっこしたり、階段で遊んだり。

 

子供たちの数少ない楽しみであった、公園の遊具。それが奪われた。

 

仕方ない。

 

仕方ない…

 

けど、

 

なんで公園の遊具はダメで、パチンコ店や風俗店は開いてるのか?

 

遊具を使って思い切り遊ぶことは、子供にとって楽しくもあり、身体発達のために必要なことだと思う。

 

それでも禁止しなければならないこの状況であるならば、

 

パチンコや風俗もいらないのでは?

 

パチンコ風のゲームは、スマホやテレビでもできるし、風俗って…それこそ我慢しろよ。

 

学校が休校になっても、保育園が休園になっても、公園遊具が禁止になっても、未だにパチンコや風俗に行く人の気がしれない。

 

そして、遊具を禁止する権限がある人が、なぜパチンコや風俗を厳しく取り締まらないのか。

 

大人の事情があるのだろうが、全然納得が行かない。

 

おっさんの欲望は禁じないし、さしたるお咎めもない。

子供の楽しみや成長に必要なことは、禁止する。

 

 

権限がある人は、おっさんがほとんど。おっさんはおっさんの欲望には甘いものなのか。

 

 

こういうのをダブルスタンダードと呼ぶ。

 

 

こりゃ少子化にもなる。

 

いつか、今の子供たちもしょうもない「おっさん」になってしまうのか。(既得権益おっさんを再生産しているのは、男性だけではなく女性にも責任がある。特に、「都合良い良妻賢母」をやってると、息子はダメおっさんになる可能性高い。)

 

いつかまた、公園の遊具で楽しく遊ぶ娘たちを見たいなぁ。

 

 

早く、そんな日が来ますように。

 

それまで、家で、ケーキを焼いたり、掃除を念入りにしたり、ぬいぐるみでお店屋さんごっこしたり、とお家で過ごす工夫をするしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラピュタのパズーに注意する5歳児

曇りなき眼で世の中を見る子供の発言は面白い。

 

先日、長女れーちゃん(5歳)と次女ワカメちゃん(2歳)と「天空の城ラピュタ」を見た

 

れーちゃんってば、とあるシーンで、シータとパズーを注意してた。

 

再びラピュタネタです。

 

問題のシーンとは、地下に逃げ込んだパズーとシータが、目玉焼きが乗っかったトーストを食べる所。

 

ここは私にとっても印象深いシーン。私の子供時代は、同じく目玉焼きトーストを作り、画面の向こうのパズーとシータと一緒に目玉焼きトーストを食べたりしていた。

 

れーちゃんは、この二人の食べ方に注意していた。

 

「パンと一緒に食べないといけないのに、目玉焼きだけを先に食べちゃったよ!!」

 

と。

 

(@_@;)

 

主食を食べずにおかずばかり食べようとする子供に、私は注意するのだ。「ご飯も食べないと!」と。親からのこの注意を聞き過ぎて、パズーとシータも諌めようとしたのか。

 

ちなみに、「ご飯も食べなさい」と注意されるのは大概妹のワカメちゃんの方。

 

れーちゃんは好きなものは最後まで取っておくタイプ。

ワカメちゃんは好きなものは最初に全部食べちゃいたいタイプ。

姉妹とは思えないほど性格が対照的な二人。ぶっちゃけ、同級生だったとしたら、れーちゃんとワカメちゃんが仲良くなるとは考えにくいが、喧嘩しながらも二人は仲良し。兄弟の縁は不思議だ。

 

 

自分に対する注意でなくても、耳にタコができるほど聞いている言葉は、脳内に刷り込まれているらしい。

 

 

アニメの主人公に対してまで、食べ方の注意をするとは…。娘の言動を見て、我が身を振り返る。

 

 

私ってばそんなに注意しているのかしらん…親として、果たしてこれでいいのか…(と、きっと永遠に思い続けるだろう。その時のベストを尽くしてもそんなものだと思う)

 

 

しかし…緑の常夜灯を見て「飛行石だ!」と言ってたのも、パズーの食べ方を注意するのも同一人物。それが、長女れーちゃん。

 

きっとれーちゃんは、ちょっとした不正も見逃してくれないに違いない。真面目で安心できるのか、それとも親を注意するようになるという点で不安なのか。

 

何事にも二面性を感じる春の夜。

 

 

 

 

 

自粛生活中にやめたこと

外出自粛でどうやっても、ある程度ストレスが溜まる。それは誰しも同じ。

 

「自粛中に○○始めました」という投稿が多い中、私は反対を行く。「自粛中に○○辞めました」を投稿します。外出自粛ストレスに少しでも有効かと思います。

 

その一:アラームを設定しない

そのニ:朝ごはんを辞めた

…などなど

 

です。

 

 

我が家の「自粛中にやめたこと」

その一:アラームを設定しない

 

どこに出勤するわけでも、子供たちを何時までに登園させる必要もなく、ただただ、「子供たちとどうやって時間を潰すか」が一番大事な今。アラームを全て消した。

 

アラームではなく、自然起床まで待つスタイル。

 

子供たちの声や足音がアラーム変わりになることはあれど、基本的には自然起床。子供に夜起こされなければ、かなーり体的には楽! 

 

放っておくと朝10時近くまで、家族全員寝てたり。潰さないとならん一日を、睡眠で潰せる時間が増えるのはありがたい。

 

(こんなこと書いていたら、今朝は長女れーちゃんに明け方6時に起こされた💦ので、もう一度寝かせたり)

 

我が家の「自粛中にやめたこと」

そのニ:朝ごはんを辞めた

この外出ほとんどしない生活で、ぷよぷよしてきた。お腹が。特に下っ腹が。

 

筋トレも持久走も、そもそも嫌いな私はあんまりこれやりたくない…けど仕方なく20回くらいはスクワットしてる。

 

なかなか減らない下腹の贅肉の対処法を色々調べたら、プチ断食(一日の間12時間以上食べない時間を作る)が有効とわかった。そのために朝ごはん抜きにしてみた。

 

なかなか減らなかった下っ腹肉が、プチ断食数日で減ってきた気がする。

 

総摂取カロリーはさほど変わらないので、体重は減ってないが、見た目が変わった。私の目的は減量ではなく見た目重視なのでこれでOK!

 

私の場合、体重落とし過ぎると風邪をひきやすくなる。免疫上げるべき今に、体重をむやみに落とすのは愚策。

 

下っ腹贅肉も減るし、洗う食器も減る。どうせ起床時間も遅いし、特に問題なし。

 

あ、子供たちには朝ごはん、食べさせてますよ。

 

我が家の「自粛中にやめたこと」

その三:仕事の事を考えるのを一旦辞める

 

この事態により、キャンセルになった仕事も多く、今に仕事を探す感じでもない。そもそも、保育園も休園で、24時間子守しているので、職を得られたとしても仕事に集中できる環境ではない。何かを勉強するにしても、環境的にもモチベーション的にも厳しい。とりあえず、保育園が再開するまでは、隙間時間にマイペースにできることだけをやることにした。

 

その一つが、「online party market」のお手伝い。今、経営が厳しい飲食店を応援するための企画です。飲食店の写真を購入して、ZOOMの背景画に使いオンライン飲み会の雰囲気を出す、というもの。購入代金は各店舗への応援金になります。

 

 

本当にちょっぴし、これのお手伝いをしてます。良い感じの飲食店があれば、問い合わせてみてください!

 

 

辛いのは自分だけではない。むしろ、こんな中、私はかなり恵まれている。今、自分ができることは、外出を控え、終息を祈り、応援したい人を応援すること。

 

もちろん、人助けは自己犠牲しない範囲で

 

全国のお母様方、こんな時でも、自己犠牲の家事は辞めましょう

 

 

 

 

5歳児の飛行石

あの地平線〜♪輝くのは〜♬

 

先日、娘たちと「天空の城ラピュタ」を見た。

 

30年ほど前に初めて見たあの映画は、色褪せることなく、この年になってもワクワクさせてくれる。

 

数カ月前にも、見せようと試みたが、ロボットVS軍隊の地上戦のシーンでびびりまくった娘(長女れーちゃん5歳)は、「もう見るの辞める」と断念。やっと今回通しで見れた。

 

洞窟の中で、落下中のシータを助ける時、空浮かぶラピュタ島の中で光り輝く飛行石。

 

それを見終わった後、廊下の緑色の常夜灯を指さして、れーちゃんが言った。

 

「あ!飛行石だ!!」

 

 

と。次女ワカメちゃんも「飛行石だ!」とキャッキャ騒ぐ。

 

 

いつもそこらへんにある光を飛行石にたとえるとは、子供とはなんと可愛らしいことか。

 

 

私も子供の頃、何十回と見た名作。「(昔見ていたビデオテープには)このシーンとこのシーンの間にCMが入っていた」という所まで覚えるほど見たラピュタ。(見すぎ)

 

 

「土から離れては生きてはいけない」

 

 

子供の頃は、シータのこの言葉の意味がわからなかった。

 

そう、浮足立ってフラフラふわふわしていては、生きてはいけない。地に足をつけることの大事さ。英語にもね、「地に足がついてる(down to earth)」という慣用句があるほど。

 

大人になり、身近な光を飛行石に喩える想像力は失っても、哲学的な言葉の意味をわかるようになった。

 

大人になるって何だろう。

 

常夜灯が飛行石に見える方が幸せなのか、地に足をつけることの大事を知る方が幸せなのか。

 

 

30年経った今も、考えさせるラピュタ。これが世代を超えて語り継がれる所以か。

 

 

 

資本主義と民主主義の限界を感じる

引き続き、政治のお話を。

 

今現在に関わらず、コロナ騒ぎの前も最中の今も、政府は株価やら経済を中心において政治している。

人命よりも、貧困層が家賃を払えないことよりも、「株価が大事」と言ってるように見える。

 

 

政治って株価のため?

政治って投資家のためのものなの?

政治って、なんのためにあるの?

 

 

資本主義って、民主主義って、なんなんだろう。

私は、そう感じる今日この頃。

 

 

 

株価は、巨額の富を持つ投資家たちに左右されるもの。特定の会社や事業を応援するために、株を買うこともあるかもしれないが、大概は身銭を切ってまでではない。自分が損をする、しそうな場合は株を売りさばくのが常。

 

勝馬には乗りたいけど、自分は損したくない。

 

「損したくない」

 

というのは、人間ならば誰しも持っている気持ち。

 

それなのに、なぜ、人口の一部である投資家という人種の「損したくない」は尊重され、その他大勢の「損したくない」「コロナにかかりたくない」は軽視されるのか。

 

 

「弱きを助け、強きをくじく」のが、全うな政治じゃないのか。

 

数年前、時代劇で聞いたこのセリフ。このセリフを吐いた大名※は、生涯、胃が痛いような立場に立たされる人物だった。

※「真田丸」の上杉景勝

 

 

経済的に特別待遇枠の資本家たちが、政治的にも優遇されるのか。それって民主主義って言えるのか?

 

今までも、モヤモヤっとした疑問はあったが、ここまで言語化できるようになったのは、最近読了した本のおかげだ。

 

 

それは、ブレイディみかこ著の「This is Japan 」。ブレイディ氏は、貧困家庭出身で、渡英するための費用をホステスして稼ぎ、今ではイギリス在住の保育士という異色の経歴。セレブ層から貧困層の子供の保育を幅広く経験しているので、視点が面白い。

 

ブレイディさん曰く、昨今のネオリベ新自由主義)・緊縮財政の結果割を喰った人々の不満が爆発した結果が、極左、極右などの勢力を生むに至ったとか。割を喰った人々は、叫んでいた。

 

「経済にもデモクラシーを!」

 

と。

 

経済界は全くデモクラティック(多数決が採用される)ではなく、一部の金持ちたちの思うがままだ、と。

 

資本主義とは、資本を、お金を沢山持っている方が偉いし強い、という仕組み。

 

民主主義は多数決の意見が採用される仕組み。

 

それぞれ別次元のことなので、資本主義✕民主主義は存在しえる。

 

世界の主要国は資本主義✕民主主義が多いし、日本も同じ。

 

果たしてこれが、人間にとって一番幸せなんだろうか?

 

民主主義にも悪いところはある。(民主主義が完全に正しいなら、ナチスユダヤ人迫害も、原爆投下も、何かもかも「正しい」ことになってしまう)

 

資本主義の悪いところが、今、このコロナ騒ぎで浮き彫りになっている気がする。

 

資本主義は、頑張った分だけ認められるしモチベーションを保てるのが良いところ。ただし、景気が落ち込むと、にっちもさっちも行かなくなる。

 

20世紀初頭の世界恐慌中は、計画経済を実施していたソ連の方が安泰に見えた。そしてそれもまた問題含みである。

 

どんな経済の仕組みも、政治の仕組みも、弱点はある。

 

私が物心付いたときには、ソ連もベルリンも崩壊していた。ついでにバブルも崩壊していた。

 

だから、共産主義による良さ悪さも、資本主義の良さも肌では知らない。歴史から学ぶ事しかできない。

 

これまで数十年生きて来て、思う。

 

普遍的にベストな経済の仕組みも政治の仕組みもない。結局は、どんな人間が、どんな意識で運営するかにかかっている。

 

 

資本主義を盲信してもいけないし、民主主義も盲信してはいけない。決してベストなシステムなどなく、時代に合わせて変化していく必要がある。

 

とりあえず、この外出自粛の今、少しでも楽しみを見つけようと頑張る。たとえば、服装。

 

保育園も休園だから、自転車の送り迎えがない。ゆえ、普段はあまり着れないスカートやワンピース、ハイヒールを身にまとおう。

 

行き先なんて、スーパーと公園だけだけど。

 

今だからこそ、オンラインでファッションアドバイスなんかもできるかなー。

ご興味ある方がいたら、教えてくださいな♪

 

 

 

 

 

 

 

ブラック企業とおバカ政府の共通点

コロナウィルスの検査ではPCRが使われている。PCRという単語をニュースで聞く日が来るとは思わなかった。

 

私が初めてPCRという単語に出会ったのは、高校(イギリス時代)の生物の授業でのこと。2004 年位だったかな。

 

知っている人も多いとは思いますが、PCR

polymerised chain reaction の略で、遺伝情報を含む物質が少ない場合でも、検査・調査可能にするために遺伝子情報物質を増やせる技術です。遺伝子の構成要素である塩基は4種類あって、AとBは必ず対になり、CとDは必ず対になる、という特性がある。このペア特性を利用して、少ないDNAサンプルからでも多くの検査用サンプルを複製できる。※詳しくはウィキペディアなどで

 

PCRは、広範囲の人の検査に使われることはそうは多くなかったかもしれない。PCRなんて知らずに生きて行ける人も沢山いる。 

そんなPCRが、毎日毎日ニュースに出てくるようになるとは…

 

私が今回伝えたいのは、PCRの話ではなく、「いつ何時、どんな知識が役に立つのか、時の情報となるのか、わからない」というもの。

 

PCRの仕組みを知ってる所で、感染防止には役に立たない。ただ、検査にどれほど手間暇がかかるのか、は想像しやすい。実験などで見たことがあるから。PCRは、工数も多いし、時間もかかる。検査場ももちろん、細菌やら技師の唾などが入らないようにきっちり管理しないと、病人じゃなくて技師の遺伝子を複製してしまったりするから、その辺の管理も徹底しなければならない。

 

決して新型コロナは他人事ではない。

 

医療現場で戦う友人も沢山いるし、ここ数日では「知り合いの知り合いの知り合い」くらいの感染者が出だしている。

 

にも関わらず、「どこまで行っても、俺たちには関係ない」と言わんばかりにコロナ騒ぎを他人事扱いしている政府に、閣僚に、もう、呆れるのにも疲れた。

 

この政府の有様を見て、中学生時代の私を思い出した。

 

私はイギリスに6年間留学生していた。

 

私が留学するに至った最初の起源は中学時代。

 

当時中学生だった私が、日本の国会中継を見て、「この国はヤバイ。お先真っ暗!」と感じた。国会では、まともな議論など存在しない。あるのは野次と罵倒だけ。「この国はヤバイから、いざとなれば他国でも生きれるようになりたい」が留学動機だった。

 

残念ながら、あれから20年近く経過した今も、日本の国会は変わっていない、若しくは悪くなっている。

 

日本は昔、「経済は一流、政治は三流」と呼ばれていた。今は経済は一流とは言い難いし、政治なんて三流以下じゃないか。

 

日本はこれまで、国民が頑張ってきた。政府ではなく、国民の頑張りによって、経済が成長したり景気回復したりしていた。

 

しかしながら、ウィルスを相手にした時、個人個人の頑張り(徹底して外出を控える)だけではどうにもならないと思う。 

 

外出を控えることは、個人の意志でできる。けれども、働き口を得ることは個人の意志だけではどうにもならないのだ。

 

 

ブラック企業の何がブラックって、経営者の視界ですね。何にも見えてない※」なんて言ってる人もいたが、この国の中枢政府の視界は正にブラック。

 

 

 

20 年経っても、「この国はヤバイ」状態は変わらない。あと何十年経ったら変わるんだろうか。

 

 

 

 

※この動画の彼に「喋り方が似てる!」と言われて、YouTubeで見てみたらあらびっくり。マジで私と喋り方が似ている。発信内容が面白いので、適度にフォローしてます。毒舌っぷりが痛快でオススメ。