見ても嬉しくないSNS投稿①
この外出自粛中、流行っているもの。SNSに頻繁に現れる投稿。
- オンライン飲み会(お茶会)
- 「美味しいごはん作った♥」写真
- ブックカバーチャレンジ
申し訳ないが、これが、外出自粛中の今の私の心が浮かない三大SNS投稿たち。
誰が何を投稿しようと自由だから、とやかく言うつもりはないが、どうしても、これらを見ても嬉しい気持ちにはならない。
なぜ私の心が浮かないのか、考えてみた。
その一:オンライン飲み会
私は、今、オンライン飲み会(お茶会)に、全く興味がない。
24時間子供たちと一緒の生活。大人の自由時間は、子供の就寝〜自分の就寝時間のみ。
「たまたま20分だけ子供たちが大人しくしてくれていた」など、偶然、結果的に自由時間になった時間ではない。
確約された一時間、二時間が欲しい。それができたら、読むのを我慢してる本が破けても泣くことはなかった。
(ま、子供が寝ている時間すら、完全なる自由の確約はないんだが。)
子供から解放されたお家時間で、やりたいことは山ほどある。
- 先日破かれた本の続きを読む
- それ以外の本を読む
- ブログを書く
- いずれ出版したい本の構想を考える
- 日中やり残した家事
- 大人向けの番組を見る(ドキュメンタリーからバラエティまで)
- ネットでダラダラ
- 日記を書く
一人でやれることでも、ここまでやりたいことがあるのに、更に何よりも私は、夫婦だけでしっかり話す時間が大好きなのだ。
夫婦で話す時間は、私の一存だけでは実現しない。主人も主人一人でやりたいことが沢山あるのだ。
ただでさえも限られた子供フリータイム。正直、オンライン飲み会にまで回す余裕はない。優先順位は第50位くらい(つまり、今は不要ってこと。)
オンライン飲み会を主催する人、参加している人々、楽しそうだなー、とは思う。が、今の私に必要なものではなさそうだ。
オンラインにせよ、オフラインにせよ、私は大人数の会って苦手。基本的には1:1で話すのが好き。
だから、大好きな友人と1:1で電話することは、時々ある。
たとえば、この間話したのは、私のソウルメイトとも言える、イギリスの留学時代に出会った友人。もはや身内レベルの人とか。こればっかりは、本当にZOOMやらskypeやらネット通話のありがたさが本当に身に沁みる。
私の本当の身内、身内レベルの友人。
今の限られた自由時間内で、事前に約束してまで、一時間以上、話したいのはこの人たちだけ。
お仕事であれば、また話は別でしょう。そのためであれば、一時間以上誰かとお話しすることも、優先するはず。
だが、今の私にはそれもない。
オンライン講座、凄く素敵。そういう投稿も見る。素敵だなー、と思う半面、私はそういうコンテンツをまだ持っていなくて、なんだか焦りもある。
そんなことに焦るよりも、この「ママ、見て見て!!!」に応えることのほうが大切なのか?
次女ワカメちゃんが描いた絵、
長女れーちゃんが描いたお手紙。
クレヨンの殴り書きのような、大きな丸。ワカメちゃんは「だんご虫」を描いたのだとか。
上手な平仮名と、まだ下手くそな平仮名の混ざるれーちゃんのお手紙。
「まま、ぱぱ、ワカメちゃん、みんなだいすき」 だって。
「まま、だいすき」と書くのは一番上手。きっとこれが一番何度も何度も描いた文字なのだろう。
保育園に通えていた時期は、保育時間中に書いたお手紙を何枚もくれたことがあった。それにも、「まま だいすき」のお手紙が沢山あったっけ。
「まま だいすき」か…。
ストレス耐性が弱くて、とても「良い母」とは言えない私を、「だいすき」と言ってくれる。
その娘を前にして、うだうだ考えてる自分って…
色々と考えてしまう。
「自分は何もしていない気がする…」
オンライン飲み会や、オンラインセミナーの投稿は、自分にそう思わせてしまうもの。
けど、けど、現実的に、この子守月間の中、何もできない。
何かしているようで、何もしていない。ひたすら、子供たちと過ごす日々が、いつかは懐かしくなるのかな。
とにかく、今も、どんなときも、「今自分ができること」「今、自分が求められていること」をするしかないんだな。
それは娘たちと遊んだり、娘たちに人形寸劇(台本、演出、私)を見せたりすることなのだ。
心が浮かない理由、「オンライン飲み会」編について書いていたら、長くなってしまった。
残り(↓)は、別記事に書きます。
その2:「美味しいごはん作った♥」写真
その3:ブックカバーチャレンジ
これらも、結局自分の「何かしていない」を刺激するものなんですよね。
また追々。
☆☆☆秘密のFacebookグループ作りました☆☆☆
このブログに対する感想を話し合ったり、ブログには書けないもっと深い事をお伝えしたりする場にしたいです。
https://m.facebook.com/groups/548019025796481/?ref=share
ご興味がある方は、仲間になってくれたら嬉しいです♪
続、本を書いてみたい
本を書いてみたい、の続き。
プロに相談してわかったことは、
- 作者の思考によって、本そのものの捉え方が異なる
- おすすめ文体も異なる
- 読み手とのお付き合いの仕方も違う
そして、私みたいな人にオススメなやり方を教えてもらった。
今回は私の本について書くが、何かしら作品を作る人には役に立つかも。
順を追って、1-3の詳細を書きます。
1.作者の思考によって、本そのものの捉え方が異なる
思考には大きく分けて2タイプ。
- デザイナータイプ
- アーティストタイプ
あなたはどっちでしょうか。
プレゼン資料、絵、本、服、料理、なんでも。
人が何かを作る時、どんな思考をたどるのか。人によってそれが分かれるとな。
前者はニーズに答えるような作品を作りたい人々。後者は自分が表現したいものを作りたい人。
私は完全に後者のアーティストタイプ。
会社員時代は、もちろんニーズに答える仕事をしてたが、本質はアーティスト。「そこまで、こだわる?」的な仕事を黙々と、業務外なのにやってたり。(いや、何かしら喋ってたから、黙々と、は嘘だ。)
アーティストタイプ。
要するに、「俺の世界観はこれなんだ!これが好きじゃない人は、来なくて結構。これが好きな人にだけ届けば良い」というタイプ。
身近な人で思い浮かんだアーティストタイプは、昨年知り合った服飾デザイナーの木場さん。彼の世界では、イギリス式スーツだけがスーツで、他の細身スーツなんぞは紳士服と認めないとか。(昨年、私はフルオーダーのコートを一つ作ってもらった。とてもとても素晴らしいものです。糸一本にまで、愛を感じる。)
私のブログって、正にそういう感じ。今までネガティブ反応を頂いたこともあれど、「そういう人は読まなくていいよ」とお伝えしてきた。
自分が好きな物を作りたい。自分が書きたいものを書きたい。
これを好きになってくれる人がいたら凄く嬉しい。
けど、大人数に好かれるために、自分が思ってもいない事を書いたりできない。
お金になるけど、自分の意に反することをやるなんて、「魂を売る行為」だと思っているくらい。ちょっと極端。
完全にアーティストタイプである。
2.おすすめ文体も異なる
大まかに分けて、文体はこの3つ。
- 講演/体験記
- 実用書(How to本)
- エッセイ/コラム
どんな文体があるのか?までは、大人数講座でもわかった。出版プロとの個人相談では、私へのオススメがわかったこと。
ずばり、エッセイだそうで。
私は講演したことないし、私の書いてる話は実用的ではない。なんせタイトルが、打たれ弱いママの徒然日記。ご本家の徒然草は非常に面白いが、決して実用的ではない。
ブログの記事もよいけど、本を書くなら、もっと自分色を足して加筆すると良い、とオススメされました。
いつ完成するかは未定ですが、ただのブログ記事の寄せ集めではなく、もっと肉厚にする予定。エッセイならばオチもつけたいなぁ。
あ、もちろん、徒然草も大好き。このブログのタイトル「打たれ弱いママの徒然日記」にも拝借する位好き。彼らのオチには学びたいところ。
3. 読み手とのお付き合いの仕方も違う
ここについてもプロにしっかり解説してもらいました。
そしたら、今まで尻込みして、「本を出してみたい」気持ちを公表できなかった理由がよくわかりました。
沢山お見かけします。起業して自分のお仕事をガンガン宣伝している方たち。パワー凄いなぁ…とは思えど、なんか、私はそういう風にやれない…気が引ける…
アーティストタイプの私は、ガンガン宣伝したらいけないそうです。性に合わない!だから今まで尻込みしてたんですね〜。
「facebookで秘密のグループでも作ってみたら?」
恥ずかしくて一度もやってなかった。
いや、箱だけ作ったが、恥ずかしさのあまり、誰も招待することなく削除したfacebookグループがあった位…
今回はその恥ずかしさを捨て、作ってみた。
プロのアドバイスってすごいね〜!
この長いブログを末尾まで読んでくれた貴方、本当にありがとうございます。
末尾まで付き合ってくれる人だけに、グループのリンクをご案内します。
私を応援したいな、と思ってくださった方に入って欲しいです!
こちらです。
感想を教えてくださったり、「私も実は似たようなことで悩んでて…」みたいなお話をする場でもなんでもOKなグループにしたいなぁ。
コロナ太り、肉の大移動
みなさん、コロナ太りしてますか?
私は、してます。
去年の秋に比べると3-4キロほど増えてるよ〜。
私は元々、太りにくい体質で、ストレスでは痩せるタイプなのですが、今回のコロナでは違って、普通に太りました。
この際、体重は増えても減ってもどっちでも良い。贅肉がなんとかならないか、これが目下の課題。
体重よりも体型。
その昔、ベリーダンスを踊っていた頃は、それなりに腹筋もあったが、痩せてはいても、筋肉は衰える一方。
お腹引き締めのため、加圧タンクトップを買ってみた。肋骨〜下っ腹辺りまでを圧迫するタンクトップ。
効果ありなのか?なんか、くびれがハッキリしてきた!
と喜ぶのもつかの間。
脇腹の贅肉が減った代わりに、お腹の前側に脂肪が増えてる気がする。
これって贅肉が移動しただけでは…?
☓加圧タンクトップで痩せる
○加圧トップで、脇腹の贅肉が前側に移動した
民族大移動ならぬ、肉の大移動。
筋トレもしてないし、体重の増減もないわけだから、贅肉がこつ然と姿を消す訳もなく。
質量保存の法則。
他力本願な加圧タンクトップではなく、真面目に対策せねば。
運動不足で体中の毒素が溜まっていそうだし、一旦リセットするために、プチ断食ならぬ、もうちょい本格断食にチャレンジします!
昔一回だけ、一日だけ断食してみたら、相当でとになったんだよね。
ちょうどヨガ講師やってる友人に誘われた所だし、やってみよー。
分かち合えるために必要な条件
人が物を分かち合う理由ってなんだろう?
自分の取り分が減ってでも、分かち合いたい理由はなんだろう?あの時、どうして娘たちは大好きなドーナツを分けてくれたんだろう?
分かち合うのが苦手な私が、その理由を考えてみた。
結局は、○○が満たされていることが必要みたい。
長女れーちゃん(5歳)は、本当に小さいときから、分かち合えるタイプの子です。なんで私からこんな子が生まれたのか、と思うほど。
たとえば、去年の出来事。当時4歳だったれーちゃんと私は二人で近所にドトールに行った。妹が生まれて以来、ママと二人だけでお出かけの機会は滅多にない。近所のカフェと言えど、私もれーちゃんもウキウキ。れーちゃんはお気に入りの羊のぬいぐるみ、通称「ひったん」も一緒に出かけた。
※カフェでは非常に「ひったん」をかわいがっていたが、帰宅したら玄関付近にポイッと放置されてて、私はひっそり、「ひったん」に同情した。
私はミルクレープを、れーちゃんはワッフルを頼んだ。「いただきまーす」をした途端、れーちゃんはワッフルを半分にちぎり、ママに分けてくれた。
なんと!ママにはママにお菓子があったのに!しかも「その分ママのケーキを頂戴」とかも言わない。ただ、与えてくれたのだ。(買ったのは私だけど…親だから当たり前だし、それは「与えた」とは言わない気が…)
なぜ、れーちゃんは、見返りも求めず、ママに分けてくれたのか。
去年のドトールでは、「れーちゃんは本当に良い子なんだな。だから、嫌がりもせずに自然に分かち合えるんだな」と思っていた。
そして、先日の我が家のドーナツタイムでも、れーちゃんは自然に、自ら分けてくれた。
次女ワカメちゃん(2歳)は、妹らしく(?)人に分ける事よりも自分の分の確保に忙しいタイプ。末っ子三女である私もこのタイプ。
れーちゃんがドーナツを分けたら、ママがれーちゃんをとっても褒めた。それを見て、ワカメちゃんもドーナツを分けてくれちゃったり。
なぜ、ワカメちゃんは分けてくれたのか?
褒められたかったから?
いや、違う。
「こうするとママが喜ぶんだ!」
とわかったから、分けてくれたのだ。
人の喜ぶ顔が見たいから、
ママの喜ぶ顔が見たいから、分けてくれる。
主人も、娘たちの喜ぶ顔が見たいから分かち合える。
誰かの喜ぶ顔見たさに、人は分かち合えるものなんじゃないか。
冒頭のとおり、私は基本的には、分かち合うのが苦手だ。
では、私はなぜそれが苦手か?
誰かの喜ぶ顔を見たい、という欲求は、本来誰にでもある。それが第一欲求か、第二以下か、という所が違い。
(吸血鬼と人間の恋を描いた「トワイライト」にも似たような事が書いてあった。全ての吸血鬼は、人間らしい欲望を持っている。ただ、血を求める欲望の下に埋もれいるだけ、とか。)
では、性善説的に見れば、私にも「誰かの喜ぶ顔が見たい」欲求があるはず。
色々考える。
「誰かの喜ぶ顔が見たい」が一義的な欲求になる条件は、自分が満たされているといことではないか?
シャンパンタワーは、一番上のグラスが満杯になって初めて、下段にもシャンパンが溢れて行く。それと同じか。
私ったら一体何が満たされていないのか…
主人や娘、分かち合える人たちにか込まれて暮らすのは、嬉しい反面、自分の分かち合えなさが目について辛い。
けど、反面思う。
主人も、れーちゃんも、きっと満たされている。私は、家族の前で泣いちゃったりするけど、この三人が「満たされている」と感じるのに役立っているんだな、とも。
そもそも、最初から分かち合うつもりだった主人。
ママの「チョコドーナツいいね!!」一言に反応して、分けてくれるれーちゃん。
ママの「まあ、れーちゃんってば、あんたなんて良い子なの!」という感嘆に満ちた褒め言葉に背中を押されて、ドーナツを分けてくれたワカメちゃん。
分かち合うのが苦手だからこそ、こんな分析をしてみることもできたり。
三人とも、ドーナツを割と食べた後だったから、「分けてもいいや」と思えていたのかもしれない、もし一口も食べていない時だったら、分けてくれたかどうか…
なんて、邪推もしてみたり。
今日はホットケーキを焼いた。ホットケーキはすんなり分かち合えるが、多分、肉は分けれない。自分がたっぷり食べた!と思ってから、やっと分けるんだ!
分かち合うのが苦手な人がいたら、伝えたい。なんだか、罪悪感を持ってしまうかもしれない。それは、良し悪しではなく、性質だから、罪悪感を持つ必要はないかもしれない。
分かち合えない人がいるからこそ、分かち合える人の素晴らしさがわかるのかもしれない。
本当は、分かち合うのが、苦手
あなたは分かち合うことできますか?
自然に?我慢して?それともできない?
私は、分かち合うことが苦手です。
先日の二児のワンオペ散歩の後、ドーナツを買って帰宅。
ドーナツが教えてくれた「分かち合い」についてのお話です。
ノーストレスで二児のワンオペ外出が過ごせたのは、ドーナツのおかげだった。
帰宅して、家族4人でおやつタイム。
長女れーちゃんと、次女ワカメちゃんは、イチゴチョコがたっぷり乗ったドーナツ。(二人ともイチゴそのものは嫌いなのに)
私はモチモチのポンデ黒糖。
主人はドーナツの円の180度分にチョコがかかったドーナツ。
私が、夫婦用にコーヒーやお茶を淹れてるその間、あっという間に、次女ワカメちゃん(2歳)は自分のドーナツを完食。
完食したワカメちゃんは、パパのドーナツをじーと見つめ、つぶやく。
「それなに〜?」
そりゃあ随分可愛い声で。
狙ってる狙ってる(笑)
もっと食べたいのかな、と、私のドーナツをお裾分けした。ポンデリングの一ちぎり。1/8ずつ、れーちゃんとワカメちゃんに上げた。
それでもなお、ワカメちゃんの熱い目線は消えない。パパのチョコドーナツ欲しい!!と。
主人はドーナツのチョコがかかった部分を、娘たちにおすそわけ。チョコがけの部分を分けるとは、太っ腹だなぁ…と、私は見ていた。私だったらお裾分けできないかもしれない。
私「チョコのドーナツ!いいね!」
嬉しそうにチョコドーナツを食べる娘たちを見てて、言った。
私「チョコのドーナツ、嬉しいね。いいなぁ!」
れーちゃんはチョコがけの部分を分けてくれた。私は子供たちから分けて貰おうなんて、微塵も考えてはいなかったのに。
「まあ!れーちゃん!あんたってばなんて良い子なの。」
そう言ってたら、つられてワカメちゃんもママに分けてくれた。
全員がわけあいっこしたドーナツタイム。ドーナツの奇跡。
私はこの出来事もこっそり、でも、しっかりと分析していた。
私はね、本当は、分かち合うことが苦手なんです。
生まれ持った性格のせいか、育った環境のためか、理由はわからん。が、基本的には自分の食べ物を分けるのは苦手。
5歳の娘が自ら、分かち合ってくれるのに、恥ずかしい。が、それが私なんだよねぇ。
今回、私は、自分のドーナツを娘たちに分けた。それも、ストレスなく、ごく自然に。
これが、肉だったら、きっと分けれなかった。
これが、ドーナツだから、自然に分かち合うことができた。
理由は、私が肉好きだが、甘党ではないから。
どの程度の肉好きかというと、大概、結婚式当日の花嫁は忙しくて食事を食べれないのに、私は肉だけは完食した。(しかも、これをきっちり友人に目撃されてた(笑))
私は、甘党ではない。だから、ドーナツを丸々一個食べなくても全然平気。むしろ一個じゃ多いかもしれない。
頼まれずとも自然に分かち合える5歳のれーちゃん、ママが喜ぶ!と知って分けてくれた2歳のれーちゃん。
分かち合うことが苦手な私から、こんな二人が生まれてくれるとは。
みんなで分けっこして、楽しかったおやつタイム。
今回は分かち合えたけど、いつもは中々分かち合えない、好物のお肉なら自分が凄くダメな人間に思える。
分けたくないのではない、私が沢山食べたいのだ。悪意はない。けど、決して褒められる行為ではない。
どうして、自然に分かち合える人と、それが苦手な人がいるんだろう。
どうして、私は前者じゃないんだろう。私は分かち合うことは、苦手だ。
子育ての嬉しいのは、子供たちの善良な心が表現されている時。
子育てが辛いのは、自分にはその善意が持てない時や、自分の辛い思い出が刺激される時。
「自分は子供時代、○○をできなかったのに、私の子たちはやってるよなぁ…」(嫉妬?)
「我が子程、こんなに性格良い子じゃなかった」(自責)
好物って、実は災いも伴うのかもしれない。好き過ぎて、人に分け与えることができなかったりもする。
ドーナツは美味しい。
が、一番好きな食べ物ではない。
その位の方が、シェアすることを嫌悪したりしないのかもしれない。有限のものに関しては。
自分の大好物であっても、自然と分かち合えるような人間に、なりたいなぁ。
子供たちが眠った後に、テーブルに一人座る。昼間は、ドーナツを仲良く食べていたテーブル。そこで、自分の至らなさに涙してしまう。
これと言って、特別ではなかったドーナツというお菓子が、私にとって特別なものになった。
ドーナツ屋さん、れーちゃん、ワカメちゃん、そして主人よ。みんな、ありがとう。
もっと、自然に分かち合える様な豊かな心のママに、少しずつ、なれる努力をするね。もちろん、自己犠牲はしない範囲で。
ふざけたペンネームか、実名か??
本を書いてみたい。
それは先日書いたとおり。
それにあたり、悩んでおります。
実名で出すべき??
ペンネーム使うべき??
主人に相談したら、真面目にふざける答えが返ってきた。
主人に相談したら、キレッキレのエッジが効いてるペンネームにすべし、と言われたよ。
例1:「○○の会会長」。会員は私一人なのに、サークルっぽく振る舞う。
たとえば、理系、末っ子、イギリスかぶれ、という私の属性をとって…
- 文系撲滅の会(文系になん罪もないけど、理系の私の逆恨み)
- 第一子を潰す会(第一子になんの罪もないけど、末っ子の私との相いれなさを書く、とか?)
- アメリカ英語を認めない会(イギリス英語至上主義)
など。主人の提案は面白いが、ちょっとエッジが効き過ぎ感が否めない。むっちゃ恥ずかしいペンネームじゃん。ものすごく極端!
例2:商標っぽく「○○の気持ち」。
たとえば、「理科の気持ち」。
理系の私、でもかなり感情的なところもあるので、「理科の気持ち」とな。
理科だけど、理科の理論じゃなくて、気持ちとな。気持ちだけど、理科??
おいおい、「ねこの気持ち」じゃあるまいし。
「理科の気持ち」ってペンネームだとしたら、どんな本を書くことになるんだろう。
オススメのペンネームがあったら、募集します。
私の一番身近な人(主人)がここまでぶっ飛んだ提案してくるので、どんな変化球も受け取りはします。
ドーナツが救ってくれた、ワンオペ散歩戦略
自粛中とはいえ、全く外出しないわけでもなく。娘二人を連れてお散歩に行った。
私は二児の母なのに、ワンオペで二人を連れ歩くのは苦手!めっっっっちゃ嫌!
帰宅時間とか、場所とか、コントロールできない感じが。二人それぞれが勝手な方向に行く監視が不可能になる感じが。
ゆえ、たかが散歩でも、戦略が必要なのだ。今日の散歩の戦略は3つあった。
もう、準備してないと不安な私。ネガティブ星人。(留学の準備は適当だったのに、性格でも変わったのか。)
戦略①:移動はママチャリ
自転車のチャイルドシートに縛り付け…もとい、座っているので、二人が別方向に行ってしまう心配がない。安全面でもこれが良い。
戦略②:キャラクターの魅力&適度な狭さ
公園の遊具で遊べない今、外の遊び場は少ない。その少ない遊び場が、窓越し(おもちゃのディスプレイが楽しめる所。
公園よりも狭い面積なので、監視可能の視野内に収まってくれる。
キャラクターやおもちゃに食いつく娘たち。おもちゃ屋のプロは凄いなぁ。物凄く、かわいく、魅力的に並べている。可愛くて買いたくなっちゃう♥(いや、買わんけど。)
娘たちが、プリキュアやすみっコぐらしなど現代のキャラに目を輝かせる中、私がセーラームーンのグッズに心惹かれていた事は内緒。セーラームーン。私にとっては永遠のスター。
ムーンスターパワー!(私が好きだったのはマーキュリー。)
戦略③:ドーナツ
自分のコントロールが効かない子供と一緒でも、自分の望むタイミングで帰れる魔法の言葉があった。
「さ、ドーナツ🍩屋さん行こう♪」
このワンオペ散歩もそろそろ辛くなりそう…。そのタイミングで、ドーナツ🍩ロケット、発射。
砂鉄が磁石に引き寄せられるように、れーちゃんもワカメちゃんも、走って自転車に戻った。笑いながら。
砂鉄が引き寄せられる様ってそんなに美しくないんだよねぇ。ここで砂鉄が頭に浮かぶ私のセンスって…(´・ω・`)。あ、砂鉄の波紋の形はキレイなんですよ。
ドーナツの魔法により、ワンオペ散歩は無事に終わり、帰宅に至った。恐怖の二児のワンオペ散歩も、一度もイライラせずに済んだ。私にとっては、奇跡に近い。
そして、ドーナツの魔法は、帰宅してからも続く。
本を書いてみたい
このブログは、次女ワカメちゃんが生まれてから始めたもの。(これが初記事!)
ブログもワカメちゃんもこの夏で3歳。
三周年を記念して、本を出してみたいな〜。
とはいえ、どうやって作るものなのか。
「本を書いてみたい」願望はずっとあったものの、それを公言したことはない。なんか、恥ずかしいし、ずーっと尻込みしていた。
その尻込みがある中、なぜそれをブログで公言しようと思ったのか?を書きます。
結構恥ずかしいのーーー!
「本って、どうやって作るのか?」
内容の書き方について、2月に「電子書籍の作り方」一日講座に行った。
講座では「自分のコミュニティを作ろう」的な話をされたが、これ私、とっても苦手で!!!
こう、セルフプロデュース?とかコミュニティ作りに対して強烈な苦手意識があって、進まない。書くだけなら何の抵抗もないのに。。
でも、きっとこれを進めなければならないんだな、と先日感じた。
自分と向き合わなければ。
と。
きっと、本を書いてみることが、それにつながる、と。
そう思うきっかけをくれたのは、湿疹だった。
原因不明の湿疹が、しかも顔全体。
アトピー体質で、肌荒れには慣れるが、顔の肌荒れには慣れていなかった。
ボッコボコの真っ赤な顔に。鏡を見る度に落ち込むし、顔全体を掻きむしりたい痒さと苛立ちを感じた。少しでも暑くなると顔の赤みが増す。
どう考えても、原因はストレス。
どんなストレスって「自分らしい活動をしていない」ストレスだと思う。
家事も子育ても大事だよ。でも、私は、仕事がしたい。
コロナの影響で、仕事は全キャンセル。新しい仕事探しって感じでもない。
考えると「保育園がない今は仕事はできないよ」と、ストレスになる。だから、自粛中に仕事のことも、自分らしい活動のことも、蓋をしていた。本当は、そういうことを考えるのが大好きなのに。
自粛中は、子育てと家事しかしてなくて、そんな自分を見つめるのが嫌で、自分と向き合うことを避けていた。
「そうするとストレスになるから」と、如何にもな言い訳もつけて。
自分の感情に蓋をしていたら、体から危険信号が出てきた。それが顔が赤くボッコボコになる湿疹だった。
コロナの現状はどうしようもない。家にいるしかない。子供を、家族を、守らなければならない。
そんな中でも私が続けていることが、ブログだった。
この状況下でもできる、私にとっての「自分らしい活動」って、本を書くことかもしれない。
そう思って、友人のご紹介で、出版のプロに相談してみた。予約をした時から、顔の湿疹が改善されてきたのでびっくり。
ちょうど、昨夜、出版にプロとのセッションだった。
昨夜には、お肌もほぼ、元通りに。
死ぬような病ではないが、これまでも、病気で苦しい想いも沢山した。けど、病気がもたらしてくれた学びがある。その学びがなくては、今の私も、家族もいないような学びが。
結局は、病気ってのは、私に何かを決意させてくれるものなのかもしれない。何か、現状を変えるための決意を。
PS「このブログ記事面白かった」というものがあれば、教えてくださると嬉しいです♪
宗教は支配の道具。一神教は特に。
コロナにより、お祭りが軒並み中止・延期になっている。
東京の江戸っ子育ちである私は、お寺(仏教)の娘といえど、祭り(神道)と共に育ってきた。
そんな街でも、日曜日は、教会の礼拝の鐘が鳴り響いた。
神道、仏教、キリスト教、そんな複数の宗教が入り交じる中、一神教と多神教の違いでも論じてみようと思う。
日本語で祭り、英語でfestival。人が集まって何かをお祝いするというのは同じだが、決定的に違うのは神の居場所。
人間が神のおはす場所まで、足を運ぶのか。
神が人間の所まで、来てくださるのか。
祈りという行為を、いつどこで行うのか。それが指定されるのが一神教であり、指定されないのが多神教だと思う。
キリスト教の教会も、イスラムのモスクも、一箇所に一つであることが多い。小さな村では「教会」といえば一箇所に限定される。そして、決まった時間に礼拝があり、そこに人が集まる。
キリスト教なら日曜の午前礼拝、イスラム教ならば1日5回のお祈り、などといった所だろうか。
神社というのは、村に一つだけしかない、とは限らない。一つの村の中に、稲荷神と龍神、寺院が共存することは多々あるし。だが、日単位、週単位、月単位と短い周期で繰り返す、決まった時間でのお祈りはないと思う。
寺の坊主が毎朝御経を読むことはあれど、宗教関係以外の人がそれをするのは稀だ。(私の父は仏教寺院の住職だが、仕事以外に御経を読んでるのを聞いたことはない。遥か昔、私が生まれる前には御経の練習してたのかしら…)
※仏教は、多神教なのか、一神教なのか。議論はあれど、私は仏教は多神教だと思う。理由は、仏は複数種類存在するから。(菩薩が出世したら阿弥陀になる、など。キリスト教世界では、「大イエス」とか「中イエス」なんて存在しない。そんな呼び方したら不謹慎と言われそう)
いずれの宗教においても、お祈りや日頃の感謝は良きこととされており、それには全く同感。
その場所や時間を指定するのか否か。
そこに大きな違いがありそうだ。
時間も場所も指定しないからこそ、「神輿」という存在が思いつくのだ。神輿は、英語では portable shrine 、持ち運び可能神社。人間に担がれた神様が、氏子の町を見回り、人々は祈りを捧げたり、酒を浴びたりしているわけだ。
キリスト教文化で育った欧米人には、非常に理解しにくいコンセプトだ。
彼らにとっては、人間が神様のもとにわざわざ足を運び降臨を願うものであって、神様を担いで歩き回るなんてとんでもないこと。
唯一神の発想である多神教では、「神が今、ここに存在するならば隣町には今いないのではないか」とか思うのだろうか。(同時時刻に、2つの場所には存在してはいけないミッキーマウスのようだ。そういう意味では彼も神格化されているか。)
まあ、彼らにすれば、神を担いで歩き回ること自体がとんでもないのだ。
宗教とは古来から、人々を支配するための道具として使われて来た。
その昔のキリスト教会議でも、三位一体説が選択され、一神教色がますます強くなった。他説は認めない!的な。
- 場所(教会?モスク?)
- 時間(礼拝タイム?)
- 行動(お祈りの時の呟くセリフ、歌、お辞儀の仕方など)
場所も時間も行動も指定したら、支配しやすいのかなぁ…
日曜の朝に聞こえた、教会の鐘一つでここまで思いを巡らせる私ってば、なんと気難しいことか。
こんな脳みそだから、自粛の苦しさの中、本が破けて泣くほどストレスを溜めてしまったのだろうか。
いずれにせよ、宗教は今も昔を支配の道具に使われている。姿形を変えて、きっと、人類と共に存在し続ける。
※私は宗教のプロでもなんでもなく、私が書いた各宗教の習慣なんて、てんで、間違ってるかもしれません。あくまで個人的意見ですので、あしからず。不快な思いをされた敬虔な信者さんがおりましたら、この不届き者に一言教えてくださると嬉しいです。
破けた本と、散歩と、夕陽と
どんなに子供を愛していようとも、我慢強かろうとも、24時間子供と一緒にいるのは辛い。離れる時間だって大切なのだ。
そして、私はぜんぜん我慢強くない。
どんなにインドアな人でも、どんなにストレス耐性が強くても、コロナ下ではストレスが溜まるし、精神崩壊することもある。
インドアでもない、ストレス耐性も低い私。
精神崩壊した瞬間が、あった。
小さい子供の親の共通の悩みは ↓
- まとまった自分の時間が取れない
- 何事もすぐに中断される
- (二人以上子供がいる場合)すぐに子供同士が喧嘩する(かなりウルサイし、要仲裁なことが多い)
一日24時間の中、ずっと子守といえど、合計すると割と自由時間はある。けど、それはものすごーーく細切れな時間の集まり。2分ずつ、5分ずつ、長くて10分。
洗濯物を干すのも、自分の食事を食べるのも、掃除も、何から何まで、常に中断されるのが小さい子供との生活。
この外出自粛生活の中、私は読んでみたい本も沢山ある。本当は、本を読みたい。けど、2分だけの時間、5分だけの時間の読書ってすんごい難しい。
電車通勤してた頃は、乗り換えまで5分の電車でも読書していることもあった。
「決して誰かに邪魔されない5分間」
と、
「いつだって、邪魔される可能性が大いにある5分間」
は雲泥の差。
要するに、「自分の時間や人生をコントロールしてる感」が皆無で、一番ストレスになる。
読書ってそもそも、没入するのにちょっと時間がかかるから、2分だけ読むなんて難しい。小説みたいに前後の流れが大事なものは特に。
テレビを見ている間、集中して遊んでいる間は、親が手出ししなくて良いことが多い。
「あ、私が少しだけでもフリーになれそう。10分くらいは!!」
と期待して、積読していた本を見始めたら、2分目で邪魔が入った。仕方なく、本を置いて子供の相手。
その後、気がついた。
その私の本の表紙とページ一枚が破けていることを。
どうやら次女が破ってしまったらしい。
破けた本を見つけた瞬間、私は泣き出して止まらなかった。
読み始めて二分後に邪魔されるとイライラすることがわかっている。イライラで当たってしまうのは良くないから、読むことを我慢していた。子供たちのために。
それなのに、私の本を破いた。
父に借りた古い本。50年前出版の本だから、紙も表紙も傷んでる。それを大事にしながら、少しずつ読み進めてたのに…
それまでの我慢やストレスが、破けた本をきっかけに、とどめなく涙として出てきた。
わざとじゃない。絶対にわざと、破いたんじゃない。そうわかっていても、破けた本を見たら涙が止まらず、しばらく泣き続けた。
あまりにもママが泣いてるので、娘たちもびっくりしたらしい。自分がした事の重さを知った次女は、泣きながら謝ってきた。
「ママ、ママの絵本、ごめんね…」
と。
ママも大人げないよね…本が破けたくらいでこんなに泣いて…。いや、泣いた理由はそれだけじゃないんだけど、子供にはそう見えちゃうよね…。
精神の限界が来たと悟り、気持ちの切り替えのために、家族四人でお散歩にでかけた。大きめの公園に。夕方だったので、人も少なく、気温も下がり、夕陽もとても綺麗だった。
散歩は非常に良かった。
家の中ではおもちゃ取り合いの姉妹喧嘩が多発するが、お散歩中は喧嘩しないし、森の中の空気は気持ち良いし、みかん色の夕陽がなんだか心を癒やしてくれた。
さんざん泣いていた家に帰ったら、全く違う気分だった。
薄く紫がかった西の空を見ながら、思った。
「空ってこんなに綺麗なんだ」
と。
なんだか、一つ悟った様な気持ちだった。
密になる場所に出かけるのは良くない。けど、外出自粛だからといって、100時間も自宅にいることもできない。
誰だって、狭い場所にずっとずっと押し込められたら、おかしくなる。
散歩って素晴らしい。
これほどまでに、散歩の素晴らしさを思い知ったことはない。
本が破けたことは悲しいけど、破けたのは表紙と巻末の広告だけ。セロハンテープで、主人がきれいに直してくれた。
破けた本があったからこそ、散歩の素晴らしさも、空の美しさにも気づけた。
鬱々してきたら、皆様も散歩してみましょう。人混みは避けて。
散歩ができないときは、夕陽を見ましょう。窓からでもいいから。
遊具は禁止、パチンコは開いてる事への怒り。
未就学児と24時間、外出自粛の日々。皆様どう過ごしていますか?
我が子は二人共、0歳から保育に通っている。ゆえ、こんなに長期間、24時間未就学児二人の子守をするのは初めて。
幸い、長女れーちゃん(5歳)も次女ワカメちゃん(2歳)も結構インドア派で助かってはいるものの、運動も必要なので、数日に一回は公園に行っていた。
大好きな滑り台、大好きなブランコ。
「立入禁止テープ」の貼られている、娘たちお気に入りに遊具が使えなくなった。
感染防止を考えたら、遊具禁止になるのはわからないではない。涙を飲んで、違う遊びをした。ストライダーに乗ったり、鬼ごっこしたり、階段で遊んだり。
子供たちの数少ない楽しみであった、公園の遊具。それが奪われた。
仕方ない。
仕方ない…
けど、
なんで公園の遊具はダメで、パチンコ店や風俗店は開いてるのか?
遊具を使って思い切り遊ぶことは、子供にとって楽しくもあり、身体発達のために必要なことだと思う。
それでも禁止しなければならないこの状況であるならば、
パチンコや風俗もいらないのでは?
パチンコ風のゲームは、スマホやテレビでもできるし、風俗って…それこそ我慢しろよ。
学校が休校になっても、保育園が休園になっても、公園遊具が禁止になっても、未だにパチンコや風俗に行く人の気がしれない。
そして、遊具を禁止する権限がある人が、なぜパチンコや風俗を厳しく取り締まらないのか。
大人の事情があるのだろうが、全然納得が行かない。
おっさんの欲望は禁じないし、さしたるお咎めもない。
子供の楽しみや成長に必要なことは、禁止する。
権限がある人は、おっさんがほとんど。おっさんはおっさんの欲望には甘いものなのか。
こういうのをダブルスタンダードと呼ぶ。
こりゃ少子化にもなる。
いつか、今の子供たちもしょうもない「おっさん」になってしまうのか。(既得権益おっさんを再生産しているのは、男性だけではなく女性にも責任がある。特に、「都合良い良妻賢母」をやってると、息子はダメおっさんになる可能性高い。)
いつかまた、公園の遊具で楽しく遊ぶ娘たちを見たいなぁ。
早く、そんな日が来ますように。
それまで、家で、ケーキを焼いたり、掃除を念入りにしたり、ぬいぐるみでお店屋さんごっこしたり、とお家で過ごす工夫をするしかない。
ラピュタのパズーに注意する5歳児
曇りなき眼で世の中を見る子供の発言は面白い。
先日、長女れーちゃん(5歳)と次女ワカメちゃん(2歳)と「天空の城ラピュタ」を見た。
れーちゃんってば、とあるシーンで、シータとパズーを注意してた。
再びラピュタネタです。
問題のシーンとは、地下に逃げ込んだパズーとシータが、目玉焼きが乗っかったトーストを食べる所。
ここは私にとっても印象深いシーン。私の子供時代は、同じく目玉焼きトーストを作り、画面の向こうのパズーとシータと一緒に目玉焼きトーストを食べたりしていた。
れーちゃんは、この二人の食べ方に注意していた。
「パンと一緒に食べないといけないのに、目玉焼きだけを先に食べちゃったよ!!」
と。
(@_@;)
主食を食べずにおかずばかり食べようとする子供に、私は注意するのだ。「ご飯も食べないと!」と。親からのこの注意を聞き過ぎて、パズーとシータも諌めようとしたのか。
ちなみに、「ご飯も食べなさい」と注意されるのは大概妹のワカメちゃんの方。
れーちゃんは好きなものは最後まで取っておくタイプ。
ワカメちゃんは好きなものは最初に全部食べちゃいたいタイプ。
姉妹とは思えないほど性格が対照的な二人。ぶっちゃけ、同級生だったとしたら、れーちゃんとワカメちゃんが仲良くなるとは考えにくいが、喧嘩しながらも二人は仲良し。兄弟の縁は不思議だ。
自分に対する注意でなくても、耳にタコができるほど聞いている言葉は、脳内に刷り込まれているらしい。
アニメの主人公に対してまで、食べ方の注意をするとは…。娘の言動を見て、我が身を振り返る。
私ってばそんなに注意しているのかしらん…親として、果たしてこれでいいのか…(と、きっと永遠に思い続けるだろう。その時のベストを尽くしてもそんなものだと思う)
しかし…緑の常夜灯を見て「飛行石だ!」と言ってたのも、パズーの食べ方を注意するのも同一人物。それが、長女れーちゃん。
きっとれーちゃんは、ちょっとした不正も見逃してくれないに違いない。真面目で安心できるのか、それとも親を注意するようになるという点で不安なのか。
何事にも二面性を感じる春の夜。